子羊は惑う 6





 その日を選んだのに特に理由はなかった。
終業式はいつだと問いて、告げられた日付がまさにその日だった。24日、世間一般で言うところのクリスマスイヴ。
 無理なら構わないと逃げ道を作ると、いや、俺も会いたかったから、言葉少なに蓮は言った。
 蓮の学校の近くの公園で待ち合わせた。
 蓮は初めて会った時と同じ制服姿だった。学校指定と思しきダッフルコートが大人びた雰囲気を持つ青年を歳相応の存在に見せていた。
「ご両親は?」
「クリスマスイヴはトゥール・ダルジャンで食事をするのが決まりなんだ、あの番号付きの鴨をね。昔は一緒に行ってたけど、今は行ってない。新婚気分にさせてやろうと思って、遠慮してるんだ。子はかすがいって言うらしいけど、あの親に限っては例外だろうね」
 冬枯れの公園のベンチに並んで腰をかける。
「寒くないか」
 立ち上がり、自動販売機に硬貨を投入する。購入したのはホットの缶珈琲。それを手渡しながら。
「豆を持ってくるって言ってたから、自分じゃ買ってないんだ。約束したのにひどいじゃないか」
 答えはなかった。黙ったまま、珈琲を口に運ぶ蓮に問いを投げ掛ける。
「――僕の家にはもう来ない?」
「行かないよ、迷惑だろう」
 予期していた答え、なのにショックを受けている自分に友弥は自分でも驚いた。ベンチ脇に置いていた紙袋を取り上げる。
「大した物じゃないんだけど、今日はイヴだから」
「クリスマスプレゼント? 悪い、俺は用意して来なかった」
「構わないよ、君に会えただけで充分」
「女の子が聞いたら泣いて喜びそうな台詞だね。何か裏があるんじゃないかって思うよ」
「裏ねえ、君を騙して何の得があるんだか」
「俺はかなりの年になるまで親に騙され続けてたよ、サンタを信じ込まされてた。俺ん家には暖炉があって、靴下も毎年下げてたんだ。イヴになると母親が暖炉の側のテーブルにシェリーやらケーキやら、トナカイ用の人参なんかを並べておくんだよ。クリスマスの朝になると、食べたり飲んだりした跡がある。サンタさんがいらっしゃったわよ、言われて馬鹿な俺は大喜びだ。真顔でサンタはいると言ってのけて、クラスでさんざん笑いものにされた」
「何だか良い話のような気がするけどね、開けて?」
 紙袋からラッピングを施されたそれを取り出す。
「サンタの不在がハッキリした今でも、俺は毎年靴下を下げさせられてるよ。今年は何だろうな、去年なんて熊のぬいぐるみとキャンディ・ケーンが入ってた。知ってるかい、杖の形をした紅白ストライプのキャンディ、俺を幾つだと……。マフラー?」
 包装紙を取り去ると、現われた長方形の箱。どうやらその形状からプレゼントの中身に気付いたらしい。
「捻りがないって思うんじゃないかな。僕はあまり趣味が良くないんだ。君は良さそうだけどね」
「いや、嬉しいよ」
 蓮が箱を開ける。さんざん悩んだ末に決めたオフホワイトのロングマフラー、気を衒うよりはマシだと言い聞かせつつも、無難すぎる選択のような気がしていた。けれど蓮は手放しに喜んでいた。喜々としてそれを首にかけ。
「前に使ってた奴をなくしてね、困ってたんだ、大事にするよ」
 濃緑のダッフルコートにオフホワイトのロングマフラーは彼によく似合った。巻いてやろうと友弥はロングマフラーに手をかけた。
「……っ」
 蓮が苦痛を訴えた。どうやら胸に手が当たってしまったらしい。
「蓮……?」
 問いかけに、蓮が不自然に視線を逸らす。異常を感じ取った友弥は、蓮の許しも得ず、ダッフルコートのくるみボタンを外した。ネクタイを解きシャツの前を開く。
 蓮の白い肌には無数の鬱血があった、まるで見ろ、と言わんばかりに。そして、右の胸元にそれを見つける。
 薄紅色の乳首に穿たれた銀色に光るピアス。手が当たった為に傷口が開いてしまったのか、うっすら血が滲んでいる。
「何だ、バレたか。穴が完成したら見せようと思ったのに。本当は臍にしようと思ったんだけど、感染症とか恐いだろう。だから――友弥?」
「もう止めてくれ、蓮……、嘘はつかないでくれ。せめて僕の前だけは」
「な、どうしたんだよ、何で、何で泣いてるんだよ、友弥」
 自分が泣いていることに指摘されるまで気付かなかった。ぐい、手の甲で涙を拭い、友弥は尋ねた。
「いつ?」
 誰に、とは聞かなかった。
 蓮はシャツのボタンを嵌めて着衣を改めた。ベンチの背もたれに身を預けると、曇天を仰いで嘆息し。
「ついこの間。あんたともんじゃを食べに行ったのがバレた。口止めしなかった俺が悪い、あんたのせいじゃないよ」
 目を閉じ、唇を噛み締める。あの時、誤解されては堪らないと口走ったことが裏目に出たに違いない。
友弥は頭を抱え込んだ。
「駄目なのか、ただ会うだけでも。右京さんは何を心配してるんだ。何も、何もないじゃないか。右京さんが心配しているようなことは何も」
「右京が心配してることってのは何だい、セックスかい。すると、俺はあいつ専用のダッチワイフって訳か」
 蓮のその露悪的な物言いが、その実、身を守る術であるということは、とうの昔に気付いていた。
 蓮、君は……、友弥は力なく笑った。
「右京はそのうち俺に飽きるよ。断言したっていい。俺は本当に平気なんだ、何をされても。だけど、あんたには迷惑をかけたくない。だから」
 一旦言葉を切り、蓮は一息に言い放った。
「俺たちはもう会わない方がいいんじゃないだろうか」
 ぎゅっ、膝の上に置いていた友弥の手に力がこもる。
「君はそれで平気なのか」
「平気だと思うのかい」
 蓮の鳶色の瞳がわずかに揺らぎ、やがてゆっくりと伏せられた。
「――昔、母親に連れてかれてた日曜学校で習ったんだ。キリストが誕生した時、真っ先に駆けつけたのは羊飼いだったんだって。ああ、さっき言ったね。キャンディ・ケーン、あれは羊飼いの杖なんだよ。それと迷える子羊を救うイエスを現わしてるんだって」
「僕はあれはクリスマスの飾りだとばかり思ってたよ。そんな意味がこめられてるのか」
「何せ、子供だからね。牧場なんて行ったことがないし、羊飼いと言われてもぴんと来ない。俺は島津のあの庭のことを連想したよ。それから、あの庭に逃げ込むたびに、羊飼いがやって来ないかと思うようになった」
「逃げる? どうして……、ああ、ごめん」
 おおよその見当はついた、蓮が父親に杖で殴られていたという話を思い出したのだ。
「いいよ、謝らなくて。そう、俺はじいさんに殴られちゃ、しゅっちゅうあの庭に逃げ込んでたんだ」
「君の言う羊飼い、それはキリストのことなのかい」
「さあ、誰だろう。キリストかもしれないし、俺の本当の父親かもしれない。ふふ、子供らしい自分勝手な想像だよ。俺を助けてくれる誰か。何となくね、そん時の気持ちを思い出した」
 無意識のうちに身体が動いていた。俯き加減の蓮の顔、その顎に手をかけて上向かせる、顔を、見ようと。
「俺はずっとあんたに会いたくてたまらなかった。最初は好奇心から、だけど今はよくわからない」
 鳶色の瞳が再び友弥を捉えた、蓮はにやりと唇を歪め。
「どうした? 俺の魅力に屈したかい」
「馬鹿」
 柔らかそうなその唇に自らのそれを重ねる。蓮は一瞬びくりと身を震わせ、それから瞳を閉じてそれを受け入れた。
 舌先が触れ合うと電流のような物が背筋に走る。柔らかくて温かい蓮の舌、瞳を閉じてそれを味わう。
 初めて女の子と口付けを交わした時のように興奮していた。蓮の舌を噛んでしまいそうな自分を抑えるのがやっとだった。手の震えが止まらない。
 息継ぎの為に離れた唇、蓮が視線を合わせて微笑する。
「上手いじゃないか、女の子が喜びそうだ」
「摩耶ちゃんが君はキスが上手いと言ってたよ」
 頭に花が咲いてるともね、思わず付け加えてしまいそうだった。蓮は顔を顰め、いつもの台詞を口にした。……おしゃべりめ。
「それじゃ、今度摩耶にキスをしてみてくれよ。それから聞いてくれ、どっちが上手いか」
 蓮が誘うように唇を開く、再び唇が重なった。
 クリスマスイヴの公園で口付けを交わす自分達は、見る人が見れば、さぞかし好奇をそそる見世物だったろう。幸い人影はない。貪るように舌を絡め、喉を鳴らして互いの唾液を飲んだ。
 どれほどの時間が経ったろうか。
 蓮は微かに息を吐くと、ゆっくりと唇を放した。恥ずかしさのあまり、友弥は蓮の顔をまともに見ることが出来なかった。それは蓮も同じだったらしく、視線を革靴に落としたまま。
「冬休みはいつも四方堂の本家で過ごすのが決まりなんだ」
「いいね、どこだい」
「博多、俺はばあちゃんの気に入りでね。行かないと寂しがるんだよ。血も繋がってないのにね。……土産は何がいい」
 咄嗟に顔を上げる、その言葉の真意を悟り。
「君が帰って来てくれればそれでいいよ。いや、お願いしようかな、明太子」
「連絡するよ、戻ってきたら。右京に見つからないように上手くやる」
 ふと思いついたように、蓮は言葉を重ねた。
「あの軽井沢の別荘に行ってみようと思ってる。付き合ってもらえるかい? そうだな、一泊で」
「何だ、僕まで汚染させる気かい?」
 例の劣化ウラン弾云々の話を思い出して、そう付け加える。
 互いに言わなければならない言葉はわかっていた。けれどもどうしてもその一言を口にすることは出来なかった。
「君は猫だな。勝手だな、と思って時々放りだしたくなる。なのに、忘れた頃にすり寄って来て、骨抜きにされる。気付くと奴隷だ、ミケと同じだね」
「ミケ?」
「昔、うちで飼ってた猫だ!」
 蓮がくつくつと身を折って笑い出す。笑いはいつまでも止まず、彼は笑いながら手で顔を覆った。
「何でなんだか自分でもわからないんだよ。どうしてこんなに……切ないんだろう」
 言葉は尽きた。
 二人黙りこくったまま、長い間そこに座り続けた。






つづく
Novel