狭間の刻 7 |
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左手で手綱を操りながら、フィリップは両刃剣を振るった。渾身の力で叩き込めば、敵の兜はひしゃげた。返す手でもう一打。 フィリップは騎士を馬から落とすや、すぐに馬首を巡らせた。 一瞬の躊躇が命取り、それが先駆けだ。 フィリップは一時(いっとき)アシルのことを忘れることにした。 ただ、これだけを心に誓った。 生きて、もう一度アシルに会おう。 自軍は二百騎だが、狭い跳ね橋の上では三騎立つのがせいぜいだ。 フィリップとエスターシュ、そして同じ騎士団の騎士一人とで、最前線に立っていた。本来ならその騎士の場所にはアシルがいる筈だった。 そう、いつものようにアシルが隣にいれば、どんなにか心強かったろう。 傍らではエスターシュが歩兵を馬の蹄に掛けていた。 エスターシュは信頼は置けぬものの、機にして敏な男だ。側において損はない。 それはエスターシュも同じ気持ちであったのだろう、エスターシュはフィリップに寄り添うようにして戦っていた。 自軍とて、もちろんフィリップたち三人だけを戦わせていた訳ではない。城壁から矢は雨霰の如く降り注ぎ、攻囲軍の戦意を削ぐ。 二人を馬から引きずり降ろしたところで、フィリップは騎馬の疲弊を防ぐため、背後の騎士と入れ替わった。エスターシュもそれに倣う。 戦いつつ、少しずつ馬を後退させていく。 敵に圧されたと思わせて、城壁内に誘い込む。そして敵の目を引き付けているうちにシャロレ伯率いる補給部隊を東門から引き入れるのだ。 市門の上の楼閣には変わらぬアシルの姿があり、当たり前であるにも関わらず、安堵した。 そして戦況を見極めようと視線を戻した、その時。 面頬を下ろし、アシルを見ているエスターシュに気付いた。エスターシュの青灰色の瞳には先程の自分が浮かべたものと同じ、紛れもない安堵の色が浮かんでいた。 衝撃が全身を駆け抜けた。 ――お前か! お前だったのか、エスターシュ! エスターシュと口論になり、フィリップがアシルの部屋を訪れたあの夜、アシルは明け方まで戻らなかった。 そう、アシルは知っていたのだ。 エスターシュと同室のフィリップが部屋にいないことを。 そして今朝はしきりに苛立っていたエスターシュ。落とし格子の上げ下げという重要任務がアシルに与えられたことが気に入らないのだろうと思い込んでいた。 だが、そうではなかったのだ。 エスターシュは見たのだ。闇夜であれば、見たというのは、必ずしも正しい表現ではないだろう。気配、そして匂いで気付いたのか。 あの天幕の垂れ布を捲り上げたのは、エスターシュ。 何をしに来たのか。 決まっている。アシルの同室者が娼館に走ったことを聞き付けて、恐らくはいつものように……。 頬が徐々に朱に染まっていくのが自分でもわかった。どうしてもエスターシュから目を逸らすことが出来なかった。 自分に注がれる視線に気付いたのだろう。エスターシュは視線を巡らせ、そこにフィリップを見つけた。 二人の視線は真っ向から絡んだ。 フィリップは糾弾するような目つきをしていたに違いなかった。それを見、エスターシュもまた思い当たったのだろう。 昨日アシルと睦みあっていたのが、誰だったのか。 エスターシュの青灰色の瞳が大きく見開かれたかと思うと、そこに驚愕の色が浮かんだ。 その瞬間、背後から鬨(とき)の声が上がった。 背後から、である。敵のいる前方ではない。 考えられるのはただ一つ、裏切りがあったのだ。 思いもかけぬ背後からの奇襲に、浮き足立った先駆けはたちまち討ち取られ、跳ね橋は敵に占拠された。 守備軍は総崩れとなった。 蓋を開けてみれば、挟み撃ちにされたのは敵ではなく自軍だった。 フィリップがとっさに市門の上の楼閣を見ると、そこにアシルの姿はなかった。 落とし格子の操作をしているのか。 フィリップは馬に拍車を掛けると、城門を目指した。 これまで気付かなかったのが不思議なほど。アシルのこととなるといつも執拗に絡んできたエスターシュ。フィリップの前では、互いに口も利かなかった二人。 フィリップは一心不乱に剣を振るっていた。馬上から襲いかかる騎兵を切り伏せ、歩兵を躱す。普段なら、一馬走もない市門までの距離が果てしなく遠い。 エスターシュはフィリップとアシルの関係を以前から疑っていたのだろう。だから探っていた。時折、臆病な兎のような素顔を垣間見せながら。 フィリップは手綱を引き絞り、馬を棹立ちにさせると、歩兵を足蹴にした。 二人は顔を合わせれば、いつも喧嘩ばかり。その度にフィリップは仲裁に入った。だが、いつの頃からだろう。二人は全く口を利かないようになった。 市門の近くまで来ると、やっと状況が飲み込めた。楼閣ではアシルが敵兵と剣を交えていた。下方には跳ね橋を下ろさせまいと番兵に取り付く敵兵の姿がある。 「――させぬ!」 フィリップは騎馬の上から敵兵を薙ぎ払った。 いつからだ。二人が全く口を利かなくなったのは、いつだ。 恐らくその頃から始まっていたのだろう、二人の関係は。 鍔迫り合いに競り勝ったのは、アシルだった。敵兵を楼閣から蹴り落とすなり、ウィンチを操作して落とし格子を下ろした。 それと時を同じくして番兵が跳ね橋を上げた。 跳ね橋から零れ落ちる敵兵はまるで虫けら同然だった。騎馬は高い水柱を上げて堀に沈んだ。兵の叫び声と脚を折った馬の悲痛な嘶き。 「アシル!」 フィリップは楼閣に向けて叫んだ。 敵兵は落とし格子を再び上げさせようとアシルに迫る。果敢に応戦するアシルだったが、楼閣に取り付く敵兵は増える一方だった。 何かがおかしい、とフィリップは思った。跳ね橋は上げられ、落とし格子は下げられた。それなのに――。 くん、と鼻を蠢かすと、何かが焦げるような匂いが鼻に付いた。黒煙が立ちこめていた。火が点(つ)けられたのだ。 他の場所にある市門が破られたのだろう、敵兵が一気に雪崩(なだ)れ込んで来た。 フィリップは声の限り叫んだ。 「――市門が破られたぞ。撤退だ!」 守備軍は約二百騎。守備側であれば充分な数だが、一度(ひとたび)市門が開けられてしまえば、全くの劣勢となろう。 留まっていては嬲り殺しになるばかり。 「アシル!」 フィリップの叫びが耳に届いたのか、アシルは楼閣から飛び降りた。 兜は吹っ飛び、顔の左半分からおびただしい血を流していた。鎖帷子は喉の部分で引き千切れている。 騎士見習いの手を借りて、フィリップはアシルを自分の馬の後ろに乗せた。 フィリップは火の粉に怯える馬を駆り立て、アシルのために血路を開いた。 この男だけは死なせない。殺させない。そう心に決めていた。 走れ、走れ、敵の剣を掻い潜り。 逃げろ、逃げろ、この街から。 市内はさながら地獄絵図だった。 既に略奪が始まっていた。胴体を真っ二つに切断された男、犯される女、小さな子供たちまでもが無慈悲にも軍馬の蹄の餌食となっていた。 常に守備軍に協力を惜しまず、顔見知りになっていた者も多いコンピエーニュの市民を見捨て、敗走するしかない自分が恨めしかった。 斬り、薙(な)ぎ払い、ひっきりなしに拍車を掛け、手綱を引き、フィリップは夢中で馬を走らせた。 東門から街を出、命からがらコンピエーニュの森に辿り着いた時には、二百騎の守備軍は三十騎の寡兵に落とされていた。 ようやく安全だと思える場所に来ると、フィリップはアシルを馬から降ろし、地面に横たえた。 アシルは革袋の水を貪るようにして飲み干し。 「木馬だ、フィリップ……」 「喋るな、アシル」 「……トロイの木馬。給糧部隊が運び込んだワイン樽(バレル)。そこに敵が……」 アシルは聞き取りにくい声で言った。 「お前の予言は本当に……、ッ…良く当たる」 |
つづく |
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