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子羊は惑う 5





 その晩、友弥は教えてもらったばかりの蓮の携帯に電話を入れた。ワンコールで蓮が出たことに安堵する。
 口篭もりつつ発した問い掛け、蓮はカラカラと笑って。
「さんざん説教されたけどね、外泊の理由に人を使うなって。あの後? まっすぐ家まで送ってもらった」
 電話越しに安堵の思いが伝わったのだろうか、蓮は。
「何だ、心配してくれたのかい。あいつに乗っかられたんじゃないかって? あいつも疲れてたみたいだから、それどころじゃなかったんだろう」
 友弥は下卑た想像を巡らせた自分を恥じた。
 馬鹿だな、僕は。お仕置きと称して何かされたんじゃないか、なんて。三流ポルノじゃあるまいし。
 それだけを確かめたくて掛けた電話だった。話題が途切れ、それを誤魔化そうと、約束したもんじゃの話を出す。いつにしようか、と。
「もんじゃ?」
 喜んで飛びついて来るとばかり思っていた。意外にあっさりとした返事に拍子抜けする。
「今、中間前でちょっと忙しいんだ。テストが終わったらまた連絡する」
 電話を切ると、少しだけ白けた気分になった。
 あんなに連れてけ連れてけってせがんでたくせに、勝手なもんだな。
 炬燵に足を突っ込んだまま、ごろんと横になる。そして気付く、もんじゃを楽しみにしていたのは、彼でなく自分だったということを。
 一人きりの居間はガランとして広く感じられた。友弥は炬燵を出て立ち上がると、部屋の電気を消した。





 蓮から連絡があったのは、その一週間後だった。あまり長くはいれないんだ、忙しくて。そう前置きして、彼は自ら日時を指定してきた。何だよ、という捻くれた気持ちが半分、けれど残りの半分で、彼との再会を楽しみにしている自分がいた。
 約束の時間の十分前、待ち合わせの場所である地下鉄の出口に行く。驚いたことに、彼は既に来ていた。ラフなパーカー姿は初めて目にするもの。
 顔を合わせるなり見せた屈託のない笑顔にホッとする。
 何だ、元気そうじゃないか。
 徒歩で数分の距離にあるもんじゃ屋に向かう。のれんをくぐり、馴染みのオバちゃんに挨拶する。『あら、トモちゃんの親戚? まあ、兄弟みたいに似てるのねえ』 開口一番、発せられたその言葉。二人、顔を見合わせて笑った。
「まず具から先に炒めるんだ、貸して」
 戸惑う蓮の手からヘラを受け取り、鉄板の上で手早く具を炒める。
 炒めた具で土手を作ってから生地を流し込む。そこは下町っ子の意地、友弥の手つきは堂にいったもの。生地が煮つまるのを待ちながら、友弥はビールを呷った。
「ちぇっ、自分ばっかり飲むんだな」
「前にも言ったろ、未成年は」
「茶でも飲んでろ」
 さながら下の句を読むように言って、蓮は。
「いつから日本は十九歳から酒が飲めるようになったんだ。なあ、法学部」
 鋭い指摘に思わずむせる。飲めよ、半分だけ口を付けたビールジョッキを蓮の方に押しやる。蓮は喜々としてそれを呷り。
「ふふ、やっぱりビールは最初の一杯が最高だね」
 酔いのせいか、はたまた鉄板の熱気とのせいか、蓮は顔を赤くしながら、もんじゃを口に運んだ。ヘラを口に咥えたまま。
「何とも言えない感じだな。美味いんだか何なんだか」
「初めて食べた奴は皆そう言うね。……唇、どうした」
 先ほどからやけに食べにくそうにしていることに気付いていた。観察してみると唇に傷があった。指摘に、蓮はせっせとヘラを動かしながらも。
「体育の授業で、サッカーボールをぶつけられた」
「ドジだな」
「うるさいな、これでも運動神経は良い方なんだ」
 熱せられた天板で熱くなったのか、蓮がタートルネックセーターの袖を捲った。何気なくそちらに視線を向けた友弥はぎくりとした。蓮の腕にうっすらと残る鬱血の痕に気付いたのだ。
 血の気が一気に引くような思いがした。
「餅が入ってるのはいいね、とろっとしてて。……?」
 友弥の表情を読んだのか、蓮がけげんそうな表情を浮かべた。友弥の視線を辿り、その表情の意味を悟る。気まずい雰囲気の中、蓮は袖を元に戻した。
「なんで、なんで嘘なんてついたんだ。まっすぐ家まで送ってもらったなんて、あれは嘘だろう。それとも、その後でまた会ったのか」
 また、という部分で、蓮は顔を上げまっすぐに友弥を見た。
 抗議するように激しくかぶりを振る。
「その口の傷もそうなんじゃないのか。殴られた? 暴力を振るわれたんじゃないのか。どうして黙ってたんだ!」
 どうしようもなく激昴してしまう自分を止めることが出来なかった。他の客が驚いたように自分たちを見るのが分かる。蓮は周囲の目を慮ってか、低く押し殺した声で。
「じゃ、どう言えば良かったんだ。右京に尻を貸して、アンアン言ってますって言えば良かったのか。俺はあいつの奴隷で、逆らえませんなんて言えば良かったのか。言ってどうにかなることならとっくに言ってる。どうにもならないんだよ、友弥」
 蓮は何かを振り切るようにもんじゃを口の中に押し込んだ。唇の傷に触ったのか、顔を顰める。
「ご両親に相談したらどうだ」
 蓮はヘラを動かす手をピタリと止めた。
「恥ずかしいことも、言いにくいこともわかる。だけど、ご両親はきっとわかってくれる。むしろこのまま黙っていて、君が酷い目に合わされ続けることの方がご両親には苦痛なんじゃないか」
「俺の母親は子供みたいな奴なんだよ。お姫さま育ちってのは、ああいうのを言うのかもしれない。ふわふわと育って、見合いで親父と結婚して。初めてぶつかった壁が子供が出来ないこと。だけど、そんな育ちだからこそ、事情のある子供を大した抵抗もなく引き取ってくれたんだと思う。プロテスタントだってことも起因してるのかもしれないな、キリスト教の慈愛の精神って奴か」
 彼の育ての母親についてある程度の想像はしていた。育ちの良い、世間知らずの母親。悪ぶってはいるものの、時折覗き見える育ちの良さを伺わせる彼の言動がそれを如実に裏付けていた。
「俺は伝えたくない。ショックを与えたくないんだ。母親には何も知らないままでいて欲しいんだよ。俺は母親を愛してるし、大事に思ってる。血の繋がりなんて関係ないよ。俺の両親は、血が繋がってるだけの他人みたいな連中よりも、何倍も何十倍も俺を愛してくれてる」
 蓮は指と指とを組み合わせた上に顎を乗せると、目を伏せた。
「親父は商社マンで忙しくてあんまり家に帰ってこない。だけど、俺がじいさんや右京を怒らせる度に謝ってくれる。それについて責められたことはない。それで充分だと俺は思ってる。事情があるんだよ、友弥。俺の家は四方堂の分家で、本家には逆らえない。そして、本家は島津から色々と援助してもらってるらしい」
「旧家の考えは僕にはわからないよ。母には妹が一人、祖父母は僕が子供の時に亡くなってる。親戚ってのはお互い助け合ったり仲良くしたりするために存在するんだと思ってた」
「――血はすべてだ。一番深い怖れと憎しみは、血の底にある」
 まるで何かの呪いの文句のようだった。驚いて目を見張った友弥に。
「昔読んだ本の一節だよ。何の本かはもう忘れちまった。だけどその一節が何だか印象に残ってね、忘れられなかった」
 もんじゃは煮つまり、いわゆる煎餅の状態になっていた。それに手を付ける気にはなれず、友弥は無言でヘラを置いた。
「右京は、あいつはちょっとおかしいんだ。関わらないことをお勧めするよ」
 蓮が残ったもんじゃを半ば無理やりと言った形で口に押し込む。それを機に友弥は会計を済ませた。
「家に寄ってくかい。ちょっと散らかってるけど」
 のれんを上げて店を出たところで発した誘い、蓮はかぶりを振り。
「楽しかったよ、友弥」
「ああ、次は明太子の奴を頼もう。君が辛いのが平気なら」
 蓮は肩を竦めて笑っただけ、何も言わなかった。
「蓮、次はいつ……」
 会おうか、続く言葉を待たず、蓮は踵を返すなり、地下鉄の入口に向かって駆け出した。
「それじゃ」
 猫みたいな奴だな。気の向いた時だけすり寄ってきて、気の向かない時はふいといなくなるんだ。
 友弥は昔飼っていた猫のことを思い出した。学校帰りに拾ったその猫は随分と長く生きた。歳を取り、だんだんと起きている時間が少なくなり、ある日ふといなくなった。恐らく死に場所を探しに行ったのだろう。
 水臭い奴だと思った。どんなに泣いたとしても、最後をきちんと看取ってやりたかったのに、と。
 何故か、その時の奇妙な寂しさを思い出した。友弥はその場に立ったまま、蓮の姿が地下鉄の入口に消えるまで見送り続けた。





 それから蓮からの連絡はなかった。一度だけ、大したことじゃないと自分に言い聞かせつつ、友弥の方から連絡を入れた。答えは前と同じ、忙しいんだ。全国模試が、文化祭が。言い訳のように感じられて、その先の予定を聞くことは出来なかった。
 そうして、もんじゃから一ヶ月ほどたったその日、友弥は顧問弁護士の伊集院の事務所を訪れた。
「初めてですね、こちらにいらっしゃるのは」
 事務員が出してくれた珈琲に口をつけながら、ぼんやりと違うことを考える。
 あいつ、豆を持ってくるって言ってたくせに。
「そうそう、四方堂の息子さんが貴方と連絡を取りたがっていましたので、ご住所を教えましたよ。ご連絡は?」
 文句を付けに来たとでも思ったのだろうか、伊集院弁護士はさっそく先手を打ってきた。
「ええ、あれから二度ほど会いましたよ。歳が近いし、顔も似てるので、お互い親近感があって……」
 流石に家に押しかけて来ました、とは言えず、そんな言葉で茶を濁す。
「でしょうね、私もあなたに初めてお会いした時は驚きましたよ。お話しする訳にはいきませんでしたから、黙っておりましたけれど」
「父は知っていたんでしょうか。彼と僕が似ているということを」
「写真を届けたこともありますから、恐らくはご存知だったと」
 片方には毎月きっちり養育費を届けて、片方を杖で殴ってた、と。片方は自分の子、片方は娘の不義の子、似てる似てないは関係ないのかもしれない。けれど……。
 どうにも納得できず、友弥は微かに息を吐いた。
「お恥ずかしい話なんですが、僕は何も知らないんですよ。父親のこと、母との関係、何一つ」
「プライバシーに関わることですが、あなたのお気持ちはよくわかります。どちらももう故人です、差し障りのないことならお話ししましょう」
 弁護士の言葉には自分への深い共感のようなものがあり、それが友弥を驚かせた。自分の住所をバラされたことで、どちらかと言えば迂闊な印象が強かった弁護士。どうやらそうではないらしい。
 伊集院さんの情に訴えたのかい、上手いね、蓮。
「氏の会社の、事務員として働いていたとお聞きしました。そこで知り合われたと。あなたを身篭られて会社をお辞めになって、認知はあなたが生まれたその時に」
「母はその後も父と会ったりしていたんでしょうか。僕は……まったく気付かなかった」
「いいえ、あなたが生まれてからは会うこともなかったと思いますよ。養育費は全て銀行振込み、氏はあなたに会うことを望んでおられましたが、あなたのお母さまがそれを拒みまして」
「どうしてでしょうね。結婚の約束でもしてたんでしょうか。それを破棄されて、顔も見たくないほど嫌いになってしまったのか」
 喉元に魚の骨が引っ掛かったような、そんな感じがした。
 明るく朗らかで、冗談をよく言った母親、そんな母親と日陰のイメージが付き纏う愛人という言葉がどうしても結びつかなかったのだ。
「結びつかないんですよ。僕の母親とその話が、何だか引っ掛かって」
「私はあなたのお母さまには何度かお会いしました。あなたのお父さまに恨み言を仰るようなことは一度もありませんでしたよ。それ以上のことは――」
「いえ、結構です。ありがとうございました」
 事務所を辞そうとして思い出す。
「蓮はどうしました? 結局別荘は貰うことに?」
「随分と悩まれていたようですが、貰うことにしたそうです。先日ご両親と共にここに来て、手続きについて詳しく聞かれていきました」
「そうですか。……汚染を覚悟したのかな」
 伊集院弁護士がいぶかしげな顔をする。いいえ、何でも、済ました顔で付け足して。
「伊集院さん、お客様が」
 新しい客の来訪を告げる事務員、友弥は折り良しとばかり立ち上がった。
 今一度礼を述べて、扉を開けて外に出る。次の瞬間、友弥は言葉を失い、その場に立ち尽くす羽目に陥った。
「まさか君が来ているとは思わなかった。奇遇だね」
 低く落ち着いた声、右京だった。





 連れて行かれたのは、事務所近くの古びた喫茶店だった。煉瓦の外壁に蔦が絡まり、ショーケースに埃の被ったロウ細工が並ぶ、自分では決して選ばないような店。
 右京は友弥の意向も聞かず、席に付くなり、珈琲を二つ注文した。
「この間は碌に挨拶もせずに失礼した。蓮が迷惑を掛けてすまなかったね」
「いえ、僕も楽しみましたから。けれど、彼があなたの名を使って家を出てきたことについては感心していません。今後は気を付けるように彼に言うつもりです」
「蓮は我儘な子だからね。四方堂の家が甘やかしてるせいだろう。少し奔放なところがあるんだ。君は歳のわりにしっかりしている。彼を良い方に導いてくれれば嬉しいよ。あれから君に迷惑をかけたりしていないだろうか」
 外泊を懸念しているのだろう。誤解されては堪らないと友弥は身を乗り出し。
「あの後、彼とは一度しか会ってません。勉強に力を入れているようで、外で食事をして早々に別れました。心配をされるようなことは、恐らく何も」
 右京はうっすらと口許に微笑を刷いた。唐突なその微笑に、何故だか背筋が寒くなる。
 性行為の現場を目撃されたことをこの男は知らない。蓮が話していなければ、だが。
 だからこそ、こうして奔放な甥を案じる叔父の役を演じているのだろう。
 蓮の白い腕にあった鬱血を思い出す。この整った唇がどんな風にあの痕を刻んだのか、想像するだけで胸にカッと熾るものがあった。
「蓮はね、普段はなかなか咥えてくれないんだ。だが、最近君のお蔭で素直になってくれて嬉しいよ。無理なプレイにも応じてくれるようになった」
 何のことだ、プレイ? 男が一体何を話しているのかわからなかった。
「突くだけで達けるようになるまでにそれほど時間はかからなかったよ」
 唐突に男の言葉の意味を悟り、友弥の頬がサッと朱に染まる。
「突き上げるうちに徐々に身体が熱を帯びてくる。反応するところを執拗に責め続けると、やがて堪えきれずに鳴き出すよ。やめてくれ、とうわ言のように繰り返す。それを無視してなおも突くのが好きだった」
「やめて下さい。こんな……ところで」
 喉奥から搾り出すようにして言うのがせいぜいだった。膝がガクガクと震えているのが自分でもわかる。
「蓮は私のものだよ。時間を掛けて、じっくりと私好みに仕込んだ。誰にもやらない。それがたとえ君であろうともね、友弥」
 乾きにひび割れたような気さえする唇をこじ開けて、友弥は言った。
「一言だけ言わせて下さい。蓮はあなたのものじゃない。誰のものでも、もちろん僕のものでもない。あなたはきっと蓮がお嫌いなんでしょう。あなたの妹を殺したも同然の存在だと思い込んでる。だけどそれは彼のせいじゃない。生む選択をしたのは彼の母であって、彼は望んで生まれて来た訳じゃない。彼を責めるのは間違いです」
「やけに蓮の肩を持つんだね、君は」
「なぜなら、僕も彼と同じ立場の人間だからです。あなたやあなたの親族にとって僕は目障りな存在かもしれない。だからこそ僕はなるべくあなたたちの前に出ないようにしている。その上でなお責められるのならば、僕だって怒ります。好きで生まれて来た訳じゃないと」
 右京は珈琲を一口口に含み。
「成程、確かに君と蓮の境遇は似ている。合わせ鏡のあちらこちらだ。だからこそ、互いに惹かれ合うのだと思っているんだろう」
「そんな……」
「けれど君は幾つか勘違いをしている。君は私が蓮を憎んでいると思い込んでるね。だが、それは違う。私が蓮に対して抱いている感情はもっと複雑な物」
 かちゃり、右京は微かな音を立ててカップをソーサーに戻した。
「血だよ、友弥。私たちは血には抗えない。蓮に対する君のその気持ちが血から来るものではないと言い切れるかい。蓮が君を好くのは君の血に起因するものだとは思わないのかい。いつか君も私のこの言葉を理解出来るようになるかもしれない。その時」
 テーブルの上に置いていた友弥の手、それにひんやりとした右京の手が重ねられる。友弥は一瞬びくっとして、手を引いた。
「君は一体どうするつもりなんだ」
――血はすべてだ。一番深い怖れと憎しみは、血の底にある。
 ふいに蓮の言葉を思い出す。
 まるで何かの呪いの文句のようだった、その言葉を。
「血が、それがなんだって言うんです。吸血鬼でもあるまいし」
 立ち上がり、財布から千円札を取り出してテーブルの上に置いた。この男には奢られたくない、それは子供のような意地だった。
「蓮は君のためなら、と必死だ。表には出さないけれど、私にはわかる。彼にはもう会わないでくれ。そして、それは君の為でもあるんだよ」
 席を離れる寸前、そんな右京の言葉が耳に飛び込んで来た。






つづく
Novel