子羊は惑う 1





 それはほんのちょっとした気まぐれだった。
 『お父様がお亡くなりになられました』 顧問弁護士から電話口で伝えられたその言葉が全ての始まり。生まれてから一度も逢ったことのない父親に最後に一目、そんな殊勝な理由からではないだろう。恐らくは好奇心、一般の弔問客に紛れて焼香を済ませ、顔だけ拝んで帰る、そのつもりでいた。
 地下鉄の出口を出ると葬祭場を示す張り紙が目に飛び込んで来る。張り紙に書かれた家の名を慎重に確かめてから葬祭場に向かう。
 金木犀の盛りだった。鼻腔を擽るその香りに気付いた友弥は、足を止め、秋の澄んだ空気を深々と吸い込んだ。
「蓮!」
 聞き覚えのない少女の声が背後から掛かったのは、まさにその瞬間。
「珍しいわね、あんたが時間通りに来るなんて。どういう風の吹き回し?」
 声と同時に、腕に少女のか細い腕が滑り込んで来る。
「遅刻か、昨日みたいにすっぽかすんじゃないかと思ってたわ。嫌いだったんでしょ、おじいさまのこと」
 自分が誰かに間違えられていることに気付くまでしばらく時間を必要とした。恐らく親戚の内に似た背恰好の人間がいるに違いない。実際、親族とは血が繋がっているのだから似ている人間がいても不思議はない。少女は間違いに気付く様子もなく、友弥の腕に自らの腕を絡めたまま、足早に歩を進めている。
「でも、通夜をすっぽかすなんて思い切ったことしたわね。見舞いにも行かなかったんですって? 右京叔父さまはカンカンよ。四方堂のおじ様があんたの代わりに謝って下さったの、私の躾が悪いって。傍で見てて可哀相なくらいだったわ。あんた、四方堂のおじ様にきちんと謝らなきゃ駄目よ」
「あの……、ちょっと!」
 とめどなく続く少女の長口舌を遮ろうと友弥は声を荒げた。
 腰まである漆黒の髪を揺らし、振り返った少女の姿に驚く。稀に見る美少女だったのだ。
「……うそ、蓮じゃなかったの?」
「俺がどうしたって、摩耶」
 初めて聞く声、それは確かだった。それなのに、どこかで聞いた声のような気がした。
 友弥は声のした方角を振り返った、腕に少女を絡みつかせたまま。
 そこには一人の青年が立っていた。友弥もよく知る、私立有名高校の制服を着たその青年。シャツの第一釦は外され、ネクタイはだらしなく曲がっている。
 ふと覚えた既視感。この青年にはどこかで逢ったことがある。どこかで、いや……。友弥は驚愕に目を見張った。
 見る角度によっては意地悪そうにも見える、やや吊り上がり気味の双眸。すっきりと通った鼻梁。そこまでは同じ。
 そして、自分の顔立ちをもう少し繊細に、癖毛の始末の悪い漆黒の髪を柔らかな茶褐色の髪に、瞳と瞳孔の区別が付きにくい真っ黒な瞳を鳶色に変えれば、或いはこんな顔立ちになるだろうか。
 そう、その青年が身に纏っている独特の雰囲気を除けば、その青年は自分にそっくりだったのだ。
 青年もまた瞳を見開き、友弥を食い入るように見つめていた。やがて青年の唇が僅かに吊り上がり、チェシャ猫の微笑を形作る。次の瞬間、青年は遠慮会釈なく笑い出していた。
「参ったね、こいつは動かぬ証拠って奴か。こんな面を抜け抜けと出されて、まさか他人とは言えまいね。そして俺も四方堂の人間だなんて言えやしない。実際、血ってのは恐ろしいね。あんた、友弥だろう?」
「ええっ、あんたが友弥なの!?」
「なあ、摩耶、さっそく右京に紹介しに行こうじゃないか。あいつは何て言うだろうね」
 右京、それは友弥が唯一知る親族の名だった。父親の嫡出子の一人、つまりは異母兄。
――冗談じゃない、生まれてから一度も逢ったことのない父親の親族に今更関わるなんて。
 踵を返し、憤然と元来た道を引き返そうとしたところ、摩耶がぐいと腕を引いた。
「逃げる気かい、友弥」
 気が付くと、少女に蓮と呼びかけられていた青年が友弥のすぐ側にまで来ていた。
「俺だったら会うよ、親戚連中にどんなに罵倒されたとしても。たとえ死に顔でも、実の父親に一目逢えるんならね」
 自分とさほど歳の変わらない、しかも面差しもよく似た相手にそう言われてしまうと、まるで自分を試されているような気がした。親戚の非難を恐れて逃げたしたとは思われたくなかった。
「どうする?」
 蓮は下から掬い上げるようにして友弥を見た。売り言葉に買い言葉。実際は言葉には出さず、友弥は無言で顎を引いた。





 葬祭場に顔を出したその途端、一斉に向けられた目、目、目。その突き刺さるような好奇の視線を友弥は一生涯忘れることは出来ないだろう。蓮は葬儀の間中、友弥に纏わりつき、何が面白いのか、始終人の悪そうな含み笑いを浮かべていた。
 葬祭場の一角、年配の婦人と立ち話をしていた男が友弥に気付き顔を上げた。切れ長の瞳と冷笑的な唇を持つ美貌の男、セルフレームの眼鏡越しに冷ややかな一瞥が注がれる。
「もう少し待ってみて来ないようなら、首に縄を付けてでも引きずり出すつもりだったよ、蓮。それで……、君は一体誰を連れて来たんだ?」
「見てわかるだろう。友弥だよ、あんたたちが探してた、ね」
 蓮の言葉に、男の傍らにいた上品そうな婦人が微かに驚きの声を上げる。
「まさか、あなたが友弥?」
 近くにいた摩耶が友弥に耳打ちを試みてきた。
「おばあさまよ」
「葬式に隠し子がひょっこり現われるというのはよく聞く話だ。伊集院の話じゃ、君は遺産相続は放棄するつもりだと言ってたそうじゃないか。いざとなったら欲が出たのかな」
 伊集院、それは戸籍上の父の顧問弁護士の名だった。何故だか自分が不当に辱められたような気がした。
 反射的に言い返そうとして思い留まる。確かにそう取られてしまっても仕方のないことかもしれない。友弥は拳を固く握り締めると。
「お顔を拝見させて頂くだけのつもりでした。遺産相続に預かるつもりも、分骨も求めません。もとより、名乗るつもりもなかったんです。僕の軽率な行動で、親族の皆様方に不快な思いをさせてしまったのなら、お詫びをさせて頂きます」
「帰るってのを俺が無理やり引っ張ってきたんだ。怒るんなら俺を怒れよ、右京」
「蓮、君は……」
 右京はうんざりしたように言った。小さく嘆息してから、自分の母親に向き直る。
「参列してもらっても構いませんね。彼の存在は親族なら皆知っていること、今更体面を気にする必要もない」
「そうね、そうして頂きましょう。右京、あなたがそう言うのなら」
 そして婦人はまっすぐに友弥を見た。そこに恐れていたような侮蔑や怒りの色はなかった、ただ、そう……、まるで何かを懐かしむかのような。唇に小さな微笑が浮かべ、その女は言った。
「あなた、本当にそっくりなのね」
 誰のことだろう、と思った。蓮、それとも今日送り出されるその男、か。聞き返すことは出来なかった。
 自分の預かり知らぬところとはいえ、安っぽいドラマなら自分は泥棒猫と罵られても仕方のない存在だ。
静かに一礼し、その場から離れる。
「蓮、後で私のところに」
 有無を言わせぬ語調に思わず振り返る、そこには大仰に肩を竦める蓮の姿があった。





 焼香を済ませたその後は、極力目立たないように心掛けた。
 出棺直前、ようやく拝むことの出来た故人の顔。対面が適った今でも、何の感慨も抱けない自分がいた。
 たとえ血が繋がっていても、共有した思い出がなければ、やはり他人も同じなのかもしれない。生前にただ一度でも逢っていれば、或いは何かが違ったのかもしれない。
 目的を果たした友弥が葬祭場から立ち去ろうとしたその時、出棺の挨拶を終えたばかりの右京が親戚に向かってこう宣言した。
「彼には泊まっていって頂きましょう。明日は遺言公開の予定です。内容は事前に知らされてはおりますが、彼にもきちんと理解をして貰った方がいい。彼は若いが、信用するに足る人物だと思いますよ。言葉使いもちゃんとしているし、それに度胸もあるようだ」
 振り切って帰ることは容易だった。明日また出直すと言ってすっぽかすことも可能だったろう。それをしなかったのは、ひとえに彼の存在ゆえだった。
 火葬場へは同行しないと言った友弥を、蓮は実に奇妙な眼差しで見たのだ。
「まだいるんだろう? 帰ったり消えたりなんか」
 蓮はそこで不自然に言葉を切ると、両親と共に車置き場に向かった。徐々に小さくなる後姿を見ていたら、何故だか不安になった。放っておけないような、そんな気がして。
 親族が全て火葬場に出払ってしまったその後、友弥は通いの家政婦と共にタクシーでその家に向かった。
 成程、これじゃ遺産目当てと思われても仕方がないな。
 それがその家の第一印象だった。
 会長、顧問弁護士、遅延することなく定期的に振り込まれていた養育費、自分の父親がいわゆる富裕な人間であることは知っていた。が、聞くと見るとでは大違いだ。
 高級マンションや大使館、大邸宅が軒を連ねる町、その一角にその家はあった。盛り土を施された広い庭、家は歴史を感じさせる古い日本家屋。今の地価を考えれば、相当な資産価値になるだろう。
 家族が留守の家の中で勝手に歩き回る訳にもいかず、手持ち無沙汰になった友弥は、午後一杯を使って思索に耽った。幸い、考えることは山ほどあった。
「蓮、か」
 与えられた客室の中、大の字になって寝転がると、友弥は呟いた。
――四方堂蓮、坊主みたいな名だろう。もっとも、四方堂の家は寺じゃないけどね。
 苗字が自分の父親の姓である島津でないことにまず驚いた。ごく近い親族だとばかり思い込んでいたから。
 あんたとの関係? 友弥の問いに片眉を跳ね上げて、蓮は。
 何になるんだろう、はとこじゃないか、戸籍上はね。
 含みのあるその言い方が心に引っ掛かっていた。双子というほど似てはいない。けれど実の兄弟だと言われたとしても、疑問には思わないだろう。それほどまで自分たちは似ていたのだ。
 不思議でならなかった。あれほどまで自分に似ている存在を十九年間知らなかったことが。自分が気まぐれを起こさなければ、これから先も会うことがなかったということが。
 自分が不幸だと思ったことは一度もなかった。友弥の母親は小さな会社の事務員として働き、彼を育てた。むろん裕福ではないものの、恥じ入るほど貧しい訳でもなかった。父親の不在も、都会、それも友弥の住む下町ではさほど珍しい話でもなく、小中高と都立校に進み、友人からの問いかけには、母親から聞かされていた言葉をそのまま伝えた。……交通事故でね。
 物心つく頃に気が付いた。亡くなった父親の位牌が、墓がないこと。写真が一枚もないこと、亡くなった父親の親族との付き合いが一切ないことに。
 何か事情があるのだろう、いつの日か聞かせてくれるだろうと信じて、日々を過ごした。そして、母親の口からそれを聞く機会は永遠に失われた。皮肉なことに、父親不在の言い訳に使った交通事故で。即死だった。
 叔母と共に葬式の手続きに追われる友弥の前に、顧問弁護士の伊集院と名乗る男が現われた。加害者の、とカッとなり胸倉を掴み上げた友弥に、男は弱り果てたように言った。『いいえ、あなたのお父さまのです』
 お悔やみの言葉と共に、葬式代に相応する多額の香典を渡しながら、弁護士は説明した。
 友弥の父親は同族経営の会社を退き会長の立場にいること、現在病を患い入院中であることを。そして尋ねた。お見舞いに行かれますか? 友弥は無言で首を振った。
 自分が非嫡出子なる存在であることもその場で知らされた。
 けれど戦前とは違いますからね、遺産相続の権利もありますし、あなたが成人するまでは援助を惜しまぬつもりだそうですよ。
 弁護士が帰ったその後で、叔母がぽつりと漏らした。姉さんはあんたが二十歳になったら伝えるつもりだったのよ。
 関わらない方がいいわ、あの家には。姉さんの保険金も下りるし、あんた一人大学に行かせるぐらい訳ないの。うちの子と同じだけのことはするつもりでいるわ。
 そして、それきり友弥はそのことを頭から締め出した。母親の保険金と積み立て預金には手を付けたくなかったから、これまで母親宛に秘密裏に届けられていた養育費は感謝しながら受け取ることにした。大学は国立にしよう、社会に出るまでは有り難く、と。
――関わらない方がいいわ、あの家には。
 そんな叔母の言葉が耳に蘇る。
 叔母は、一体何を知っていたのだろうか。
 ふいにドアをノックする音が聞こえた。誰だろう、立ち上がりドアを開けると、そこには摩耶が立っていた。
「これ、精進落しの料理。下に顔を出さなかったみたいだから、持って来たの」
 火葬場から戻って来た親族が家に集まっていることは知っていた。
 賑やかな話し声と明かりを階下に認めながら、しかし友弥は顔を出さなかった。自分が彼らにとって招かれざる客だということは、百も承知だったから。
「ああ、有難う」
 自分を気にかけてくれた人間がいたことがひどく嬉しく、友弥は差し出された折りを喜んで受け取った。
 受け取った途端、腹の虫が小さく鳴り、友弥はそこで初めて自分が朝から何も食べていないことに思い当たる。さっそく海老の天ぷらや筑前煮などが詰め込まれたそれを開き。
「これは美味しそうだね。……何か?」
 摩耶が物問いた気な目で自分を眺めていることに気付き、友弥は顔を上げて尋ねた。
「ううん、やっぱり蓮に似てるって思ったの。蓮は顔がいいだけの只のバカだけど、あなたは中身もありそうね」
 バカという単語をこんなにも楽しそうに発音する人間を友弥はこれまで見たことがなかった。
「あいつがバカだって? あいつが着てたのは、海城の制服だったけどね」
 初めて会ったその瞬間から気付いていた。海城、それは御三家といわれる、都内でも有数の、有名私立進学高校の名だった。
「お勉強は出来るんじゃない。出席日数が足りなくていつも進級はギリギリ、でも成績は学年じゃ上の方だって聞いてるから。だけどあの子はバカよ。頭にそれこそ蓮の花でも咲いてるんじゃないかと思えるくらい」
「手厳しいね、摩耶ちゃんは」
 確かに蓮の花は何の情緒もなくパカっと開いて咲くから、バカっぽいような感じがしないでもないな、友弥は内心で思い、苦笑を浮かべた。
「皆はまだ?」
「宵の口ってところね。どうして大人はお葬式にあんなに酒を飲んで騒げるのかしら。おじいさまはあんまり好きじゃなかったけど、それでもあれはどうかと思うわ」
「葬式は親族の交流を深める場でもあるからね」
 そう言えば、僕も自分の母親の葬式の時にも同じようなことを思ったっけ。
 さほど昔のことでもないのに、今では少女にそんな風に諭している自分。
 何だか自分がひどく年を取ってしまったような気がした。
「あれは交流っていうのかしら、噂話と悪口ばかり。下に行かなくて正解よ。皆、あなたのことが気に入らないみたい。絶対に財産狙いだって口を揃えて言ってるの。わたしもママにこってり絞られたわ。下手に仲良くするなって。もちろん聞くつもりはないけど」
「情けない話なんだけど、僕は本当に何も知らないんだ。その……、君は僕の何に当たるんだろうか。父には二人子供がいたと聞いているんだけど」
 父、と口にしたのは生まれて初めてだった。実際口にしてみると、妙に空々しく感じられる。
「華代子が姉で、わたしのママよ。右京叔父さまはママの弟。本当は一番下に紗代叔母さまがいたんだけど、ずっと前に亡くなったから。蓮のことも聞きたいんじゃない。それとも、もう聞いた?」
「言ってたよ、僕は彼のはとこに当たるって。はとこってのは、確か従兄弟の子か、さらにその下の子のことだろう。つまり父親か母親の兄弟の子」
「そう、四方堂はおばあさまの実家よ。おばあさまの弟の次男が蓮の父親なの」
「おばあさまの……?」
 上品そうな老婦人の姿が脳裏に目に浮かび、友弥は首を傾げた。
 自分は婚外子、父親が自分の母親と浮気して出来た子だ。蓮が本妻の方の血縁というなら、自分と蓮の間には血の繋がりはないことになる。
「納得いかないって顔をしてるわね。蓮に直接聞いてみたらどう」
「彼はもう帰った?」
「四方堂の家は府中だから、あの家の人たちは今夜は泊まっていくと思うわ。でも、残念ね。ついさっき右京叔父さまが説教するって言って、蓮の首根っこを掴んで連れてっちゃったの」
「そう」
 恐らく友弥は傍目にもハッキリと分かるほど落胆していたに違いない。
 その姿に同情を寄せたのか。
「庭に離れがあるの。昔の隠居部屋、今は茶室代わりに使ってるわ。たぶんそこにいるんじゃないかしら。でも……」
 唐突に口を閉ざす。暫く思案した挙句、摩耶は艶然と微笑んだ。
「そろそろ説教も終わる頃だと思うわ。行ってみたら?」






つづく
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