狭間の刻 8





 コンピエーニュはアルマニャック派の手に落ちた。
 満身創痍でディジョンに戻った騎士団に待っていたのは、ブルゴーニュ大公からの厳しい取調べだった。
 フィリップとエスターシュは取調べの後、軟禁状態に置かれ、狭い私室に向かい合って座っていた。
 敗残の兵は冷遇されるものと決まっているが、この扱いは奇妙だ。
 アシルは傷の癒える間もなく衛士に引っ立てられ、未だ騎士団本部には戻っていない。既に半日が経過していた。
 アシルの怪我は重いものだった。顔の傷痕も残ることだろう。そんな状態で半日にも渡る取調べとは――。
 大公殿下は一体何をお疑いなのだろう。
 ふと顔を上げると、そこにはエスターシュがいた。エスターシュは鉄壁の無表情を決め込んでいた。
 あれほどアシルを悪し様に言っておきながら、その裏では肌を合わせていたのかと思うと腸が煮えくり返る思いだった。あれは何だったのか、牽制か。女の腐ったような奴と言われたとしても仕方あるまい。
 その取り澄ました美しい顔をめちゃくちゃにしてやりたい。まるで嫉妬に駆られた女のような衝動をフィリップはやっとのことで抑えていた。
 扉が開き、ひどく慌てた様子で騎士仲間が入って来た。
「アシルが投獄された」
 フィリップはすぐさま腰を上げ。
「何だと」
「敵と内通していたとの疑いだ」
「馬鹿な!」
 フィリップは知らせを伝えに来た騎士に、そして背後のエスターシュに言い聞かせるように言った。
「アシルは私に言っていたぞ。シャロレ伯率いる給糧部隊が運び込んだワイン樽、そこに敵兵が潜んでいたと。疑うべきはシャロレ伯であろう」
 力押しで攻めるしかない攻囲軍は、物資に兵を潜ませ、坑道を穿ち、門番の買収を謀り、およそ考えつく限りの手段を講じて、門を開けさせる方法を考える。
 攻城戦の最中に差し入れられた物資は入念に調べるのが常。それは、それこそトロイア戦争の時代から使われた古典的な手段だからだ。
 それを怠ったのは、大公の子息たるシャロレ伯からの補給物資だったからに他ならない。
 フィリップの言葉に答える者はいなかった。
 皆、口にせずともわかっていた。大公の子息たるシャロレ伯を断罪出来る者などいないことを。
「大公殿下にお目に掛かる」
 フィリップは足早に扉に歩み寄ると、後ろを振り返り叫んだ。
「お前も来い、エスターシュ!」
 そして思った。この男に命令するのは初めてのことだな、と。
「シャロレ伯と懇ろのお前が真実を知らぬはずがない」
 エスターシュは蒼白な顔で、しかしかぶりを振った。
「何のことだ」
「しらばっくれるな!」
 フィリップは激昂した。長靴の踵を鳴らしてエスターシュの側に行くと、その胸倉を掴み上げ。
「私はお前の首に縄を付けてでも大公殿下の元に引きずり出すぞ!」
 項垂れたエスターシュの腕を掴み、居館を出るや、フィリップたちの前に衛士の槍が立ちふさがった。
「お戻り下さい、ダルブレー殿、ボーテ殿」 
 衛士は有無を言わせぬ強い語調で言った。





「奇特な奴だな。僕はボーテの城になんて戻りたくもない」
 しきりに故郷を恋しがるフィリップにエスターシュは冷たく言った。
 フィリップとて、生まれ育ったアルブレー城をそれほど深く愛していた訳でもなかった。
 アルブレー城の跡継ぎとして何不自由なく育ち、人を使う身分だった自分が、突然人に使われる立場になったことが理解できなかった。
 いや、理屈ではわかっていたが、感情がそれを許さなかった。
 城に戻れば自分も……、そんな思いが故郷への郷愁にすり替わったのだろう。
 毎晩、同じ寝台で声を押し殺して泣くフィリップが鬱陶しくなったのかもしれない。
 ある日、奉仕の合間を縫って、アシルはフィリップを居館の裏に誘った。
「ブランコを作る」
 フィリップに縄を渡しながら、アシルは言った。
「手伝え」
 アシルに肩車をしてもらい、フィリップは苦労して大振りの枝に縄を掛けた。
「俺は笑わない」
 アシルは四隅に穴を開けた木の板に縄を通し、器用に二重の八の字結びにしながら。
「俺の城にはよく山(アルプ)から人が来る。だが、山から来た奴は大抵長続きしないんだ。故郷の草花やら氷河やらを恋しがり、荷物を纏めて夜逃げする。痩せ細って死んでしまった奴もいたそうだ」
 痩せ細って死んでしまう。
 ディジョンに来てからというもの、極端に食が細くなっていたフィリップは、その話が他人事とは思えなかった。
 アシルはフィリップに大真面目に忠告した。
「故郷の墓の土を飲むと治るらしいぞ」 
 相手は自分と同い年の子供だというのに、この落ち着きぶりは何だろう。
 アシルは出来上がったばかりのブランコにフィリップを乗せると、その背中を押した。ブランコが空高く上がると、ディジョンに来てからというもの、奉仕に追われ、ついぞ見上げることもなかった空が見えた。
 空は青く澄み切っていた。ブランコが空高く上がれば上がるだけ、自分の心も澄み切っていくような気がした。
 そんなフィリップの思いを知ってか知らずか、アシルは自分の腕が痛くなるまでフィリップの背中を押し続けた。
 フィリップは大いに笑った。こんなに笑ったのは、ディジョンに来てから初めてのことだった。
 そんなフィリップを見て、アシルも笑った。
 アシルと初めて会ってからまだ一ヶ月にもなっていなかったが、その瞬間、フィリップはアシルを心底から理解したように思ったのだった……。





 長い追憶から覚めるや、フィリップは周囲を見渡した。
 ニ百騎が三十騎の寡兵にまで落とされたのだ。騎士団の置かれる居館の大広間は閑散としていた。
 しかしフィリップたちは失った仲間を静かに悼んでさえもいられなかった。
「アシルには相手がいただろう」
「自分もよく部屋を空けていたからな。詳しくは知らない。決まった相手がいたことは確かだ」
 辛くも生き残ったアシルの同室者であった。
「それがどうかしたのか」
 フィリップは無言で首を振った。
「アシルはフィリップ殿の失策を誤魔化すための犠牲にされたのか」
 騎士の一人が独り言のように言った。
 互いに命を預ける騎士団の結束は固く、今ここにいる者たちの中で、アシルの裏切りを信じる者はただの一人もいなかった。
 アシルの同室者も深々と頷き。
「或いは初めからそのつもりだったのか」
 初めからアシルに罪を擦り付けるつもりだったのか。
 落とし格子の上げ下げの任務にアシルを付けたのは、他ならぬシャロレ伯だ。元来、大公の跡継ぎたるシャロレ伯が危険を冒して給糧部隊を率いる、そのこと自体不自然だった。
 フィリップは尋ねた。
「これからどうなると思う」
「敵と密通した騎士に下される量刑は決まっている。縛り首だ」
 裁判も行われぬまま、それが行われることは目に見えていた。

――どうする? どうしたらいい。
 何とかしなければ。いや、何とかするのだ。

 フィリップは長剣を手にすると私室に戻った。
「エスターシュ」
 エスターシュは寝台の上で膝を抱えて座っていた。
 やや青ざめてはいるものの、やはり変わらぬ無表情。
「手を貸せ」
 この男は何を知っているのだろう。何を考えているのだろう。十三年もの歳月を共に過ごしながら、何一つわからない。それがたまらなく悔しい。
「でなければ、今この場で私はお前を殺す」
 言うなり、フィリップは鞘を払った長剣をエスターシュの首に突き付けた。





つづく
Novel