子羊は惑う 3 |
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友弥は腑抜けたようになって日々を過ごした。 母親の事故死、それに伴い発覚した出生の秘密、それを除けば、平々凡々と暮らしてきた十九歳にとって、その一連の出来事はあまりにも刺激が強いものだった。 大学の講義、学食での他愛のないお喋り、家庭教師とコンビニのバイト、淡々と日常生活を送るうち、友弥は徐々にいつものペースを取り戻し始めた。 やがて、あれは悪い夢だったんじゃないかと思い始めた頃――、忽然と彼は現われた。 ウォーターフロントと言えば聞こえはよいものの、軒先にずらりと植木鉢が並べられ、洋犬よりも昔ながらの日本犬が専ら人気を博す、佃煮の匂いが立ち込める、そんな下町の一角で友弥は母親の死後も暮らしていた。支払いを終えてから、もう五年にもなる中古マンション。築は二十年を軽く越えていた。 夜遅く、唐突に鳴ったインタフォン。 こんな時間に誰だろう、いぶかりながらドアを開けた友弥の前に立っていたのは、驚いたことに蓮だった。 「居場所を突き止めるのに苦労したよ。伊集院がなかなか口を割らなくてね」 驚きに声も出ない友弥の前を素通りし、蓮はさっさと部屋に入ってしまった。 「ちょっと待ってくれよ。君は一体何しに……」 学校指定と思しきスポーツバックを居間の片隅に置く。 「しばらく厄介になろうと思ってね。心配しなくても学校には行くよ。四方堂の家から行くより近いしね」 そんな勝手な、反駁しようと口を開きかけた友弥の前に、唐突に包み紙が掲げられる。 「甘い物が好きかどうかわからなかったんだけど、良かったら」 反射的に受け取ってしまう。いわゆる手土産と称されるそれ、を。 包みの中身は、見た目も鮮やかな和菓子だった。実のところ甘い物に目のない友弥は口の中でモゴモゴと呟いた、ありがとう、美味しそうだね。 「良かった。母親が茶をやっててね、いつも家に届けられるんだ」 茶ねえ、悪ぶってるけど、こいつはひょっとしたら育ちが良いんじゃないだろうか。 友弥はふと思い、お持たせの和菓子を疑わしげに睨んだ。 「皆はどうしてる?」 「俺も遺言の公開以来会ってない。ああ、摩耶とは一度渋谷で会って遊んだよ。後は……、例の別荘の件で話があって、伊集院の事務所に行ったくらいかな。ついでにあんたの住所を聞き出したんだ」 居間には先日出したばかりの炬燵があった。蓮が喜々として炬燵に足を突っ込む。やれやれ、友弥は仕方なくその向かいに腰を下ろした。 「貰うつもりなのかい」 「正直、悩んでる。俺にはじいさんの意図が掴めないんだ」 「言ってたね、俺だけは絶対に何も貰えないって」 「あんたは知らないだろう、じいさんは俺を嫌って嫌って嫌い抜いてた。しょっちゅう杖で俺を殴ってたよ。ガキにも容赦がなくってね、俺はあの家に行くのが恐くて仕方がなかった」 結局、死に顔でしか対面することのなかった自分の父親。その父親の実像を他人、いや親戚の口から伝えられるのは奇妙な感じだった。しかも内容もまた相当なものだ。 「そんなに嫌いなら、知らない家に養子に出してくれれば良かったのに。法事の度に顔を合わせなきゃならない親戚の家なんかじゃなしに。赤ん坊のうちなら養子の貰い手はあるって話だしね」 何と答えていいのか分からず、友弥は茶を入れると断って台所に立った。 「聞いてるんだろう」 「君の本当の母親のことかい」 キッチンの一番上の戸棚に貰いものの緑茶を置いていたことを思い出し、背を伸ばしてそれを取る。急須に茶葉を入れ、薬缶のお湯が沸くのを待つ。台所と居間の間に仕切りのガラス戸がある為、直接顔を合わせずに済むことが有り難かった。 「摩耶が俺に謝ってきたよ。別に秘密でも何でもないから構わないって言っておいたけどね」 盆に湯飲みを二つ載せ、居間に戻る。酒はないのかい? からかい混じりの問いかけに、馬鹿、高校生は茶でも飲んでろ、と一蹴し。 「君の母親はずっと前に亡くなったって摩耶ちゃんから聞いた。それから、君のおじいさんと叔父さんは君のことをあまり気に入っていないってことも。僕が知ってるのはそれだけ」 炬燵の上に湯飲み茶碗を二つ置く。しばらく考えてから、言葉を付け足した。 「僕は何も知らないんだよ。父親について、その子たちについて、何より母との関係も。知らないままで済まそうと思ってた。でも、このまんまじゃいけないような気がしてる」 「伊集院が言ってた。あんたは母親が死ぬまで、父親のことを知らなかったんだって? 知らなければ良かったと思うことは、この世の中にたくさんあるよ。だけど、物事の裏を知っちまったら、今度はすべてを知りたくなる。中途半端は……よくないよ。俺がそうだ」 言って、蓮は湯飲みに手を伸ばす。猫舌なのか、茶を一口啜ると、あちっ、と顔を顰め。 「じいさんには三人子がいた。夫婦仲は良かったのかな、よくは分からない。一番上が華代子で、摩耶の母親だ。その下に右京と紗代。紗代が俺の本当の母親だ。元々神経か何かを病んでたとかで、田舎に引きこもってたんだけど、何でか子供が出来ちまって、堕ろすのが無理な時期になるまでそれを隠してたらしい。俺を産んで、すぐに亡くなったってさ。享年が確か二十歳……」 あっけらかんと自分の出生を語る蓮だったが、享年のくだりで、流石に言葉を詰まらせる。友弥は口を出さずにはいられなくなり。 「君の母親はどうしても君を産みたかったんだろう。だからこそ妊娠を隠し通したんじゃないのか。たぶん、君の父親を心から愛していたんだと思うよ」 「俺もそう思うよ。そして、どんなに問いつめられても父親を明かさなかった。事情のある相手、妻子でもいたんじゃないかな。だけど、田舎のことだからね。相手はだいぶ限定されるだろうと俺は睨んでる。かかり付けの医者、出入りの業者、それとも近所の奴か。もしも一夏の恋のお相手って奴だったらどうしようかと思ってる、調べるのが難しくなりそうだからね」 友弥はぬるくなってしまった茶を一息に飲み干してから、静かに尋ねた。 「君は自分の父親が誰か知りたいのかい」 「ああ、知りたい。そして会いたいとも思うよ、どんな男でも。たとえ落胆したとしても、それでもね」 ――俺だったら会うよ、親戚連中にどんなに罵倒されたとしても。たとえ死に顔でも、実の父親に一目逢えるんならね。 自分が実の父親と対面するきっかけになった蓮の言葉を思い出す。 何故だか焚き付けられたように感じていた。だが、本当は、あの言葉は……。彼自身の本音の吐露だったのかもしれない。 「そうだ、例の信州の別荘、どこにあるんだい」 気分を変えようと、つとめて明るく友弥は言った。 「軽井沢、最近使ってないからベランダなんて朽ちてるって話だよ。右京あたりは使ったことがあるんじゃないかな。毎年そこで夏を過ごしてたらしいから。ああ、紗代が引きこもってたのもそこらしい」 地雷を踏んだか、思わず首を竦める。 けれどそこは蓮も心得たもので、母親云々についてはそれ以上触れようとはせず、軽妙な口調で先を続けた。 「何だか胡散臭くてね。じいさんがあんなにも嫌ってた俺に別荘なんか残すはずがない。別荘には劣化ウラン弾でも積み上げられてるんじゃないかと思える位だよ」 「劣化ウラン弾ねえ。すると遊びに行ったら、ガイガーカウンターが鳴りまくると」 突拍子もない蓮の推理にぷっと吹いてしまう。 「僕だったら、どうだろう、貰うかな。いいじゃないか、軽井沢。夏は避暑、冬はスキー三昧だ」 「他人事だと思って簡単に言うね。未成年だから法廷代理人を立てなきゃならないとか、一親等じゃないから相続税が割増加算されるとか、もしも相続放棄するなら三ヶ月の間に、とかね。いっぺんに色々言われたもんだから眩暈がしたよ」 「海城の生徒が情けないことを言うじゃないか。頭は生きてるうちに使えよ」 茶を差し替えようと盆に空になった湯飲み茶碗を乗せる。お代わりは、と尋ねたところ、蓮はすげなく首を振った。 「そういうあんたはT大だろう。伊集院から聞いた、大学の後輩だって。法学部だって言ってたね、弁護士にでも?」 「僕の家は裕福じゃないんだよ。だからどうしても国立に入りたかった、ただそれだけさ」 自分の分だけ茶を差し替えてから居間に戻る。 蓮は大きく伸びをすると、そのまま横ざまに倒れた。天井を見上げつつ、自嘲めかして呟く。 「じいさんが死んでやっと解放されたと思ってたのに、訳の分からない遺産は押し付けられる、右京は説教と称して俺に只乗りしてくる。杖でぶん殴られるより性質が悪いよ」 さらりと放たれた衝撃的な一言。気道に茶が入ってしまい、堪らずむせる。 「いいよ、気を使わなくても。現場を見たろう」 「最近君を独占してるらしいね」 友弥が主語を省略して言う。蓮はやにわに身を起こすと。 「誰がそんなことを」 「摩耶ちゃんだよ、あの子が言ってた」 あのおしゃべりめ、蓮が舌打ちする。 「でも……」 何だい、と瞳で促されて、友弥は仕方なしに先を続けた。 「同意の上のようには見えなかった」 蓮はその鳶色の瞳を面白そうにきらめかせた。にやり、と唇を歪めて笑う。 「そりゃそうだ。前の法事の時に無理やり乗っかられてね。そん時、ご丁寧にもハメ撮り写真を撮りやがった。その挙句、四方堂の両親に送りつけると言ってきやがった。俺の母親は冗談抜きで心臓が弱くてね、茶とか俳句とかやって何とか心の平穏を保ってるんだ。そんな写真見せられでもしたら、心臓発作で死んじまう」 「だから言うことを聞いてるって? そりゃ恐喝だろう」 「とも言うね」 白皙の美貌を持つ腹違いの兄が、そんなヤクザまがいの手口を使っていることに驚く。 「まあ、妊娠する訳でも減るもんでもないからね。病気は恐いが、あいつはクレヴァーだから、不特定多数は相手にしてないだろう。只乗りさせるのは癪に障るけど、処女みたいに嫌がろうもんなら、かえって奴を喜ばせるだけだ。俺は気にしてないよ。そのうちあいつも飽きるだろ」 そうだろうか、胸によぎった疑問は口には出さず。 「それじゃ、君は只じゃなければ良いのかい」 真顔で尋ねやる。 冗談だと言うことは、その声音で分かる筈だった。 蓮はにやにやと笑いながら。 「泊まらせてもらえるんなら、やらせてやっても構わないよ。ただ、なるべく手早くやってくれると嬉しいね。……眠いんだ」 言い終わるか否か、思わず漏れた大あくび。友弥は微かに笑うと。 「泊まらせてやるよ、甥っ子。だけどその礼は要らない、願い下げだ」 そういや、何をしに来たのか聞き忘れたな。 しかもしばらく厄介に、なんてふざけたことを抜かしてなかったか? まあ、いい。それについては、明日じっくり話そうか。 蓮の後で風呂を使い、寝室を覗いてみると、彼は眠っていた。ベッド脇に制服がきっちりと畳んで置いてあるのを見、確信を強める。 何だかんだ言って、君は結局、良い所のお坊ちゃまなんだよ。母親の躾が良いんだろうね、きっと。 無防備に寝顔を晒す、歳近の青年を暫し見下ろす。 顔が似てるから気を許してるんだろうか。血が繋がってるただそれだけの関係の相手を無防備に信じるなんて。いいや……。 知らず、唇に浮かぶ自嘲。 それは僕も同じだね。碌に知りもしない相手を、家に泊めるなんて……、どうかしてるよ。 友弥は寝室の電気を消すと、部屋を出た。 「お休み、蓮」 枕に突っ伏すようにして蓮が寝ていた。柔らかな茶褐色の髪が呼吸に合わせて上下する。 何に似ているんだろう。寝顔を見下ろしながら、友弥はぼんやりと考えた。寒い冬の晩、自分のベッドに潜り込んで来たその存在、ああ、ミケに似てるんだ。 それは友弥が昔飼っていた三毛猫の名だった。三毛猫だからとミケと名付けた友弥に、単純ね、と母親は笑った。 「蓮、蓮」 つと手を伸ばし、茶褐色の髪を撫でる。その昔愛猫にしてやったように。 「起きろよ、居候」 瞼がわずかに震えたかと思うと、鳶色の瞳が見開かれる。 「……一瞬どこにいるのかと思ったよ」 瞬きを幾度か、蓮はベッドに横たわったまま、額に垂れかかる前髪を掻き上げた。 「夢を見てた」 「どんな夢?」 ベッドの端に腰をかけて尋ねる。 「ガキの時の夢。俺は島津の家の庭で迷ってた。あの家の庭は昔はもっと広かったんだよ。出口を探してもどうしても見つからなくて――」 一旦言葉を切り、ゆっくりと上体を起こす。 「それで?」 「誰かに名を呼ばれて、そっちに向かって走り出した。あの声の主は……、あんただったんだな」 そして蓮は笑った。それは常のにやりという笑いとは違う、邪気のない素直な笑みで、友弥は意外の念を禁じえなかった。 「日曜はコンビニのバイトが入ってるんだ、九時には出るよ。いたきゃ、もう少しだけいてもいい。部屋は散らかさないでくれよ。出て行く時は戸締りをしっかりと、鍵は郵便受けに」 噛んで含めるように言い聞かせてから、ベッドから腰を上げる。 「今夜は? 泊まらせちゃ?」 友弥はドアのところで立ち止まると。 「昨夜は僕の最大限の譲歩だよ。君は本当に僕の家に居座るつもりだったのかい。冗談じゃない」 ぴしゃりと言って、ドアを閉める。 慌てて着替えを済ませたらしく、すぐに蓮がキッチンにやって来た。 「なあ、頼むよ、泊まらせてくれよ。ずっととは言わない。せめて一ヶ月、いや、一週間でいい」 せめて一ヶ月、いや、一週間でいい、だって? 友弥は呆れ顔で。 「君は大真面にそれを言ってるのかい。ご両親が泣かれるよ」 牛乳でも飲もうかと冷蔵庫に近づく。機先を制して、蓮が冷蔵庫の前に回り込んだ。 「もしも泊めてくれるんなら、朝食をサービスするよ。家でも朝食を作るのは、俺の仕事なんだ。パンを焼いてコーヒー煎れて、目玉焼きを作るぐらいだけどね。母親が朝弱いから」 「そんなに大事にしてる、君の母親を心配させてもいいのか。君が僕のところに泊まってると言ったら、きっと君の母親はよくは思わないだろう。いいかい、僕は君の一族の恥なんだよ」 「友弥」 心持ち首を傾けて蓮は言った。 鳶色の瞳に何とも形容し難い、得体の知れない光をよぎらせて。 「あんたは一つ忘れてる、俺は島津の人間じゃない、四方堂の人間だ。そして俺もまた、島津の恥だってことを。そして俺の母親は決してそんな風には思わないよ。年末には救世軍の社会鍋、施設に寄付する為に缶詰を取っておくような、そんな女なんだよ。何たってプロテスタント、ルーテル派だ」 「君の母親のことは理解したよ。だが、恥は恥。恥同士で仲良くしてどうするんだ。僕が一人暮らしで寂しいだろうから慰めてくれるつもりなのかい。真っ平だね、僕は寂しくなんかない」 言い過ぎただろうか。 言ってしまった後で、友弥はハッとなって顔を上げた。 蓮は顔に強張ったような表情を張りつけて友弥を見ていた。次の瞬間、唇に浮かんだのは、常のにやりという彼独特の微笑で。 「そう、だな。あんたの言うことがたぶん正しいんだろう。俺はどうかしてた」 だけど寂しいだろうなんて思っちゃいなかったよ、ごめん、そう付け加える。 場に流れた息詰まるような沈黙を打ち消そうとしたのか、蓮は冷蔵庫を漁り、手早く朝食の準備を始めた。 「昨日は何て言って出て来たんだ。まさか馬鹿正直に僕のところに行くなんて話しちゃ――」 「断られる可能性もあったからね。右京のところに行くって言ってきた。これまでにも何度か泊まってる。あいつは外面がいいからね、両親も信頼を置いてる。俺と右京は和解したと思ってるらしい、良いことね、なんて言ってるよ。あえて心配させることはないからね、まあ、そういうことにしてる」 何度も泊まってる、か。そこで一体何が行われているのかと思うと、他人事ながら暗澹たる気分になった。 毎日朝食を作っているという話は事実らしく、蓮の手際は良かった。半熟卵を焼き、買い置きのベーグルを温めてそれに挟む。コーヒー豆の在り処を尋ねられ、インスタントしかないんだと答えると、蓮はパッと顔を輝かせた。 「今度豆を持ってくるよ、家に買い置きが山ほどあってね。……と」 失言に気付いたのか、心なしか肩を落す。お預けを喰らった犬のようなその姿を見、友弥は思わず言ってしまっていた。 「いいよ、またおいで」 「いいのか」 「今度はご両親にきちんと断って、いいと仰るんならね。何なら電話で話してもいいよ」 どうして僕はキッパリ断ることが出来ないんだろうなあ。続く言葉は溜息混じり。 同年代とはいえ、相手は二歳年下、ましてや大学生と高校生では世界が違う。自分がきちんとリードを取らないと、という思いがあったのだろう。 「本当かい!」 弾んだ声で言って、蓮はダイニングテーブル備え付けの椅子から立ち上がった。狭いキッチン、立ち上がった途端、背後のサイドボードに椅子の背が当たり、上に置いていた写真立てが倒れる。 蓮が倒れた写真立てを元に戻そうとそれに手を掛けた。その手が不自然な形で止まり――。 「……これは?」 「ああ、母だよ」 蓮はその写真を食い入るように見つめていた。何か珍しいものでも映っていたろうか、ひょいと覗き込み、その原因に思い当たる。 それは遺影にも使った写真だった。当時新しく出来たばかりのアミューズメントパークで撮った写真。ゴンドラに乗ってにっこり微笑むその写真の上半身だけを使って遺影にした。撮った当時は、まさか遺影に使うことなど想像だにしなかった。海をテーマにしたそのアミューズメントパーク、背景はイタリアのヴェネツィアそのもので。友弥はそのアミューズメントパークの名を挙げて。 「二人で行ったんだ。母親とだなんて恥ずかしかったけど、行っておいて良かったと思ってる。行ったことは?」 「ああ、そっちの方にはまだ。何だ……俺はまたてっきり」 「てっきり?」 「ヴェネツィアで撮ったのかと」 「そんな余裕があれば良かったんだけどね。もっと孝行しておけば良かったと思うよ。死人には何もしてあげることが出来ないから。……どうしたい、顔色が悪いよ」 「いいや。でも、ひょっとしたら、風邪かもしれない。喉が痛いんだ」 また失言をやらかしたかと危惧していた友弥は、風邪と聞いてホッとする。 死者、母親、まったく僕たちの間には地雷が多すぎるね。 「悪いな、薬を切らしてるんだ。薬局が確か角のもんじゃ屋の隣に――」 食べ終えた皿を片付けつつ、薬を手に入れる算段を考えていると、蓮は大丈夫だと請け負いながら。 「ここは本当にもんじゃ屋が多いんだな。お好み焼き屋は俺ん家の方でもたまに見かけるけど、もんじゃ屋なんて見たことなかったから驚いた」 「ここの名物なんだ。小学校の帰りに、五百円玉を握り締めてよく通ったよ。食べたことは?」 「俺ん家は府中だよ。もんじゃなんて食べたことない」 蓮はそれからもんじゃに固執した。あまりにせがまれるものだから、とうとう根負けして連れて行く約束をした。バイト代が入ったら、と念押ししてから、ドアを開けて外に出る。 「それじゃ、戸締りは忘れずに。ちゃんと帰れよ」 それに気付いたのは、恐らくは視線から。何気なく肩越しに振り返った友弥の目に、およそ下町には相応しからぬ大きなBMWが飛び込んで来た。部屋は二階の角部屋、路上は一望の元に見渡せる。 運転席のドアが開き、そこから目を引く長身が現われる。 会ったのは一度だけ、けれどすぐにわかった、彼だと。 凍りついたようになった友弥を不審に思ったのか、蓮が玄関から顔を出した。友弥の視線の先を辿り、掠れ声で呟く。 「……右京」 |
つづく |
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