狭間の刻 9 |
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「居館を見張っている衛士は二人だ。衛士の目を誤魔化し居館を脱出し、納屋に火を点ける。主だった騎士たちは皆、消火に出払うだろう。その隙に私はアシルが投獄されている地下牢に向かう。それ以外の者は、火を点けたらすぐに居館に戻る。全員で吊るされるのは、割に合わぬからな」 「放火は火あぶりの刑だぞ」 「それがどうした」 フィリップは気迫でエスターシュを圧した。 「城門の鍵はお前が手に入れろ。出来ぬとは言わせぬ」 まるで剣の上に立っているような会話だった。 相手に飲まれた方が負けだ。だが、フィリップの負けはアシルの死に直結している。フィリップは口早に。 「シャロレ伯がお前に用意した餌は何だ」 勢いに飲まれたのだろう。エスターシュは掠れ声で。 「伯爵位だ」 伯爵位、権勢欲の強いエスターシュにとって、またとない好餌になったことだろう。何を考えているのかわからない男だが、心を大いに揺らされたことは容易に想像が付いた。 フィリップは鼻先で笑った。 「伯爵(コント)か。また安く見積もられたものだな。私なら王(ロア)の座を約束されても引き受けぬ」 煽れ、煽れ。 この男の臆病な兎の素顔を引きすりだせ。 「戦を前にしてアシルと寝るつもりだったか。残念だったな、私に食われて」 フィリップはついにパンドラの箱を開けた。 このまま互いに知らぬ振りをし続けることも出来たろう。 だが、エスターシュはこうあらねばならぬという虚像と、臆病な兎の実像の間で揺れていた。 虚像に引きずられぬためには、より大きな衝撃が必要だったのだ。 「……」 エスターシュの沈黙が、フィリップの当て推量が図星であったことを如実に物語っていた。 「絞首台に吊るされたその時、アシルは一体何を思うことだろうな」 エスターシュが手で顔を覆い尽くしたその時、フィリップは自分の勝利を確信した。 エスターシュが再びシャロレ伯側に寝返らないとも限らない。鉄は熱いうちに打て。 その晩、フィリップたちは計画を実行することとした。 騎士は主君の刀礼をもって騎士となる。刀礼の儀式の後は祝いの席となり、さんざん飲み食いをしたその後で、互いに殴りあう。 それは文盲が多かった時代の名残りだという。記録ではなく記憶に留めるため、痛みによって思い出を際立たせるのだ。 痛みを共有し、幾度となく死線を共にした騎士団の結束は固く、アシルの救出作戦に異議を唱えるものは誰一人としていなかった。 賛課の鐘が鳴る前に、騎士団の仲間たちは密かに居館を脱出した。 フィリップとエスターシュの二人は居館の陰で、衛士を見張っていた。ねぎらいと称して、しこたま振舞われた葡萄酒の効果が出たのだろう。衛士たちは居館の壁に凭れて眠りこけていた。 「城門の鍵だ」 いかなる策を講じたものか、エスターシュは約束通り、城門の鍵を手に入れていた。 「一つだけ聞きたい」 フィリップは城門の鍵を上衣(プールポワン)の隠しに忍ばせながら。 「トロイの木馬の目的は何だったのだ」 トロイの木馬、それはシャロレ伯率いる給糧部隊が持ち込んだワイン樽(バレル)のことだった。 教えてくれるとは元より思っていなかった。だが、エスターシュは良心の呵責に耐えかねたのだろう、意外と思えるほど容易に。 「シャロレ伯はイングランドと手を組みたがっておられた。だが、大公殿下はそれを承知されない。欧州一のブルゴーニュ大公国の威容をもってすれば、フランスもイングランドも恐るるに足らずと」 エスターシュをエスターシュたらしめていた、人を人とも思わぬ高慢な態度は今は鳴りを潜めていた。 「大公殿下に揺さぶりをかけられたかったのだろう。大公家の内部にはひそかに過激派が存在する。ルイ・ドルレアンを暗殺したのも、その一部の過激派が暴走したからだ。私は……」 何を言おうとしたのだろうか。フィリップは一度は口を開きかけたものの、不自然に唇を閉ざしてしまった。フィリップはそれ以上の追求を諦めた。口にしては、たった一言。 「そうか」 夜明けにはまだ早い。しかし城の一角がぼうっと明るくなっていた。納屋の方角だった。火を点けることに成功したのだ。 「お前は部屋に戻っていろ」 フィリップはそう言うと、踵を返した。背にエスターシュの声が掛かる。 「フィリップ」 気を付けろ、と言いたかったのか。それとも、アシルを頼むとでも言いたかったのか。 振り向いたフィリップの目前で、臆病な兎を思わせるその顔は奇妙な無表情へとすり変わり――。 エスターシュは言った。 「何でもない」 フィリップはアシルが投獄されている地下牢のあるバールの塔へと向かった。 アシルの両手持ちの剣を背に負い、右手で自分の長剣の柄を握ったまま、石造りの螺旋階段を駆け下りた。足音を聞きつけた牢番が階下から誰何の声を上げる。 「誰だ!」 「――火事だ。手隙の者は皆、消火に向かえ!」 フィリップは壁にぴったりと張り付き、右手の剣を隠した。 狭い螺旋階段は人一人が通り抜けるのがせいぜいだ。牢番がフィリップの前に来ると、フィリップは身体を斜めにし、牢番が通り抜けられるようにしてやった。 牢番がフィリップの横をすり抜けようとする、まさにその刹那。フィリップの剣が牢番の胸を貫いた。 両腕に力を込め、牢番の身体を持ち上げながら、より深く、心の臓を貫く。 長剣の柄を伝って流れる血がフィリップの手を生温かく濡らした。 牢番の眼は眼窩から飛び出しそうなほど大きく見開かれ、やがて絶命した。 フィリップは牢番の死体を壁にもたれさせると、その腰帯から鍵束を取り上げた。 「アシル!」 「フィリップか!?」 フィリップは牢の鉄格子に飛びついた。 アシルは手と足を鎖で縛られた状態で牢の中にいた。 鍵束の中から牢の鍵を探し当てる。血で滑る指先は上手く鍵を扱うことが出来ず、一、二度、失敗した後で、ようやく鉄格子が開いた。 「ここから逃げるんだ、アシル。ぼやぼやしていたら縛り首だぞ」 アシルの鎖を解くや、二人は城門に向かって駆け出した。 城内の者は皆、火事の消火に出払っていて、前庭を走る二人の姿を見咎める者はなかった。 城門の鍵を開け、跳ね橋ではなく、普段は通用門として使用されている簡易な板橋を下ろす。 「誰だ!」 居城から走ってくる人影があった。 フィリップはアシルに用意していた路銀を押し付け。 「私が追手を引き付けている間に逃げろ」 「捕まったら、今度はお前が縛り首だぞ!」 「ブランコの礼だ」 踵を返して走り出そうとしたフィリップの手をアシルが素早く掴んだ。 「フィリップ」 きっとこれが永遠の別れとなる。恐らくアシルはそう思ったのだろう。 咄嗟の衝動に突き動かされて手を掴んだものの、掛ける言葉が見つからない様子だった。 「――アシル」 これで終わりなのか。 もう二度と会えないのか。 そう思った瞬間、フィリップの唇からひとりでに言葉が滑り出ていた。 「パリで!」 パリに、と言わず、パリで、と言った。 フランス王国の都パリは宿敵アルマニャック伯が支配していた。そう、敵の敵は味方だ。 アシルは大きく頷くと、板橋を一散に駆け出した。 フィリップはアシルが対岸に辿り着くのを見届けてから板橋を上げ、城門の鍵を堀に投げ捨てた。 鞘を払い、腰帯に付けた長剣を抜く。 ――大丈夫、悪い予感はしない。 さあ、行こう。 フィリップは自分の内にある予言の能力を信じた。 |
つづく |
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