子羊は惑う 9





「蓮にお願いされてたのよ。約束の時間に自分から連絡がなかったら、出来るだけ早く別荘にまで来て欲しいって。万に一つもないと思うけど、ひょっとしたらヤバいことになってるかもしれない、って」
 種明かしは実に簡単だった。
 病室に現われた摩耶に話を聞くと、ごくあっさりした答えが帰って来た。
 そして思い出す、ドライブインで見せた蓮の奇妙な様子を。成程、摩耶ちゃんだったのか。
「両親に頼んで車を出してもらったんだけど、高速に乗ってる間、心配でたまらなかったわ。確か漢語の時間にぴったりの言葉を習ったような気がするんだけど、ええっと、泰山鳴動して鼠一匹? そうなったらどうしようって。でも、心配することはなかったみたい。感謝してね。私のお蔭で、あなたは右京叔父さまに殺されずにすんだのよ」
 あまりと言えばあまりの物言いだった。軽口を叩き返そうとして気付く、摩耶の頬に残る涙の跡に。
「どうするの、警察には行くの? その、刑事事件に」
 するつもりなの、高飛車な言葉とは裏腹、語尾は聞き取れないほど小さなもの、隠しようもない不安が滲んでいた。
「するつもりはないよ。だって、これは家の内のことだろう、摩耶ちゃん」
 友弥は即答し、そう同意を求めた。摩耶はホッと息を付くと。
「私は右京叔父さまは好きじゃないけど、でも、それでもやっぱり身内だから――。なのに、ママったらひどいのよ。これで右京叔父さまの弱みを握ったって生き生きしちゃってるの。イリュウブンメッサツがどうしたこうしたって興奮気味に話してるわ」
「構わないよ。それで右京さんが蓮に手出しができなくなるんならそれでも、ね」
 あれから――。
 摩耶の後に続いて別荘に入って来たのは、摩耶の両親だった。
 その場ですぐに右京と友弥は引き離され、二階の寝室で眠らされていた蓮もまた保護された。
 摩耶の母親は、恐らく右京と蓮がどんな関係にあったのか、娘の訴えもあり、薄々気付いていたのだろう。四方堂にはあたくしから謝罪と連絡を、華代子のその一言で、蓮が懸命に隠し通そうとした秘密は白日の下に晒されることになった。
 それ以前に、その話を抜きにして、この情況を説明することは到底出来そうもなかった。友弥は蓮から相談を持ちかけられ、秘密の露呈を恐れた右京が口封じ、或いは激情の赴くままに、友弥を……。それが華代子が望む、また周囲を納得させるに足る筋書きだった。
「ママはね。自分が結婚した時も、私を産んだ時も、皆が紗代叔母さまのことにかまけて、自分を顧みてくれなかったことがどうしても許せなかったんですって。それで紗代叔母さまの子の蓮のことも嫌ってたの」
 摩耶は見舞い客用のパイプ椅子の背にもたれると、天井を仰ぎ。
「でもね、ママは本当は紗代叔母さまのことが好きだったのよ。意地を張って、苦しんでる時に助けてあげられなかったことを悔やんでるって言ってたわ。だから今度は、って」
 ベッドの上の友弥に視線を戻すと、摩耶は底意地の悪そうな微笑を浮かべた。
「でも、ひどいじゃない。もう君たちの前には現われない、なんて啖呵を切っておきながら、蓮とはこっそり会ってたなんて。つまりライバルは遠ざけておきたかったって訳?」
 いや、そんな……、しどろもどろになった友弥に、摩耶はぴしゃりと一言、冗談よ。
「あ、来たみたいね」
 リノリウム張りの廊下に軽快な靴音が響く、摩耶はぴょこんと立ち上がり。
「蓮が来たら交代する約束だったの。また明日来るわね。じゃあね、友弥叔父さま」
 ひらりと手を振り、やがて現われた蓮と戸口のところで二、三言葉を交わしてから、摩耶は病室を去った。
「――右京に殺されそうになったって?」
 蓮は腕組みをすると病室の扉に背を預けた、人を食ったような、常のにやにや笑いを浮かべつつ。
「だから言ったろう。あいつはちょっとおかしいんだって」
「ああ、確かにおかしいね。火掻き棒で殴られるわ、首は締められるわ。何だかトラウマになりそうだ」
 蓮はベッドの側に来ると、さっきまで摩耶が使っていたパイプ椅子に腰を下ろした。持参した紙袋をサイドテーブルの上に置き。
「まだ帰れないのか」
「手当てと検査はもう終わった。だけど脳の血管が切れてるかもしれないから、今夜は泊まらなきゃならないらしいよ」
 蓮はごそごそと紙袋を漁り、そこから林檎と果物ナイフを取り出した。病院の食事は不味かったろ、食べるかい、問いかけに友弥は素直に頷いた。
「右京はもう東京に帰ったよ。いや、帰らされたってのが正しいね。華代子が近いうちに家族会議をするって右京に言い渡してた。右京と華代子は実は遺産相続で揉めてたらしいから、この一件を良い取引材料にするつもりなんじゃないかな。ふふ、何もかもさらけ出されて、いっそすっきりしたね。もう掻く恥もないよ」
 ジーンズの膝で林檎を拭いてから、果物ナイフを取り上げる。
「電話で親父と話した。流石に驚いてたけど、親父は九州男児だから肝が据わってるんだ。ただ一言、わかった、ってね。途中で母親に代わったんだけど、母親は母親で、神は愛する者をこそ試したもう、何て言ってたよ。心臓発作でも起こしたらどうしようかって冷や冷やしてたから、ホッとした。だけど、何だかんだ理由をつけてサボってた日曜学校にまた連れてかれそうな雰囲気だ。何?」
 知らず口許に浮かんでいた笑いを見咎められて、友弥は。
「いや、僕は無神論者だと思ってたんだけどね。右京さんに首を締められて、もう駄目かと思った時、懸命に神様に祈ってた。それを思い出したんだよ。一体どこの神様に祈ってたんだろうね、僕は」
 蓮は器用にくるくると林檎の皮を剥き始めた。
「われたとい死の陰の谷を歩むとも、主にむかいて新しき歌をうたえ。旧約だ。キリストの神様は実に苛烈だね。だけど、俺はもうこれ以上試されたくないから、厳しいヤハウェの神より、弥勒菩薩とかの方がいいよ。仏教の神様はキリストの神様よりも寛容そうだから」
 途中で切れることなく剥けた林檎の皮を子供のように見せびらかしてから、それを八つに割った。芯と両端の皮を切り落とし、そのうちの一つを友弥に渡す。
「どこの神様でもいいよ。だけど感謝の気持ちは、それだけは忘れないようにしようと思ってる。生きて君とまた会えたんだから」
 さくり、林檎を噛み取る。剥いた林檎を食べるのは久し振りだった。母親が死んでからというもの、皮剥きを面倒くさがった友弥は林檎を丸齧りするばかりだったのだ。
「あんたはよくそんな台詞を恥ずかしげもなく口に出来るなあ。聞いてるこっちの方が恥ずかしくなるよ」
 照れ隠しなのか、蓮は林檎を口に放り込むとそれを乱暴に咀嚼した。
「だけど、俺もあんたが右京に殺されなくて良かったと思ってるよ。どうだい、傷は痛むのかい」
 友弥の腕と首に巻かれた白い包帯を痛ましげに見ながら、蓮が心配そうに尋ねる。
「痛まないと言ったら嘘になるけどね、大丈夫だよ。……蓮」
 うん? と顔を上げた蓮に向かい。
「おいで」
「何だ、俺は犬か」
「君は犬じゃなくて猫だろう」
 蓮は渋々といった風情を醸し出しつつ、ベッド脇に腰を下ろした。腕を伸ばして蓮を抱き寄せる。柔らかな茶褐色の髪に唇を寄せて。
「君は身長はいくつ? 僕とあんまり変わらないだろう」
「たぶんあんたの方が高いと思うよ。177、でもまだ伸びてるから」
「そう、じゃ僕はじきに君に越されるかもね」
 蓮の額に垂れかかる前髪を掻き上げてこめかみに口付けを落とす。
「な、何だ、どうしたんだよ、急に」
「確かめたかったんだ、君が本物かどうか。君は初めて会った日に僕に尋ねたね。勝手に帰ったり消えたりなんかしないかって。その気持ちがわかったような気がする」
 いなくなった友弥の飼い猫を思い起こさせる、蓮の柔らかな茶褐色の髪、それを梳りながら。
「蓮、僕が大事にしていたものは、皆、僕の前からいなくなったんだ。猫も、母も。猫は黙って姿を消した、母は交通事故で突然。結局どっちの最期も看取ってあげられなかった。それから僕は臆病になった。失うことが恐くて手を差し伸べることが出来なくなった。そう、君に言わなきゃならない言葉が何なのかわかっていたのに、それを言うことが出来なかったんだ」
 友弥は手を差し伸べて、蓮の頬に触れた。
「大好きだよ、蓮」
 蓮は黙っていた、長い間。
「俺は――、葬式の晩、右京にやられてるところをあんたに見られた時、あん時は何とも思わなかったんだ。見たきゃ見ていけ、みたいな凶暴な気持ちになっただけのことでね。だけど今日は堪らなかったんだ。あんたにだけは見られたくなかったと思った」
 どちらからともなく、もう何度目になるかわからない口付けを交わした。
 人が来るかもしれないと思いながら、やめることができなかった。そして、キスを繰り返すうちに徐々に昂ぶってくる自身を抑えることも。
 息継ぎもままならぬほどの深い口付け、夢中で互いの唇を求め合った。
 名残りの銀糸を長く引きながら唇を離すと、友弥は震える声で。
「蓮、ごめん、もう我慢出来ない。君が欲しい」
「いいよ。俺もあんたと――、一緒になりたいから」
 蓮は無造作にパーカーを脱ぐと上半身を露にした。
「怪我人の前で健康な俺が裸になるってのは、何だか恥ずかしいね」
 病室の蛍光灯の下に照らされた蓮の白い肌、右京が彼に与えた鬱血と傷跡が生々しく残るそこ。目を引くのは、やはり右乳首に穿たれたピアス。友弥はピアスの留め金に手をかけて。
「外すよ、いいかい」
「構わない。外してくれよ、あんたの手で」
 ピアスを外した。ピアスホールはまだ完全には出来上がっていなかったのだろう。留め金には血がこびりつき、薄紅色の乳首にもうっすらと血が滲んでいた。友弥は舌を出してその血を舐め取った。
 舐めてすっかり清めてしまうと、友弥はつんと立ち上がったそれを唇で挟んだ。びくん、蓮の身体が震える。
「っ……」
 蓮が感じてくれている、そのことが嬉しくて、友弥は赤い舌を覗かせつつ、両の頂きを丹念に舐めた。
「どんな感じ? 蓮」
「馬鹿、そんなこと……、聞くッ、な……」
 蓮は友弥の髪に指を絡め、その愛撫に耐えていた。快感はさながら波のように押し寄せてくるのか、びくっ、びくっと断続的に身体を震わせて。
 友弥は唾液を絡めて指を湿すと、蓮の内にそれを挿し入れた。感じるその一点を求めて、指を動かす。
 蓮の手がためらいがちに友弥の背中へと伸ばされる。狭い内壁の中で友弥の指が蠢くその度に、背中に回されたその手に力がこもる。
 そのまま蓮をベッドに横たわらせようとしたところで問われる、傷は? 恨めしげに包帯の巻かれた両の腕を見遣る。
 気恥ずかしさの為か、蓮は友弥と視線を合わせぬまま。
「友弥……、俺が上に乗る。辛いだろ、それじゃ」
 向かい合ったその形で、蓮がゆっくりと腰を沈めた。だが、張りつめた友弥のそれは上手く挿ることが出来ず、入口を掠めるばかり。
「ごめん、蓮」
「いや、いいんだ」
 決して上手なセックスとは言えなかった。友弥は経験に乏しく、蓮も恐らく自分が主導権を握る形でのセックスは初めてだったのだろう。ただ、繋がりたいその気持ちだけが二人を動かしていた。
 友弥は自身を手で支えながら、ようやく挿入を果たした。
「あ……」
 思わず声を漏らしてしまう。蓮の内は想像したものより遥かに熱く、そして狭かった。自身を温かく包みこむ肉の襞、友弥は眉根を寄せて。
「蓮、どうかそんなに締め付けないで」
「馬鹿言うなッ。自分の意志でどうにかなるなら……ッ」
 体勢を整えようと軽く揺する。と、蓮の重みで、彼をより深く貫いてしまう結果となった。喉を仰け反らせて蓮が喘ぐ。
「蓮?」
「大丈夫、続けてくれよ、友弥。ん……」
 羞恥に朱に染まった顔を見られたくないのか、蓮は友弥から顔を背けた。痛みに、或いは過ぎる快感に、唇を噛んで耐えようとする蓮の姿に、友弥は激しい罪悪感を覚えた。
――言えるのかい、君は。自分はそんな欲望とは無縁な存在だと。
 そんな右京の声が聞こえたような気がした。
 これは邪悪な欲望なんだろうか。
 いや、違う。
 一緒になりたいんだ、繋がりたいんだ、自分に似ているから愛したんじゃない、誰かの身代わりに抱いているんじゃない、それが蓮だから。ただ、それだけ。
 蓮を両の腕で抱え揺すり上げた。固く張りつめた自分自身と熱く狭い蓮の内壁とが擦れ合うその度に、ぞくぞくするような快感が込み上げて来、友弥は息を荒げた。
「蓮、もう……」
 蓮の内に在る自身がびくびくと震えているのがわかった。友弥は既に限界を迎えていた。いや、挿れたその瞬間から爆発しそうになる自身を抑えるのが精一杯だったのだ。
「いいよ、出して。一緒に――」
 それが限界。友弥は滾るそれを蓮の内に吐き出した。熱い奔流を身体の最奥に叩き付けられ、蓮も達した。おびただしい量の白濁を先端から迸らせながら。



「――まだ考えてるのかい、父親を探したいって」
 病室の狭いベッドの上で、二人、横になっていた。まるでプール帰りの夏の日の午後のようだった。心地良い疲れに身を委ね、ひどく安らかな気分で。
 だからこそ、聞く気になったのかもしれない。今なら、彼の正直な気持ちを聞けると思ったから。
「いいや」
 意外なことに蓮は首を横に振った。
「友弥、俺は馬鹿な夢を見ていたんだよ。ダンディで金持ちな父親が俺の前に現われて、苦労したんだね、可哀相だったね、なんて言ってくれる馬鹿な夢を」
 友弥はゆっくりと半身を起こすと、蓮の次の言葉を待った。
「結局、俺は甘やかされて育った、どうしようもない奴だったんだ。子供が欲しくて仕方のなかった家の一人っ子で、両親の愛情を独り占めにして育った。俺は虐待されて育った訳でも何でもない。たまの法事でじいさんに殴られたり、親戚に聞こえよがしに嫌味を言われたり、その程度だ。昔は何で自分が嫌われるのかわからなかった。そのうちその理由がわかって、この世にはどんなに努力したって好いてもらえない人間がいるんだってことに気が付いた」
 友弥は手を伸ばし、蓮の髪に触れた、その昔愛猫にしてやったように。蓮の髪に指を絡めては引く、を繰り返す。
「世界中の人間全部に好かれようと思ったって、そいつは無理な話だろう。なのに俺は皆に好かれたくて、それが無理ならと代償を求めた。それがダンディで金持ちな父親って奴だよ」
 蓮は気持ち良さそうに瞳を細め、友弥のするがままに任せていた。彼が本当の猫なら、ごろごろと喉を鳴らしたかもしれない。
「今度のことでハッキリわかったんだ。俺にとっての親はやっぱり四方堂の両親なんだ。親父はこのことについては怒らなかった、だけど俺が四方堂の本家のことを口に出した途端、怒鳴られたよ。島津の援助なんて打ち切られたって構わない、本家なんかより俺の方が大事だって。親父に怒鳴られたのは生まれて始めだったから驚いた、だけどそれ以上に嬉しかったんだ」
 蓮の声音は弾んでいた。そこには義理の両親への偽りない愛情が溢れていて、それが友弥を喜ばせた。だが――。
「言ってたじゃないか、たとえ落胆したとしても会いたいって」
「うん? ああ、そう思ってたよ、一時はね。でも、もういいんだ」
 そろそろ帰らないと、ここは付き添い禁止みたいだから。言って、蓮はベッドから下りた。
「俺は本当の父親よりも、もっと素晴らしいものを手に入れたから」
 それは何? とは聞けなかった。薄々想像は付いていた。けれど、それを口にしたら恐らく自惚れになってしまうだろう。
 その代わりに口にしたのは、臆病な自分が言えなかった言葉、今では平気で言えるその言葉。
「大好きだよ、蓮」
「知ってたよ、ずっと前から」
 蓮はあっさり言って、病室の扉に向かう。
「だけど、あんたはこのことを知らないんだ。俺の方がもっとあんたを愛してるってことを」
 言い返そうとしたその瞬間、友弥の目の前で扉が閉まる。
「よくもまあ、そんな台詞を恥ずかしげもなく――」
 言ってしまった後で気付く、それは蓮が再三、自分に向けて言っていた言葉だということに。
 友弥はくすくす笑いながら、サイドテーブルの電気を消した。






つづく
Novel