子羊は惑う 8





 気付くと、寝室に寝かされていた。
 起き上がろうとして気付く、後ろ手と足首とがナイロンロープできつく戒められていることに。強く腕を引いたが、びくともしない。そして口もまたハンカチで縛られていた。
――クロロフォルムに猿轡? まるで犯罪者じゃないか。
 開け放たれたままだった扉を身体で開け、友弥は這いずりながら階段へと向かった。
 階段の上から吹き抜けのリビングを見下ろす。
 暖炉の前のソファの上、右京の膝の上に蓮が乗せられていた。その光景に、ちくりと胸が痛む。自分でもわかっていた、その理不尽な感情が嫉妬という名を持っていることを。
――蓮は嫌がってる、望んで身を任せてる訳じゃ決してないんだ。
 右京が持っていた水割りのグラスを蓮の唇に近づけていく。反射的に顔を背けた蓮の鼻をつまむ。息苦しさに耐え切れず、口を開けた蓮の唇にそれを注ぎ込んだ。飲み切れなかった琥珀色の液体が唇の端から零れる。
「美味いだろう、蓮、これは上等な酒なんだよ」
 むせ込む蓮を瞳細めて眺め、右京は。
「あまり強いと腸を焼くからね。もっと薄くして、それから下の口にも飲ませて上げる。そっちの方が酔いが早く回る」
 右京は蓮のシャツのボタンを外すと、胸に唇を寄せた。右乳首に穿たれたピアスを口に咥え、つい、と引く。
「……っ」
 蓮がわずかに身じろぎし、苦痛を訴えた。
「君は私を裏切った。それなりの代償は払ってもらわなきゃならないと思ってるよ。泣いてあんなに頼むから許してあげたのに。覚悟は出来てるんだろう」
「いいよ、何でも好きなことをすりゃいい。だけど、手早くやってくれるかい」
「友弥が起きる前に、かい。君は時々可愛いね」
 蓮はそれには答えず、静かに尋ねた。
「本当に大丈夫なのか」
「あれはクロロフォルムじゃないよ。もっと毒性の低いものだ、もう二、三時間もすれば目覚めるだろう」
 自分のことが話題にされていた。声をかけようと口を開く。その瞬間、激しい眩暈を覚え、友弥は床に座り込んだ。
――蓮、ああ、蓮。
 カラン、マドラーの音。恐らく右京が新しく水割りを作っているのだろう。ややあって、蓮のくぐもったような声が聞こえた。
 眩暈はいつかな収まらない。友弥は階段の手摺りで身体を支え、ようやく立ち上がった。
 右京が細く長い指を水割りに浸し、それを蓮の内壁に差し入れていた。指が内壁に埋め込まれるその度に、蓮の喉が弓なりに反る。酒が徐々に回ってきたらしい。姿勢を保つことすらもはや危うい蓮の身体を左腕で支えつつ、右京は蓮を責め苛み続けた。
「ふ、あ……っ……」
 ソファの上に蓮を横たえると、右京はゆっくりとベルトを外した。
「君の大好きなものを頬張らせてあげるよ」
 ぐい、蓮の両脚を大きく割り広げ顔に付くまで持ち上げると、右京は蓮の上に覆い被さった。
「君の顔をこんなに間近に見ながら、なんて、初めてだね」
「ふざけるな……ッ」
肌と肌とがぶつかり合う生々しい音、荒々しい息遣いが友弥の耳朶に響く。
「……ッ……ん……」
「ああ、美味しいんだね、蓮、こんなに締め付けてる」
 激しく突き上げながら、蓮の右乳首のピアスを引く。ぴくん、痛みの為に若鮎のように跳ねる身体。それを押さえつけるようにして。
「昨夜は寝たのか、ここも見せた?」
「やめ……、やめてくれ、千切れちまう」
「こっちと」
 左乳首をぴんと爪で弾いた後、蓮の昂ぶりを掴んだのだろう。右京の背で影になっている為に見えないが、蓮が大きく身体を震わせたことでそれがわかった。
「こっちにも新しいピアスを付けてあげないとね。三度目の正直だ、もう二度とこんな気を起こさないように。知ってるかい、ここにつけるピアスの名はプリンス・アルバートというんだ。良い名前だろう」
 頭に綿を詰め込まれたような気がした。上手く思考を纏めることが出来ず、同じ言葉だけが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 以前にもこんなことがあった、以前にも。
 あれは父親の葬儀の晩、まだ何も知らなかった頃。
 あの時は驚愕のあまり止めることが出来なかった。そして今は、どうしても身体を動かすことが出来ず。
「俺を切り刻みたきゃ好きなだけ切り刻めばいい。だが、友弥は関係ない。あんたは誤解してる」
「誤解だって。私が何を誤解してるって言うんだ、なあ、蓮」
 奥まで突き上げられて、蓮が苦痛に呻く。
「……、俺たちは何でもないんだよ、右京……ッ」
「君が本当は何を言いたいかわかっているよ。だから、だ。だから私に何をして欲しくないと? 言わないからこそ不自然だ。嘘は巧妙に隠せば隠すほど不自然さが際立つ。言えばいいじゃないか、だから友弥への送金を打ち切るなと。その為なら何でもしますと」
 友弥は弾かれたように顔を上げた。
 どうして蓮が右京のなすがままになっているのかと歯痒く思っていた。
 心臓の弱い母親に衝撃を与えたくない、蓮のその気持ちを理解しようと努めながら、心の奥底では納得が出来ないままでいた。右京が持っていたもう一枚の切り札に気付かずに。
 友弥は恥じた。何も気付かず、右京に対抗出来ると思っていた自分を。
 何てことだ、自分が、自分こそが蓮に守られていたなんて。
 渾身の力を奮い起こし、階段を降りようとする。手と足が戒められている状態で均衡を取ることは難しく、友弥はすぐに階段を踏み外し、リビングに転げ落ちた。
「これはこれは、眠り姫のお目覚めのようだ」
 右京の声に、蓮が身をよじって友弥を見た。鳶色の瞳が大きく見開かれる。
 後ろ手に縛られた手、唯一自由になる掌を使って友弥は体勢を整えた。それが限界。肩で荒く息を付きながら、右京を睨みつけるがせいぜいで。
「おっと」
 逃れようとする蓮の機先を制し、右京が全体重を掛けて蓮に圧し掛かった。
「くッ……!」
「見られていると感じるんじゃないか、君は」
 揶揄するような右京の言葉、蓮が顔を背ける。
「黙れ、変態」
「君の大好きな友弥に繋がっているところを見てもらおうか。なあ、蓮」
 蓮の白い双丘に赤黒いそれが出し入れされる。
 時に早く時にゆっくりと、右京は緩急をつけ、見せつけるようにピストン運動を繰り返した。最奥を穿たれるその度に、蓮の押し殺したような呻き声が上がる。
「どうした、蓮。いつもはもっと良い声で鳴いてくれるのに。友弥に聞かれたくないのか、可愛いね」
「黙れ、黙れ、黙れ! それ以上言ったら……、殺す。あッ、ああッ……!」
 蓮の切なげな声、右京が非情に言い放つ。
「ほら、友弥が見てるよ。達ってごらん、君の大好きな友弥の前で」
 友弥はギリリと唇を噛み締めた。
――何でも自分一人で解決出来ると思ってた。母親がいなくたって、ちゃんと自分一人でやっていけると。だけど僕は無力だ。何も、何も出来ないんだ。
「友弥はどうだった? 君をちゃんと達かせてくれたかい。どっちがいい、友弥と……」
 右京の限界も近いのか、ピストン運動はさらに激しさを増す。蓮の身体は人形のように揺さぶられた。
「あッ、あッ、ああッ! ん……ッ……」
「私と」
「ああッ、ああ!」
 右京の腰の動きが止まる。その瞬間、蓮もまた達した。自分の精液を自らの身体で受けて。いつも強気な蓮、そのアーモンドの形をした鳶色の瞳から涙が溢れ、頬を伝った。





 目覚めては意識を失い、意識を失ってはまた目覚める。その繰り返しだった。幾度目かの覚醒で、右京が自分を見下ろしていることに気付いた。
「蓮は上の部屋で寝ているよ、当分目覚めないだろうね。君の時は目算を誤ったようだが、まあ、起きてきても構いはしない」
 右京は友弥は抱き起こすと、猿轡を外した。友弥は開口一番。
「何をしたんです。また?」
 自分と同じ薬を使ったのか、言外にその意味を含ませて問う。
「何、大したことじゃない。睡眠薬をほんの少し酒に混ぜておいただけのことさ」
 身を屈め、友弥を後ろ手に戒めていたナイロンロープを切る。続いて両足首も。
「君には先に帰ってもらうということで話が付いてる。蓮は私が送るよ」
「それで僕が納得すると思うんですか? あなたは?」
「しないだろうね、君は頑固そうだ。誰に似たんだろう、父かな」
 ソファに腰を下ろし、長い脚を組む。友弥は長い間縛られて感覚の無くなってしまった手首をさすりつつ。
「僕は似てますか、あなたの父に」
「ああ、似てるね。そっくりだ」
「――蓮を杖で殴っていたという父に?」
 右京は片眉を跳ね上げて友弥を見た。その仕草は蓮の物とよく似ていて、友弥はそこに否定出来ない血の繋がりを感じずにはいらなかった。
「父は頑固な男だったよ。認めたくなかったんだろう、蓮に惹かれている自分自身というものを。だからこそ、暴力を振って自分に寄せ付けないようにしていたんだ。恐らく自分を守る為にね」
 守る? 一体何から。
 気付かぬうちに、蜘蛛の巣に入り込んでしまったようだった。もがいて真実を求めれば求めるほどに蜘蛛の糸は絡まり、身動きが取れなくなるのだ。
 友弥は尻ポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出した。フリップを開け、フリップの裏に張っていたプリクラを右京に見せる。
「僕の母です。ご存知でしたか?」
 友弥の母親はプリクラが好きだった。見かけるたびに必ず撮り、こんなにたくさん撮ってどうするつもりなんだと詰め寄ったこともあった。母親が死んだ後で思った、たくさん撮っておいて良かった、と。
 右京の切れの長い瞳に一瞬、驚愕の色が走った。プリクラと友弥の顔とを交互に見遣る、やがて合点がいったのか、右京は声を上げて笑い出した。
 驚く友弥の前で、笑いはやがて甲高い哄笑へと変わり――。
「成程、そういうことか。結局、彼も自分の中の邪悪な欲望には逆らえなかったという訳だね」
 右京は口許にうっすら微笑を刷くと、
「蓮の本当の父親はね」
 その言葉を口にした。世にも衝撃的な、その一言を。
「私なんだよ、友弥。蓮は私と紗代の間に出来た子なんだ」





 長い沈黙を破ったのは、屋根に降り積もる雪が庭に落ちる音だった。友弥はその音でようやく我に返った。
「……どうして。あなたと蓮の母親は兄妹じゃ」
「そう、実の兄妹だ」
 それがどうした、と言わんばかりの口調だった。
 つまり兄妹、で。友弥は告げられた真実の重みに驚愕した。
「初めて関係を持ったのはいつだろう。彼女が高校に上がった頃、私はちょうど今の君と同じくらいの歳だった。ああ、この別荘で、だったね」
 薪の爆ぜる音が沈黙を誤魔化してくれることが有り難かった。そうでなければ、自分はきっとこの場にいたたまれなくなったことだろう。
「家で、別荘で、家人の目を盗んで抱き合ったよ。私は紗代に夢中で、紗代もまた私を求めた。避妊には気を付けていたつもりだったんだけどね、私も若かったから」
 自嘲めかして右京が笑う。
「妊娠が発覚した時、私は堕胎を勧めた。けれど彼女は頑として首を縦に振らなかった。いや、私がそう言うと知っていたからこそ、彼女は堕胎が不可能になる時まで妊娠を隠し通したのかもしれない」
――君の母親はどうしても君を産みたかったんだろう。だからこそ妊娠を隠し通したんじゃないのか。たぶん、君の父親を心から愛していたんだと思うよ。
 何も知らずに、蓮に向けて発したその言葉。友弥の予想は当たっていた。けれど解き明かされた真実の何と残酷なことか。
「彼女は人知れず悩んでいたのかもしれないね、他人には決して言えないこの関係に。いつの日か私が自分から離れていくと危惧したのかもしれない、そんな筈も……ないのに。周囲の反対を振り切って無理をして産んで。結局、心を壊したよ」
 淡々と語り続ける右京。
 その声音に痛みを感じたのは、果たして友弥の気のせいだったろうか。
「父は何も知らないまま死んだ。母もきっと知らない。心の奥底では疑ってはいるのかもしれない、けれどそれを表面に出すことはない。華代子姉さんはひょっとしたら気付いているのかもしれない。私を見る彼女の目にはいつも何かがあるから」
 右京は身を屈めると火掻き棒を手に取り、薪の具合を調整した。
 ふいに巻き起こる熱風、灰が、舞った。
「私は紗代を私から奪った蓮をずっと憎んでいた。けれど成長し、彼女に似てきた蓮を見て、どうしても手に入れたくなった。そして、それを実行した。私は蓮を憎んでいるのか愛しているのか時々分からなくなるよ。愛と憎しみは双子の兄弟みたいに似ているんだ」
「無理やり抱いて脅迫して?」
 挑むような友弥の言葉に、右京がゆっくりと振り返った。
 友弥の胸の内では炎が燃えていた。これまでの蓮の境遇を思うと胸が塞がれるようだった。
「あなたは何も知らないんだ。蓮がどれほど自分の父親を欲しているのか。こんな近くにいるのにも関わらず、何もしてやらず、自分のことにかまけて、あまつさえ――」
 セックスの対象に。
 ぐっと拳を握り締め、ともすれば溢れだしそうになる、感情の奔流を押し留めようとする。
「あなたは人として間違ってる」
 右京の切れの長い瞳に酷薄そうな光が宿る。心持ち小首を傾けて右京は言った。
「言えるのかい、君は。自分はそんな欲望とは無縁な存在だと。私に抱かれている蓮の姿を見て、欲望を掻き立てられなかったと言えるのかい。彼のすべてを自分の物にしたいと望まなかったのか。頑固な私の父でさえ逃れられなかった、この邪悪な欲望から! 忘れるな、友弥!」
 右京は手にしていた火掻き棒で暖炉の縁を叩いた。
「君もこの島津の血を引くんだってことを!」
 まるで研ぎ澄まされた剣の切っ先の上で、二人向かい合っているようだった。友弥は一歩も引かず、右京もまた本気だった。
「蓮は僕が責任を持って連れて帰ります。そして彼のご両親に話すつもりですよ、あなたのしていたことを。僕は彼を育てたご両親を信用しています。きっと理解してくれると信じています。蓮はきっと嫌がるだろうけど、僕は幾らだって悪役を引き受けるつもりですよ。そして、養育費の打ち切りを盾に蓮を操ろうとはしないで下さい、僕はお金なんて要らないんだ」
「きれいごとを言うじゃないか。だが、この世はきれいごとだけじゃ生きていけないよ。四方堂の家は島津とのパイプがなくなると困るんだ」
「では、あなたの母親に話しましょう。あなたの母親が常識のある人なら、あなたの意見にきっと賛成はしないと思いますよ」
「君を泥棒猫と罵るような真似はしないことだけは確かだね、あの女には分別があるから」
「そしてあなたには分別はないと?」
 右京は足早に友弥に近づいていくと、だしぬけに火掻き棒を振り下ろした。
 咄嗟に腕で身体を庇う。
 まず感じたのは衝撃だった。続いて痛みが来、肉の焦げる嫌な匂いが部屋に立ち込める。
「……ッ!」
 右京の怒りは一度の殴打だけでは収まらないらしかった。再び振り上げられた火掻き棒を避けようと友弥は横飛びに飛びすさった。それが右京の怒りの炎に油を注ぐ結果となった。
「言葉で言ってわからないのなら、君の身体に教えてあげるよ、友弥」
 言い終わるか否か、右京は火掻き棒を狂ったように振り下ろした。腕に、背中に、衝撃と痛みとが断続的に襲いかかる、友弥は身体を丸めてそれをやりすごそうとした。
――蓮、君の気持ちがわかったよ。人に容赦なく殴られるのは、確かにあんまり気持ちのいいもんじゃないね。
 襟首を掴まれ、引き起こされる。
「なぜ現われたんだ、私たちの前に。君さえ現われなければ、私たちはこれまで通りうまくやっていけたのに」
「それはあなたの歪んだ世界の中だけの話でしょう。蓮はあなたとの関係を望んでなんていない。ッ……!」
 右京に馬乗りに圧し掛かられ、友弥は喘いだ。すっ、伸ばされた右京の手が友弥の首にかかる。
「君をここで殺したら蓮は泣くだろうか」
 右京の目には明白な狂気の色があり、友弥は右京の本気を悟った。
「あなたは気付くべきです。あなたが愛しているのはあなたの妹であって、蓮じゃないってことに。あなたは妹の代わりを蓮に求めているだけ、あなたの父親が僕の母親にしたことと同じ! あなたは――」
 その瞬間、友弥の脳裏によぎったのは、死んだ母親の姿だった。いつも明るく朗らかだった母、けれどその言葉を口にした時だけ、母はひどく寂しそうな表情を見せたのだ。……あの人はね、友弥。
「可哀相な人だ」
 ぐっ、友弥の首に掛かった右京の手に力がこもった。
 蛇のように首に絡みつく右京の手、友弥は渾身の力をこめてそれを振り解こうする。けれど右京はそれを許さず、万力のような力で締め付けてくる。
 呼吸が遠くなり、手足の力が抜けていく。徐々に薄れゆく意識の中で思ったのは、蓮のこと。
――蓮、僕はまだ君に何も言ってなかったね。君に言わなきゃいけない言葉、それが何なのか知っていたくせに、僕はそれを言うことができなかった。
 まだだ、まだ僕は死ねない、死にたくない。
 強く思った。
 君にこの言葉を伝えるまでは。ああ、神様、どうか……。
 突然、玄関の扉が開き、そこから冷たい外気が流れ込んできた。
 右京が反射的に玄関の方に顔を向ける。束の間、右京の手が緩んだ。急激に肺に空気が送り込まれ、友弥は激しく咽せた。
「やめて!」
 甲高い少女の声。
 酸欠の為に狭まった視界、友弥は懸命に目を凝らし、声の主を確かめようとした。
「お願い、右京叔父さま……」
 そこには、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた摩耶が立っていた。






つづく
Novel