子羊は惑う 7





 大学の友人に頼み込んで車を借りた。
 待ち合わせ先はJR駅前のロータリー、車を停めて暫し待つ。
 ほどなくして蓮が現れた。友弥に向かい手を振ってから、助手席に乗り込む。
「心配してた、来ないんじゃないかって」
「まるで人妻と不倫してる親父みたいだな。大丈夫、グループで旅行に行くって親には言っておいた。ダチに頼んで、右京と一緒にいる時に電話も入れてもらった。抜かりはないよ」
 一緒にいる時、何気なく発されたその言葉に胸が痛んだ。
 酷い目に遭わされてはいないだろうか。その問いを口にすることはできなかった。無言でエンジンを掛け、車を発進させる。
 軽井沢までの道程は順調だった。途中ドライブインに寄って休憩を取った。
 手洗いに行き戻って来ると、蓮は携帯電話で何事か話し込んでいた。友弥の顔を見るや、バツの悪そうな表情になり、そそくさと携帯を尻ポケットに突っ込んだ。
 何だ? 心に浮かんだ疑問は口には出さず、その代わりに、何か食べるかい、と尋ねた。蓮が喜々として選んだのは、アメリカンドック。
「ガキの頃、両親と一緒にニューヨークに住んでたんだ。そん時のことはあんまり記憶にないんだけど、こいつをコーンドックって呼んでたことだけはよく覚えてるよ。大好物で、出店を見る度にねだって食べてた」
「驚いたね、君は帰国子女なのか」
「そんな大したもんじゃないよ。いたのはキンダーまで、だから多少は発音は良いかもしれないけど、俺の英語は基本的に受験英語だ」
「それでも大したもんじゃないか。僕なんてまだ一度も海外に行ったことがないもの」
 蓮は瞳を伏せて追憶に耽った。
「コニーアイランドっていう遊園地があるんだ。オー・ヘンリーの短編にも出てくるような古い遊園地だよ。そこによく連れて行ってもらった。その遊園地は海のすぐ側にあるんだ。今でも思い出せるよ、砂混じりの潮風とホットドックの匂い。親父も母親もまだ若くて――」
 しんみりとした雰囲気に感化されたのかもしれない。友弥は缶珈琲を口に運びながら。
「君みたいに恰好良いもんじゃないけど、僕にも母との思い出があるよ。休みの日はよく二人で隅田川の川べりに行って弁当を食べた。外で食べると、美味しく感じるのはなんでだろう。給料日になるとよく寿司屋に連れていってくれた」
「あんたは……、母親似?」
「だと思ってたんだけどね、どうやらそうじゃないらしい。でなきゃ、君と似ている説明がつかないもの」
 蓮が食べ終えたアメリカンドックの棒をゴミ箱に向かって放る。
「いや、俺が聞きたかったのは、性格の方」
「どうだろう。あんまり似てないかもしれない。母はよく笑ったし、冗談も言った。だから……」
「だから?」
「いまだに納得がいかないんだよ。君のおじいさんと僕の母がそんな関係を持っていたことが」
 蓮は何とも言えない奇妙な表情を浮かべて友弥を見た。友弥はいぶかしさを視線に乗せて見返す。けれど、蓮は何も言わず。
「行こうぜ」
 友弥を促し駐車場に向かって歩き出した。





 軽井沢は雪景色だった。
 管理事務所に立ち寄り、鍵を受け取ってから、その別荘に向かう。
 前庭に車を停め、新雪を踏んで玄関に立つ。チューダー式のその別荘は古びてはいるものの、造りの大きな立派なものだった。
「これは……」
 蓮が玄関を開けるのを、寒さを堪える為に足踏みをして待ちながら。
「大した資産じゃないか、相続税も相当だろう」
「俺は金を持ってないからね、親父に出してもらった。出世払いだ、って冗談で言ってたけどね。親父は言うんだよ。島津のじいさんが嫌っていた俺にこいつを遺したことには何か意味があるんだろうと。ひょっとしたら贖罪のつもりなんじゃないかと、だったら多少無理をしてでも貰うべきだとね」
 寒さでかじかむ手で何度もやり損ない、ようやくのことで開いたドア、さっそく内に入る。
 玄関を入ってすぐは吹き抜けのリビング、事前に連絡を入れていた為、既に水道栓は開かれており、暖房も入っていて温かかった。
「こっちだと冬の使わない時期は水道栓を閉めとくらしい。放っておくと破裂するんだと」
 キッチン、トイレと水周りを確認してから、ソファに腰を下ろす。
「右京さんは何か言ってた? この別荘のこと」
「あいつは俺の知りたいことは決して教えちゃくれないよ。何も――、何も言わない。金持ちほどケチだってのはこの世の真理だから、内心面白くないと思うけどね。だけど遺産の話が持ち上がる前までは、この別荘のことをよく話してたよ」
 ソファの対面には古びた暖炉、蓮は立ち上がると、暖炉の扉を開けて煙突を覗き込んだ。
 掃除はしてあるみたいだ、一言言って、暖炉脇に積み重ねられていた日付の古い新聞紙に手を掛ける。
「この土地は昔から島津が持ってたそうだよ。右京が子供の頃から別荘として使ってて、夏はいつもこっちで過ごしてたって。建物は二十年位前に一度建て替えて、それからはずっと手を入れてないらしい。あんまり使ってないみたいだな」
 新聞紙を暖炉に敷き、蓮は手際良く薪を組み始めた。空気が入るようにする為か、縦横交互に組み合わされていく薪を興味深く見ながら。
「勿体ないな、こんな立派な別荘なのに」
「子供が大きくなったってのもあるし、ここで紗代が亡くなったらしいから。あんまりゲンの良い場所でもないんだろう。誰だって自分の子供が死んだ場所に、呑気に避暑にくる気になんてなれないだろうからね?」
 何とはなしに寒気を覚えて、友弥は自分で自分の腕を強く抱いた。
「ここでお亡くなりになられたのか、君の本当の母親は」
「俺を産んだ後で精神が不安定になって、ここで療養してたんだ。その間、赤ん坊だった俺の面倒は島津のばあさんが東京で見ててくれてたらしいよ。よくある話、酒を飲んで睡眠薬をざらざら飲んで。翌朝、通いのお手伝いが発見したって。二階の寝室でね」
 と、寝室のあると思しきそこを指で指し示す。
「俺が高校に上がる時、四方堂の両親がそのことを話してくれた。口さがない親戚連中がご注進に及んでくれるるから、教えてくれなくても知ってたんだけどね」
 さて、出来た。そんな声と共に蓮は暖炉から離れた。マッチを擦り、新聞紙に火を点ける。
「二時間もすれば温かくなるよ。後は薪を足すだけ」
「そういや、君の家には暖炉があるんだっけ。……金持ちなんだな」
「暖炉があるから金持ちってのは、幾らなんでも短絡的すぎないか。俺ん家は本当に普通の家だよ。親父は薪が高いって不満を漏らしてるくらいだ。でも今年は温かいから、あんまり使ってないね」
 ぱちぱちと薪が爆ぜる。熱、揺らめく炎。
 ひどくゆったりした気分になって、友弥はソファに深々と身を沈めた。蓮がその隣に腰を下ろす。
 ベランダが朽ちているという話から想像したほどには、部屋は荒れていなかった。管理人がしっかり管理をしている為だろう。壁に貼られたカレンダーは二年前の七月、細々と誰かが来てはいたらしい。
「家具も全部込みでくれたのはいいんだけど、後になってあれを返せとかこれを返せとか言ってこなきゃいいんだけどな。俺は島津とは出来るだけ関わりたくないと思ってるし、右京とは否が応にも顔を合わせてるのに、これについては弁護士を通してから、なんて不都合でしょうがないよ」
 恐らく顔に内心の感情が出てしまっていたのだろう。
「心配してる? 大丈夫だよ、俺は。だけど」
 蓮がつと手を伸ばし、友弥の肩を抱き寄せてきた。
 どっちが年上なんだかわからないね、言って、友弥は蓮の肩を抱き返した。蓮は友弥の肩の部分に頭を預け、しばらくぼんやりとしていた。
「島津の昔の広い庭、あそこをさまよってるみたいな気分でね。探しても探しても出口が見つからないんだよ。友弥、俺の羊飼いは……来るかな」
 返す言葉はなかった。友弥は無言のまま、揺らめく炎を見つめていた……。





 例の寝室を使う気にはなれず、納戸から布団を出した。長いこと使われていなかった布団は黴くさく湿っていたが、使えないほどではない。
 ソファを片付け、熾き火の残る暖炉の前に布団を並べて引いた。
 まるで修学旅行のような気分で、二人、枕を並べて話し続けた。話はいつまでも尽きなかった。まるで生き別れた双子の兄弟が再会したらこんな風だろうか、と思われるほどに。
「それじゃ、洗礼名なんてあるのかい、パウロとかヨハネとか」
「洗礼名を付けるのはカトリックだけだし、それに信者なのは母親だけだよ。俺と親父は基本的には無宗教。とはいえ、俺は賛美歌はほとんど空で歌えるし、聖書の内容はほとんど頭に入ってる。たまに良い文句があって書き留めたりしてね?」
 意外な蓮の発言に、友弥は思わず眼を丸くした。書き留める、ねえ?
「キリストは言うね、赦せ、赦せと。まあ、俺はじいさんのことは赦そうかと思ってるよ。じいさんは本当に末の娘を可愛がってたんだ。その娘がどこの誰とも知れない男の子を身ごもった。その娘は子供を産んですぐに亡くなったから余計に不憫だったのかもしれないね。その罪の子が法事の度に抜け抜けと現れちゃ、じいさんだって堪ったもんじゃないだろう。だから、その捌け口を俺に求めたんだ」
「僕の母親は父については何も話してはくれなかった。ただ、そう、一度だけ」
 懸命に記憶の糸を辿りながら、友弥は言った。
「一度だけ父について話してくれたことがあったよ。あの人は可哀相な人だったの、って。父親は交通事故で死んだと聞かされてたら、そのことを言ってるんだと思った。運の悪い人だったんだと、あれは……どういう意味だったんだろう」
「じいさんが脚が悪かったのは知ってる?」
「いいや、初耳。そうだったのか」
「生まれつきらしいよ、ちょっと脚を引き摺るんだ。だからいつも杖を手放さなかった。ほら、俺が恐くてたまらなかったって言ってた、あの杖だよ」
 杖で殴打されていたという蓮の話を思い出し、友弥は。
「それを含めての発言だったのかもしれないね。だけど君の祖父が、いや、僕の父がやっていたことは、まぎれもない幼児虐待だ。聖人君子になって赦す必要なんてないよ。もちろん右京さんもね」
 蓮は小さな声で呟いた、有難う、と。
「俺だって口で言ってるだけさ。言うは易し行うは難し、俺は到底、キリストにはなれないよ」
「……蓮」
「何?」
 激しい感情のうねりに突き動かされ、気付くと友弥は口走っていた。
「一緒に寝ようか」
「いいよ」
 掛け布団を上げて誘うと蓮はその隣に潜り込んで来た。
 覆い被さるようにして唇を重ねる。
 キスだけのつもりだった。身体を重ねてしまったら、自分も右京と同じ存在になってしまうような気がした。そしてその思いはきっと蓮も同じだったのだろう。
 キスだけで互いを知り尽くそうと必死だった。腕を伸ばして感触を確か合い、幾度も啄ばみ、角度を変えて深いキスを交わし、互いの口内を味わった。蓮の昂ぶりが布越しに感じられる、そして自分自身もまた固く張りつめていた。
「蓮、いつか、いつか一緒に暮らそう」
 唇が離れたその刹那、感情の昂ぶりに任せて友弥は言った。
「卒業して自分自身の手で稼げるようになったら、僕は君を迎えるよ。そして、二人でずっと一緒にいよう。蓮?」
 何か答えようとしたらしい。唇が開く、けれどそこから言葉が発されることはなかった。緩く首を振り。
「あんたは他の奴を好きになるかもしれない。今はそう思ってても、社会に出ればきっと目移りするよ。約束なんかして何になるんだ。俺は……、俺は誰とでも寝るんだよ!」
 蓮は吐き捨てるようにして言った。
 嘘つき、言いたかった。けれど言えなかった。言ってしまえば、きっと彼を追いつめるだけと思った。
 そこには大人になりきれない自分がいた。上手い切り返しが思いつかず、友弥は蓮に背を向けると布団を被った。
「……悪い、友弥」
背後から蓮の小さな声が聞こえた。





 夜半にまた雪が降ったらしい。目覚めた時には、窓の桟に雪が降り積もっていた。
 蓮はよく食べよく笑った。
 まるで予防注射を前にはしゃぐ子供のようにも見えて、ひどく痛々しかった。
 朝食の後片付けをした後で、蓮はぽつりと言った。例の寝室に入ってみようと思ってる、付き合ってくれないか。
 構わないよ、と友弥は答えた。
 軋む階段を上がり、寝室の扉を開けた。長い間使われていなかったらしく、寝室の空気は淀んでいた。シングルサイズのベッドが二つ、寝具は置かれておらず、ベッドパッドのみ。
 本棚には一昔前の流行小説や地元のガイドブック、古びたアルバム等が乱雑に積まれていた。いつ置かれたものか、ベッド脇のチェストの上には枯れた花が差し込まれた花瓶がひとつ。
 何気なく手を伸ばし、本棚のアルバムを手に取った。蓮が背後で息を飲む無配がする。ベッドの上にそれを置き、蓮の反応を伺った。
 制止の声はいつまで待ってもかからなかった。友弥は思いきってアルバムを開いた。
 こちらに来ていた時の写真を纏めたものだろう。庭で水浴びをする右京の写真、サンドレスを身に纏った摩耶によく似た少女は、恐らく長女の華代子だろう。パラパラと捲っていき、ある頁で手が止まった。
 それは地元の写真館で撮ったと思しき写真だった。布張りの椅子に腰をかけての写真撮影、父、母、二人の娘と一人息子、五人揃っての家族写真。長女は仕立ての良さそうなワンピース、長男は制服、その二人に挟まれるようにして彼女がいた。
 年の頃は十五、十六、セーラー服だった。腰までの真っ直ぐな茶褐色の髪、鳶色の瞳。想像していたのとは違い、ひどく明るそうな雰囲気を身に纏う少女だった。眦の高い、仔猫のような顔立ち。すっきりと通った鼻梁。それは、蓮と友弥に共通のものであり、それはつまり――。
「嘘だろう」
 掠れ声で呟き、顔を上げる。
 そう、その写真の少女の貌は、自分の母親とそっくり同じ。本人と見紛うほどに似ていたのだ。
「俺は――、俺は初め、俺の母親は実は生きてたんじゃないかと疑った。だけど、どう考えても無理がある。遺骨も、墓もちゃんとあるのに」
 友弥は、蓮が友弥の母親の写真を見た時の奇妙な反応を思い返していた。蓮が風邪だと言い繕った奇妙な反応を。
「次に、じいさんは死んだ娘に似てるあんたの母親が気になってそれで近づいたんじゃないかとも思った。だが、あんたは俺より二つも年上、時系列が合わない。つまり……」
 バラバラになっていたジクソーのピース、それが徐々に嵌め合わさり、一つの絵を形作る。まるでだまし絵のような、その絵を。
「じいさんは自分の娘に似ているあんたの母親と、自分の娘が生きている時から関係を持ってたんだ」
――あなた、本当にそっくりなのね。
 それは父の正妻、蓮の祖母が口にした言葉だった。その時は死んだ父、或いは蓮との相似性を指摘したものだと思い込んでいた。本当は、彼女の亡くなった娘に対してのものだったのだろう。
「どうして黙ってたんだ、君は」
「最初は衝撃が大きすぎて、何が何だかよくわからなかった。結論が出たその後は、何も言えなくなった。あんたが嫌がると思った。自分の母親が誰かに似ていて、恐らくそれがきっかけになって付き合うことになったなんて。俺だって嫌だ。自分の娘そっくりの人間と付き合う奴が自分のじいさんだなんて」
「理由は、理由は何だ。好奇心か、それとも……」
「それがわかれば苦労はしない。死んだじいさんに聞くしかないよ。そしてそれはもう無理な話。――友弥」
 ふいに口調を改めて、蓮は言った。
「俺達が似てるのは血によるものじゃない。きっとどっちも母親似、ただそれだけのことなんだ」
 息づまるような沈黙、それを打ち破ったのは、徐々に近づきつつある車のエンジン音だった。
 窓際に駆け寄り下を見下ろすと、ちょうど前庭に車が進入してくるところだった。見覚えのある瀟洒なBMW、ナンバープレートを確認するまでもなかった。友弥は静かに。
「蓮、君はここにいて。僕が、出るよ」

 寝室に鍵を掛け決してそこから出ないようにと言い含めて、友弥は階下に降りた。ノックの音、呼吸を整えて玄関の扉を開ける。友弥がいることは予想の範疇であったのだろう、右京は驚く素振りさえ見せなかった。
「やあ、友弥。一緒にいるんだろう、私の甥と」
「彼は僕の甥でもあるんですよ、右京さん」
 異母兄より甥の方が親しく感じられることが自分でも意外だった。冴え冴えとした美貌を持つ異母兄は、初めて会った日から今日まで一歩も距離が狭まることはなく、いつまでも遠い存在だった。
「ああ、そうだったね。君は私の弟だったんだ。親子揃って人の物を盗るのが趣味なのかい」
「な……!」
 頭にカッと血が昇った。自分のことを中傷されるのは構わなかった。けれどそれがこと亡き母親のこととなれば、平静ではいられなかった。
「あれほど約束したのに。あんなに君が懇願したから許してあげたのに、これはないだろう、蓮?」
 肩越しに振り返る。階段の途中に蓮が立っていた。友弥は一歩後ろに下がった、蓮を庇おうと。
「――どうしてわかった?」
「君のアリバイ工作は完璧だった。だが、少しばかり完璧すぎたようだ。あまりに完璧すぎて、いっそ不自然なほど。来るならここかと思ってね、管理事務所に電話を入れたら一発だ」
「もう一度だけチャンスをくれるかい。あんたはまだ俺にして欲しいことも、やりたいことだってある筈だ」
「何を」
 何を言うんだ、蓮。
 驚いて蓮に向き直ったその瞬間、右京に背後を取られた。
 あっと思う間もなく、口に布のような物が押し当てられる。
 鼻をつく刺激臭、右京の手を振り解こうとしたが、間に合わなかった。天井がぐらりと回り、友弥の意識は闇の中に沈んだ。






つづく
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