子羊は惑う 4





「行こうか、蓮」
 右京がエンジンを掛け車を発進させる、友弥は何か言いたげに唇を動かしたものの、結局何も言わなかった。見る見るうちに友弥は小さく、やがて完全に見えなくなった。
「いい度胸じゃないか、蓮。外泊の言い訳に私を使うなんて――」
「……」
「君が伊集院から色々聞き出したという話を聞いたから、君の家に電話を入れたんだ。いつもすみませんと言われてね、驚いた。まさかと思ってやって来たんだが」
 右京はフロントミラー越しに蓮を顧みた。
「もう寝たのか」
「人を色情狂みたいに言うなよ。そんなんじゃない」
 恐れた修羅場はなかった。蓮の叔父は友弥に静かに一礼すると、蓮を促した。さあ、行こうか。従う他なかった。
 車は快調な走りを見せ、西へ西へと向かっている。言われずとも、行き先は分かっていた。恵比寿にある叔父の高級マンション、そこで何が行われるかということも、また。
 わずかに開かれた車窓から、金木犀の香りが漂ってくる。むせ返るような甘い香り、それが蓮の記憶の蓋をこじ開ける。
――そういえば、あの法事の時もやっぱり金木犀が香ってたな。





「遠回しな当てこすりは止めてハッキリ言ったらどう? 蓮のせいで、紗代叔母さまは死んだって。蓮を苛めて、鬱憤晴らしをしてるんだって」
 一つ年上の従姉は感情の赴くままに祖父と叔父を激しく糾弾した。
 憤然と立ち上がり、座敷を出ていった従姉を、華代子が追う。後に続こうとした蓮に、右京は冷たく言い放った。
「放っておけばいい。君が行ったら、華代子姉さんはきっと怒るよ」
 答えず、蓮は庭に出た。
 庭は蓮の避難場所だった。祖父からの殴打を逃れようと蓮はよく庭に出た。広い庭は子供の目には果てがないように思えた。池の傍に腰掛けて、両親が探しに来るまでずっとそこにいた。
 いつの頃からだろう、良い子に振舞うことを止めてしまったのは。
 悪い子だから好かれない、そう思えば楽になった。それを実行してからは、どんな言葉も、どんな暴力も、蓮を傷つけることは出来なくなった。
 そういう意味では、従姉の義憤は有り難く思う反面、的外れな物だと感じていた。
――俺は気にしてないんだよ、摩耶。本当にね。 
 甘い、くらむような香りに気付く。
 頭上の大樹は金木犀、何気なく手を伸ばし、枝を掴もうとする。
「――あの子は島津の典型だね。親族に一人二人必ず出るんだ。恐ろしいほど気が強い、華代子姉さんもそうだ」
 驚いたことに、右京は蓮の後を追って来たらしい。従姉曰くの当てこすりを口にするか、さもなければ冷然と無視を決め込むばかりの叔父、それまでは会話を交わすことも碌になかったのに。
「妹は? やっぱり島津の典型かい」
「私が教えると思うのかい。よりにもよって君に、あの子を殺したも同然の君に」
 右京はそう言うと喉奥で笑い声を立てた。けれどもその瞳は決して笑ってはいない。
「直接の原因は薬の飲みすぎだろ。俺が五体満足で生まれて来たのが不思議な位だって聞いてるよ?」
 金木犀の枝を掴んだ。枝はしなるばかりで折ることは出来なかった。オレンジ色の小さな花々は蓮の掌に余り、地面に零れ落ちた。
「蓮、君は幾つになった」
「知ってるくせに、今日はあの女の十五回忌の法事じゃないか」
「早いものだね、あの子が死んで十五年。君が生まれて十五年」
 右京は歌うように言って、蓮のすぐ側まで近づいて来た。
「教えてあげようか、蓮。あの子のことを」
「さっき教えないと言った舌の根も乾かないうちにそれかい。どういう風の吹き回しなんだ」
「十五歳になったと聞いたからね、君はもう大人だろう? 大人には大人として接するつもりだ。四方堂のご両親の許可を取ってくるといい。法事の後で、少し話をしよう」
 恵比寿にある高級マンション。オートロックの扉を開け部屋に招き入れるなり、右京は蓮をフローリングの床に引き倒した。抵抗を見せると革靴で腹部を蹴り上げられた。
 性交は頭の中の知識としてだけ、経験は皆無だった。ましてや同性同士の性交渉など。
 死に物狂いで抵抗した挙句、およそ考え付く限りの最悪な形で犯された。熱く焼けた鉄火箸を突き込まれたような、熱さと痛み、地獄の責め苦は永遠に続くかと思われた。
 どう両親に取り繕ったのか、今となっては覚えていない。
 夜半過ぎまで起きて待っていた母親を何とか誤魔化して部屋に戻り、深夜、血で汚れた下着を洗面所で洗った。
 その後も呼び出される度毎に犯された。
 右京は実にクレヴァーだった。両親に知られぬよう、目に付く部位に傷を付けたり、痕を残すようなことはしなかった。不審がられるほどの頻繁な呼び出しも、深夜遅く家に返すことも、また。
――何て狡い奴だろう。
 憎悪は日を重ねるに連れて澱のように積み重なっていき、それに反して、擬態だけが飛躍的に向上していった。
 俺は傷つかない、俺は気にしない。どんな暴言も、どんな暴力も、どんな辱めも。そんなものに心を揺らされる時期は、もうとうの昔に過ぎたんだ。
 幾らでも只乗りするがいい。
 いつか殺してやるから。





「君と肌を合わせるのも久し振りだね、葬式以来か」
 右京はベッドに腰を掛けると、自らネクタイを外し、シャツの前を寛げた。
 これから始まる行為を思うと、蓮の足は竦んだ。何度抱かれても、その行為に慣れることはなかった。身体はとうの昔に慣れ、痛みは薄れた。そればかりか、生理的な快感を覚え始めてさえいた。けれど心は、それだけはどうしても。
 ぞんざいに服を脱ぎ捨てて男の前に立つ。ためらいを、羞恥心を見せることは男を喜ばせるだけと既に学習済だった。
 ベッドのスプリングを軋ませて、右京は蓮を背後から抱き締めて来た。
「携帯に掛けても出ない。伝言を入れても掛け直してこない。何様のつもりだ?」
「あんたは俺が高校生だってことを忘れてるんじゃないのか。学生は勉強が本分、ちょっと身を入れて勉強したかったんだ」
「白々しいことを言うじゃないか」
 首筋に沿って血管を舐め上げられた。ついぞ受けたことのない愛撫に、身体が震えた。首筋に唇が押し当てられたかと思うと、そこを強く吸われる。
「全身に付けてあげるよ」
 右京の意図を悟った蓮は狼狽した。これまで男は目に付く部分に傷や痕を付けることはなかった。恐らく両親に知られることを危惧していたのだろう。けれど今日は様子が違っていた。
「やめてくれよ、親にバレたら……ん……ッ」
 首が弱いことはとうの昔に知られていた。弱いそこを重点的に責められて、出すまいと思っても、声に甘さが滲んでしまう。胸、脇腹、内股、男は唇を押し当てては吸う、の行為を繰り返した。瞬く間に、全身に鬱血が散りばめられる。
「浮気はさせないよ、病気でも貰ってきたら困るからね。知ってるだろう、蓮。私は内で出すのが好きなんだってことを」
「浮気ってのは、恋人同士の間だけに通用する言葉だと思ってたよ」
「君は私の大事な玩具だ。人に貸したり、触らせたりはしない」
 天を突く右京のそれが鼻先に突き付けられた。
「さあ、舐めて」
 最後に残った一かけらの自尊心が、それを実行することをためらわせた。弱みを見せたら駄目だと知っていたにも関わらず。蓮が見せた一瞬の躊躇、それを素早く見て取ったのか。
「送金を打ち切ろうかと思ってるんだ。彼はプライドが高そうだから、打ち切られてもきっと抗議はしてこないだろうね」
 主語を省略して発された言葉、すぐに誰のことを言っているかわかる。
「何が言いたい」
「私は遺言執行人だよ。私の胸先三寸で決まることはたくさんあると言いたかっただけさ」
「脅すつもりか。あいつへの送金が打ち切られようが打ち切られまいが、俺には関係ない。あいつは生活力がありそうだから、金がなくなってもどうにかするだろうさ」
 言って、上目遣いに右京を伺う。面倒くさいという雰囲気を上手く醸しだすことができたろうか、と。
「本音を言えよ、右京、金が惜しいんだろう? 金持ちほどケチってのは、どうやら本当の話みたいだな」
 心持ち顎を上げ、挑発するように言う。
「俺はそんな言い訳の出汁に使われたくないからね。いいよ、やるよ、お望みとあらば」
 右京は喉奥で笑った。
 口を開き、張り詰めたそれを咥えようとする。大きすぎて上手く咥えることが出来ない。
「舌を使って、そう舐めるんだ」
 一度唇を離し、舌を伸ばしてそれを舐め始める。ぴちゃぴちゃ、猫がミルクを舐め取る時のような、粘着質な音が上がる。
「上手いじゃないか、蓮」
 ぐい、と怒張したそれを喉奥まで押し入れられ、思わずえづく。逃れようと顔を背けようとする。髪を掴まれ、強制的に押し込まれた。目尻に涙が滲む。
「出すよ、全部呑んで」
 言い終わるか否か、口の中で膨張したそれが爆ぜた。どろりとした苦い液体を辛うじて飲み干す。
「げほっ、ごほっ……ごほっ……」
 右京は咽込む蓮の腕を取り、膝の上に乗せると、その脚を大きく割り広げた。さっき出したばかりだというのに、右京はもう勃ち上がっていた。肛孔に熱く昂ぶったそれが宛がわれる。
 男は背後からの座位を好んだ。何故かはわからない。聞いたこともなかった。恐らく自分の顔を見たくないからだろうと思っていた。願ったりだった。自分もあの男に、よがり泣く顔など見られたくもなかったから。
「くっ……」
 逃れることは不可能だと知っていた。けれども、無意識のうちにその挿入から逃れようと、上半身が浮き上がってしまう。
 肩を押さえつけられ、無理やり挿れられた。これまでに数え切れないほど挿れられてきたそれ、カリの部分だけ息をつめてやり過ごせば、挿入は比較的スムーズだった。
 ゆっくりと息を吐き、それを受け入れる。早く達かせてしまおう。そうすればそれだけ早く終わる。けれど、常の内臓を突き破られるような早急な突き上げはいつまで経っても訪れなかった。
 肩越しに顧みると、右京がサイドテーブルの引き出しに手を掛けている。男はそこから消毒済みの医療用のカテーテルを取り出した。
 身体が恐怖に強張りつく。以前に一度だけ試されたことのあるその行為、その耐え難い痛みを思い出したのだ。
「動くと痛いだけだよ、蓮」
 男によって調教されてしまった身体、挿れられると、ただそれだけで勃ってしまう。右京は蓮の立ち上がったそれに手を添えると、蜜の滲む鈴口にカテーテルの先端を押し当てた。身体が竦む。
「……」
 痛みと恐怖にもはや声も出ない。右京が無造作にカテーテルを差し入れる。
 右京の胸に頭を凭れかけさせ、額に脂汗を滲ませてそれに耐える。ある部分を通過する時に鋭い痛みが走り、蓮はびくりと身体を震わせた。
「もう少しだけ挿れるよ。慣れればきっと病み付きになる」
 半分ほど挿入した時点で、右京は一度手を止めた。そして、一気に深く尿道を穿つ。
「……ッ」
 尿道の内側を削り取られるような感触。痛みと恐怖、そればかりではなく、何とも表現し難い、むず痒いような感覚があった。
「自分で動かしてごらん」
 世にも残酷な命令だった。けれど、前回はそれを拒んだが為に、好き勝手に抉られて泣き叫ぶ羽目に陥ったのだ。震える手でカテーテルを取る。ゆっくりと動かす。と、ぞくり、背筋に電流のような物が走り抜けた。
 嘘だろ、何で……。
 羞恥に、カッと全身が熱くなる。身体の変化を自身で感じ取ったのか、右京は蓮の耳元に口を寄せると囁いた。
「いいよ、君が感じると締め付けられる。もう一度」
「く……ちくしょ……畜生……ッ!」
 結合したまま腰を揺すられ、その弾みで、カテーテルが更に深く尿道を抉った。
 意識したものではない強い締め付けに、大きくなった右京のそれ、二度、三度と肛孔を穿つ。
 後ろと前を同時に責められて、もはや声を殺すことができなくなっていた。ひっきりなしに襲う快楽の波に、身体がガクガクと震え、口の端から唾液が滴る。
 悪夢だった。尿道に異物を突っ込まれ、肛孔に男の物を挿れられて、あまつさえその行為に女のように感じてしまっている自分が。
「やめ……ッ……う……ぁあっ……あっ……!」
 尿道から乱暴にカテーテルが引き抜かれた。焦がれていたように白濁が迸る。達すると同時、内壁が収縮し、右京をこれまでにないほど強く締め付けてしまう。次の瞬間、肛孔に熱く濃い右京のそれがどくどくと注ぎ込まれた。





 そのまま眠ってしまったらしい。
 目覚めると右京の姿はなかった。シャワーがタイルの床を打つ音が、バスルームから聞こえてくる。
 身体中が痛くて堪らなかった。のろのろと身体を起こすと、肛孔から名残の残滓がどろりと零れ落ちる。嫌悪感に顔が歪んだ。
 脱ぎ散らかした衣服の中からトランクスを取り上げて、それを履く。それにシャツを引っ掛けただけの恰好で、キッチンの冷蔵庫に直行した。勝手知ったる他人の家、酒と調味料しか入っていない冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「また酒? 未成年の癖に」
 背後から掛かった声に振り返ると、バスローブを羽織った右京の姿があった。
「その未成年と楽しんでるのは、どこの誰だい」
 プルタブを押し開けるなり、ビールに口を付ける。喉を鳴らしてそれを飲み、手の甲で唇を拭う。
「相変わらず、何も入ってない冷蔵庫だね。――恋人はいないのか」 
 答えはなかった。右京は薄く笑い、キッチンに入ってくると、蓮の手からビールの缶を取り上げた。
「俺とこんな爛れたセックスばっかりやってると、普通のセックスじゃ物足りなくなるよ。それとも、同じ趣味でも持ってる女でも探して、よろしくやるつもりかい」
「恋人を作るつもりはないよ。私はこの家に他人を引き入れるつもりはないんだ」
 取り上げたビール、それを一口口に含んで、右京は答えた。
「それじゃ、身内なら? 摩耶なんてどうだい」
「あの子は君が好きだってことは知ってるだろう。それに、私は気の強い女は好みじゃない。華代子姉さんだけで手一杯だ」
 以前に似たような会話を男と交わしたことを思い出し、蓮は言った。
「あんたは前にこの話で俺を釣ったね。俺だって騙されっ放しじゃいない。教えてくれないか、あんたの妹のこと」
 右京は一旦口を開きかけたものの、ややあって唇を閉ざした。蓮は好機を逃さず。
「いいじゃないか、少しぐらい教えてくれても。いつも尻を貸してるんだ」
 右京は緩く首を振り。
「……可愛い子だったよ、私の自慢の妹だった」
「その子と寝た奴がどうしても許せない? あんたは俺の父親を憎んでるんだろう。だからこんなことをして悦んでるんだ。そいつへの復讐のつもりかい」
「私が君の父親を憎んでる、か。面白いことを言うね。いや、そんなことはないだろう。君を生まなければ、あの子は生きていたんじゃないかという気持ちはある。君を生んでからあの子の病気はひどくなった。あの子の子より、私はあの子に生きていて欲しかったから」
 憎まれていることはとうの昔に知っていた。けれど面と向かっていらないと言われたのは初めてだった。唇に知らず自嘲が浮かぶ。
「あんたはシスコンかい?」
 片眉を跳ね上げて問う。右京は平然と。
「島津は古い家だ。昔から血縁同士で結婚を繰り返している。確かに血に惹かれる傾向があるように感じるよ、身贔屓は相当なものだ。摩耶が君を好きなのも、恐らくはその血に起因しているんじゃないか」
「悪いが、俺は違うよ。俺は血が近いからなんて理由で人を好きになったりしない。摩耶は摩耶だから好きなんだよ。血縁だから、なんて下らない理由なんかからじゃない」
「それじゃ、友弥はどうなんだ。どうして君はそんなに友弥に固執する」
 再び冷蔵庫を開け、二本目の缶ビールを取り出す。表情を読まれまいとして取った行動。瞳を閉ざして一秒、二秒。心を落ち着かせてから、右京に向き直る。
「俺はあいつに固執なんてしてないよ。歳も近いし、それに興味もあったからね。笑っちゃうじゃないか、私生児だなんだ言って、俺をさんざん苛めたじいさんが他所に子供を作ってたなんて。だから知りたかった、ただ、それだけのことさ」
 喉の渇きが収まっていたためだろう。二本目のビールは一本目の時より美味しく感じられなかった。すぐに口を離し、缶をシンクに置く。
「友弥の母親に会ったことは?」
「いいや、会ったことはないよ。私が彼らのことを知ったのは、二年前。彼の母親が亡くなったその時に、入院中の父から聞かされたんだ」
 蓮の脳裏に、友弥の家で偶然見かけた写真立ての写真がよぎった。ゴンドラの上で微笑むその女、それに友弥の顔が重なる。
「顔も、それも知らない?」
「ああ、それがどうか」
「綺麗な女だったよ、もっとも俺も写真で見せてもらっただけだけど。じいさんは面食いだったんだな、って思ってね」
「蓮、君は何を隠してる」
「何も。何を隠すことがあるんだ」
 唇に緩い笑みを称えて、そう切り返す。
「まあ、いい」
 右京が身を屈め、唇を近付けてくる。
 思いも寄らぬ行為に驚き後ろに下がると、冷蔵庫が背に当たり、退路を立たれてしまう。重なった唇の隙間から熱い舌が滑り込んで来る。歯列を割り、熱を求めて。
 抗おうとするのを許さず、右京は蓮の口内を思うさまに蹂躙した。
腕を突っ張らせて肩を押し、漸く口付けから逃れたその瞬間、鋭い痛みが走った。
 唇を噛み切られたことに気付き、反射的に指先を唇に当てる。
「――蓮、友弥とはもう二度と会うな。いいね」
 ぽた、ぽた、指先を伝って流れ落ちた血が、タイル貼りの床に染みを作った……。






つづく
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