子羊は惑う 2 |
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どこかに金木犀の樹があるらしい。冷たく冴えた秋の夜気の中、金木犀がほのかに香る。 目指す離れはすぐに見つかった。雪見障子越しに部屋の明かりを確かめてから、友弥は沓脱石に足を乗せた。 「どういうつもりなんだ」 部屋の内から漏れ聞こえてきたその声は右京のもの。察するところ、説教の真っ最中といったところだろうか。 「じいさんが俺に看取ってもらって喜ぶとは到底思えなかったからね?」 「父親に恥をかかせて、それで君は平気なのか。十やそこらの子供じゃないだろう」 「あんたに説教はされたくないね」 「蓮!」 激しい苛立ちを孕んだ声が上がったかと思うと、殴打の音がそれに続いた。 出直そうと踵を返しかけていた友弥は、思い直して、離れに取って返した。他人の家の事情に嘴を突っ込むつもりはさらさらなかった。 だが、幾らなんでも暴力は――。 ためらいがちに引き戸に手を掛ける。音を立てないように細心の注意を払って。戸はほんの少し、内の様子が伺えるまで開いた。 何が起こっているのか、初めは分からなかった。 十畳程の広さの部屋の中、蓮は後ろ手に縛られ、畳に転がされていた。殴られた時に切ったのだろうか、唇の端から血を流して。濃緑のブレザーは剥ぎ取られ、シャツの釦は全て弾け飛んで、白い素肌を晒している。 右京は蓮に大股で近づいていくと、スラックスに手を掛けた。金属がすれ合う密やかな音、やがてベルトが引き抜かれる。下着ごとスラックスを下ろされると、すべらかな白い双丘が露になった。 衝撃のあまり、友弥はもはや声を出すことすら出来なかった。 「抵抗するのなら、準備なしに挿れるよ。それは嫌だろう? 君はそれでこの間みっともなく泣き喚いたばかりなんだから」 「そんな脅しで、俺が大人しくなるとでも?」 言い終わるか否か、蓮が唯一自由になる脚を蹴り上げた。 「おっと」 渾身のその一蹴を難なくかわすと、右京は蓮の鳩尾に痛烈な蹴りを叩き込んだ。 「ぐッ……」 その場に崩れ落ち、苦痛にうめく蓮。ぐい、と両脇に腕を差し入れて乱暴に抱え上げると、右京は蓮を膝の上に乗せた。 左腕で蓮を羽交い絞めにしたまま、右京は右手だけを使って器用にチューブのキャップを外した。 押し出したクリームを蓮の内襞に塗り込めていく。距離がある為、細かい動きまでは分からない。蓮は嫌悪に顔を歪めながら、その行為を受け入れている。 早く、早くこの場から離れなければ、と思うのに、どうしても足が動かすことが出来なかった。 友弥は瞳を見開き、目の前で展開されるその光景を食い入るように見つめていた。 「あんたは頭がおかしいんだよ。よりにもよって、父親の葬儀の日に、ッ……」 前だけを寛げた右京が背後から蓮に圧し掛かる。挿入れられたに違いない、蓮が怨嗟の声を上げる。 「……畜生……ッ……」 「もういけるんじゃないか、蓮。こっちだけでも」 激しく突き上げられながら、蓮は肩越しに右京を顧みた。殺意を孕んだ視線で右京をキッと睨めつける。 「君だって、こうなることを期待してここに来たんじゃないのかい」 「馬鹿言うなッ、……っ……あ……」 感じるその部分を突かれたのか、蓮が白い喉を仰け反らせて喘ぐ。 「気に入ってるみたいじゃないか、あの子を、友弥」 何の前触れもなく飛び出して来た自分の名、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。 「ああ、気に入ってるよ。あんたとは……、違うから」 「違うものか、同じなんだよ、蓮。彼だって島津の血を引いてるんだ」 喘ぎ声を殺す為だろう、蓮は血が滲むほど強く唇を噛み締めていた。右京が腰を突き動かす度に、パン、パン、と肉と肉がぶつかり合う卑猥な音が部屋中に響き渡る。 「いいね、蓮。君は最高だよ」 断続的な動きはより一層激しいものになり、やがて止まった。蓮が絶望的に瞳を見開き懇願する。 「嫌だ、出すな、出すな、内に……! あッ、ああッ……!」 感情と、生理的な快楽は別なのだろうか。張り詰めて天を突く彼自身から乳白色のそれが溢れた。 「言った通りじゃないか、蓮。触ってもいないのに、君は--」 嘲りを含んだ右京の声と、蓮の荒い息遣いが重なる。 喉が渇いて仕方がなかった。乾きにひび割れたような気さえする唇を舌で湿す。 人の気配に気付いたのか、蓮がゆっくりと顔を上げた。何かを求めて視線を周囲に彷徨わせ――。 視線が、あった。 蓮はにやりと唇を歪めて笑うと、戸外に向けて顎をしゃくった。唇が声にならない言葉を形作る、行っちまえ。 無言で戸を閉めた。 母屋に向かって歩き出した友弥の耳に、蓮の呪詛にも似た言葉が届く。 「……右京、いつかあんたを殺してやるよ」 部屋に真っ直ぐ戻る気にはなれなかった。 小さな心字池の傍に佇み、灯篭の明かりの下、泳ぐ鯉たちをぼんやりと眺めていると、背後から声が掛かった。摩耶だった。 「驚いた?」 「君も趣味が悪いね。知ってて行かせたんだろう、その……」 婉曲な表現が思いつかず、友弥は緩く首を振ると。 「あれはいつものことなのか」 「そうね、ここのところは。蓮は結構上手なのに、最近は右京叔父さまが独占してるから腹が立つわ」 上手? 何が、と反射的に問い返してしまいたい衝動を押さえる。友弥は軽い眩暈を覚えて、米神を指で揉んだ。 「君ともなのか。だけど君たちは親戚なんだろう?」 「蓮とはキスだけよ。でも、もう少し進展させたいと思ってるの。親戚でもはとこなら結婚できるわ。でも、皆に止められるかもしれないわね。本当はもっと近い間柄なんだもの」 「焦らすんだね。蓮に直接聞けと僕に焚き付けて、あんな現場を目撃させて。君の目的は何だい」 摩耶は唇を吊り上げて笑った。その笑い方が蓮の物と似ていることに気付く。 ――成程ね、確かに血は近そうだ。 「わたしは蓮を右京叔父さまから取り戻したいの。あなたならそれが出来るんじゃないかと思って」 「今日初めて会ったような奴に言う台詞とは思えないけどね。どうして、僕なんだ」 摩耶は飛び石の上に足を乗せた。 そのまま池の中央まで進むとゆっくりと振り返り。 「知らなかったでしょう、あなたは有名人だったのよ。おじいさまが禁止してたから、誰もあなたには近づけなかった。蓮は二年も前からあなたの存在を知ってたわ。実際会ってみたらそっくりでしょう。たぶん気になってる筈よ、だから」 「気になるって? 嫌われて当たり前だとは思ってたけどね。僕は君たちのおじいさんの隠し子だ。君たちのおばあさんの気持ちを思えば――」 「不義の子だ何だって、さんざん人を苛めた当の本人がしっかり子供を作ってる。しかもその子供は自分そっくりなんだもの、蓮じゃなくたって気になるわ」 不義の子? 一体誰が? 唐突に飛び出して来た前時代的な言葉。いぶかしげな表情を浮かべた友弥に向かい、摩耶は。 「蓮の母親はね」 私が話したのは内緒よ、と前置きしてから。 「亡くなった紗代叔母さまなの。だから蓮は本当はわたしの従兄で、あなたの甥っ子ってわけね」 紗代、それはさっき摩耶から聞いたばかりの、ずっと以前に亡くなったという、右京の妹のことだろう。 「父親はわからないんですって。蓮を産んですぐに紗世叔母さまは亡くなったの、薬のオーバートーズ、ほとんど自殺みたいなものね。それで子供のなかった四方堂の家が蓮を引き取ったのよ。右京叔父さまは紗世 叔母さまととっても仲が良かったから、蓮を嫌ってるの。おじいさまもそうだった」 ――遅刻か、昨日みたいにすっぽかすんじゃないかと思ってたわ。嫌いだったんでしょ、おじいさまのこと。 ――じいさんが俺に看取ってもらって喜ぶとは到底思えなかったからね? 数々の言葉が友弥の耳をよぎっては消える。 ああ、それで、なのか。 「でも、蓮は関係ないじゃない。子は親を選んで生まれてこれないんだから。蓮はあの通りの頭に花が咲いてるおバカさんだから、何をされても気にせず笑ってるわ。ママに言っても相手にしてくれないし、四方堂のおじ様とおば様は蓮のことは目に入れても痛くないくらいに可愛がってるけど、それでも島津のすることには逆らえない」 だから、摩耶は言外にそう告げているようだった。 どうしても言葉が出てこなかった。どんな言葉も嘘になってしまうような、そんな気がした。友弥がようやくのことで選び取ったのは、世にも陳腐なこんな一言。 「……君は蓮が好きなんだね」 摩耶は見る間に赤くなり、そんな訳ないでしょう、弟みたいなものよ、私も一人っ子だし。 言い訳がましく呟いた。強気の少女が見せた意外な一面を微笑ましく思いながら、けれどこれだけは伝えておかなければ、と。 「だけど僕は何も出来ない。僕にはそうする義務も、そんな権利もないと思うから」 ごめん、それでも謝らずにはいられなかった。摩耶は首を振り。 「いいわ、勝手なことを言ってるのは自分でもわかってたの。もし良かったら、これからも普通に付き合ってくれる? わたしたちは年も近いし、家も都内でしょう」 「明日の遺言公開が終わったら、もう君たちの前には現われないつもりでいるよ。その方がお互いの為なんじゃないかな」 月にむら雲がかかるように、摩耶の顔がわずかに曇った。摩耶は小さくため息を漏らしたものの、すぐに顔を上げると。 「残念だけど、そうね、それが良いのかもしれない。でも、わたしはあなたと会えて良かったと思ってるわ。同年代の叔父さまなんて、ちょっと恰好いいもの」 ちゃんと食事は摂ってね。ママが探してるといけないから、これで。 そんな言葉を残して、摩耶は母屋へと戻っていった。 莫大な財産、複雑な血縁関係、きらびやかとしか形容出来ない親族たち。 ふふ、まるで横溝の推理小説みたいじゃないか。友弥は思い、そして笑った。笑うことしか出来なかった。 その線で行けば、さしずめ蓮や僕あたりに全財産を譲る、なんて、とんでもない遺言が公開されて、それから血みどろの連続殺人事件が起こるんだろうね。 それが馬鹿げた妄想ということはわかっていた。 まさか。これほどの家だ。会社経営もしているのなら、動産、不動産関係は、顧問弁護士が手抜かりなく処理してるはず。 明日、遺言を聞いたらさっさと家に帰ろう。それでジ・エンド、僕は金輪際この家に関わらない。 ふと顔を上げる、離れにはまだ明かりが点いていた。 ――蓮はあの通りの頭に花が咲いてるおバカさんだから、何をされても気にせず笑ってるわ。 だけどね、摩耶ちゃん。僕にはそんな風には見えなかったんだよ。 同じ私生児、年も近くて、顔も似てる、か。奇妙な符丁だった。気にならないと言ったら嘘になる。だけど……。 何かを振り切るように歩き出す。そして友弥は二度と振り返らなかった。 どんな顔をして会えばいいんだろう。 そんな友弥の懊悩はどうやら杞憂に終わったらしい。 遺言公開の場に指定された座敷。自分の立場を慮り末席に座していた友弥を目敏く見つけると、蓮はさっさとその隣に座ってしまった。 「何で、俺がじいさんの遺言なんか聞かなきゃならないんだろうなあ」 昨日ちらりと見かけた蓮の両親の姿を視界の隅に認める。友弥はゆっくりと。 「ご両親と一緒でなくていいのかい」 「構わないよ。俺の両親はひょっとしたら何か貰えるかもしれないけど、俺は、俺だけは絶対に何も貰えない。どうせ右京の嫌がらせに決まってる。じいさんの遺言を聞け、なんてのはね。すっぽかさないだけでも有り難く思ってもらいたいもんだ」 言って、顧問弁護士の隣に座している右京を軽く睨む。 「本格の推理小説なんかだと、ここで全然関係のない奴が全財産を相続することになって、連続殺人事件が起こったりするんだろうだろうなあ。何て言うんだ、童謡殺人?」 マザーグースとか、手毬歌とかさ。死体が鐘の下に押し込められてたのは、あれは横溝だっけ? 自分が心の中で思っていたこと、それをそのまま口に出されて、友弥は思わず口許を綻ばせた。 「この家は古い家みたいだから、そんな小説の舞台にも似つかわしいね。だけど今の法じゃ、遺留分があるからね。全然関係のない人間に全財産を、って訳にはいかないよ。遺言があったとしても、財産の半分は、妻と子供に等分に分けられるんだ」 「博識だね、弁護士にでもなるつもりかい」 「弁護士になるつもりはないけどね、大学の専攻が法学だから」 蓮が感心したように口笛を吹いた。 やがて約束の時間が来、初老の顧問弁護士はおもむろに遺言状を開いた。 「遺言者は、妻、島津蕗子、長女、大門華代子、長男、島津右京に対する遺産の分割を諸事情を考慮して次のように指定する」 「……摩耶ちゃんは大門って苗字なのか、いかにもって感じだね」 「ああ、摩耶ん家は実際金持ちだよ。その割には小遣いが少ないって、摩耶がよくぼやいてる」 自分のことを話題にされていると察したのか、両親と共に座っていた摩耶が二人に手を振って来た。 友弥が苦笑混じりに手を振り返すと、傍らにいた摩耶の母親、華代子がキッと睨みつけてきた。 やれやれ、思わず肩を竦める。 その間も、顧問弁護士はよく通る声で、遺言状を朗々と読み上げていた。 「遺言者は、その所有財産のうち、以下に示す土地、家屋を妻に、その他預貯金及び株式は長男右京に遺贈する。但し、長男は遺言者の婚外子である高村友弥に対し、大学卒業までの養育費の支払い義務を負うこと。長女華代子から遺留分減殺の請求があった時は、長男が相続すべき財産から減殺すべきものとする」 もしも、を考えなかったといったら嘘になるだろう。期待ではなく、厄介ごとに巻き込まれたくないというのが本音。 妥当な遺言の内容に、友弥はホッと胸を撫で下ろした。 だけど、大学卒業まで面倒見てくれるって? ありがたいね、本当に。 「なあ、遺留分減殺って?」 「遺留分を侵害された人が侵害された分を取り戻したい時に使うんだ」 「つまり、不満なら右京のところから取り戻せって訳か」 「以上になりますが……」 顧問弁護士の言葉を聞くや、蓮は座布団からさっさと腰を上げた。 すかさず右京の鋭い声が飛ぶ。 「蓮!」 「もういいだろう、葬式も出たし、遺言も聞いた。じいさんへの義理は果たしたよ」 顧問弁護士が咳払いをした。それは、明らかに蓮に向けて発されたもの。 「――最後に贈与分についての条項がございます。四方堂家ご長男の蓮様に、信州の別荘を譲渡、とのことです」 顧問弁護士がそう告げたその瞬間、座敷は水を打ったように静まり返り、蓮は驚いたようにその鳶色の瞳を見開いた。 |
つづく |
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