下弦の月 1




 真面目に誠実に仕事に取り組めば報われる。評価される。出世する。そんな幻想を抱いていたのは、もう遠い昔のこと。
 宮中は藤原氏内部の権力闘争。大いなる兄弟喧嘩。なぜなら宮中を統べる帝はすべからく藤原氏の人間なのだ。自分の娘や妹を帝に差し出し、世継ぎの皇子を産ませ、その皇子が帝となれば我が世の春。ただ、それだけのこと。
 そして苦労の上に手に入れたその権力すら、決して磐石なものではない。帝の寵愛は永遠のものではなく、人は死に、万物は流転する。
 行成(ゆきなり)は恐らく藤原氏一族の中でそのことを誰よりもよく知る男だった。



 背後から忍び寄るその気配に気付かなかったのは、不覚という他はなかった。
 口を塞がれ、細殿に引きずり込まれ、几帳の影に押し倒された。細殿には宮中の女房たちが詰める局がある。空き室だったのは、調べの上のことだったか。
 燈台の光が浮かび上がらせたその姿を見て、行成は驚愕した。
「……内の大臣(おとど)」
 行成を押し倒したその男は、行成にとっては父の従兄弟の子に当たった。前関白(さきのかんぱく)藤原道隆の嫡男。帝の后、中宮定子の兄。二十一歳という若さで内大臣となった藤原伊周(ふじわらのこれちか)であった。
「騒がぬのだな」
「何を為されるおつもりか、それを確かめてからでも遅くはないと思いましたがゆえ」
「流石は宮中で冠を払われても怒らなかった男だけのことはある」
 伊周は行成の衣を捲りあげると、差貫袴に脚を割り入れてきた。宮中でのこの振る舞い。さらに伊周は直衣姿だった。直衣での参内は帝の勅許がなければ許されぬ。まさしく関白家の傲慢を体現しているかのような行いだった。
「まさに抜擢人事だな」
 伊周は行成に覆い被さりながら耳元で囁いた。
「ひととびに蔵人頭とは」
「三人を飛び越え内大臣となられたあなた様が口にする言葉とは思えませぬが」
「言うな、行成」
 蔵人頭は家柄の良い若い公達垂涎の官職。しかし伊周はかつて十六歳で蔵人頭となっていた。行成の二十三歳での蔵人頭就任は、むしろ遅咲きの部類に入る。伊周はその後も順調に出世を果たし、ことに三人越えの内大臣就任は反関白派の貴族たちからは大きな反感を買っていた。その前にあっては行成の抜擢人事すら霞むだろう。
「藤中将を陸奥においやっておきながら」
「のうのうと?」
 行成は笑った。藤中将こと藤原実方を失ったことを宮中の誰よりも悔いていたのは行成だった。自嘲の笑いだったが、伊周はそれを実方への嘲りととったようだった。
「いい気なものだな。だが、源宰相(源俊賢)が純粋な友情からそなたを蔵人頭に推挙したとは思ってはおるまい。奴とて自分の思いのままに操れる駒が欲しいのよ」
 言うなり、伊周は行成の上衣を力任せに引き千切った。
――手篭めにする気か!
 沈着冷静をもって知られる行成であったが、伊周の行為に他の理由を見つけることはもはや困難だった。行成の蔵人頭就任により、宮廷内の勢力図が変わることを恐れたのだろう。すまじきものは宮仕え。
 伊周を押しのけようと腕を伸ばす。伊周はその腕を笏で薙ぎ払うと、返す手で行成の頬を打ち据えた。
「……!」
 咄嗟の機転で几帳を倒し、それを掴もうとする行成。伊周はその背後に回り込むと、腰紐を用い、行成に猿轡を噛ませた。そのまま腕をねじり上げ、後ろ手に縛ってしまう。
 伊周は行成の上衣をずり上げると、胸を露わにした。そしておもむろに顔を近付けていき、首筋に沿って舌を這わす。生温かいその感触に耐えず、行成は肌を粟立たせた。
 無理やり抱いて意に添わそうなど、まさにおめでたい言う他はない。伊周の妹、中宮定子への帝の寵愛の度合いは強く、その実家である関白家の専横が許される土壌は確かに存在していた。だがそれもつい先日までのこと。
 粘着質な音が耳朶に響く。執拗に首筋に這わされていた舌はやがて耳に移った。たっぷりと唾液をまぶした舌で耳を舐められ、行成は狼狽した。
 それは行成の弱い部分であった。それを知る者はただ一人。行成が一時、関係を持っていた藤中将、世間では行成が追い落としたとされる、藤原実方だけであった。
 その部分を執拗に舐められ、行成がすすりなくような声を上げると、実方はようやく腰を入れた。いつも含み笑いを浮かべているような美しいその男は、しかしその時が近付くと、切羽詰まったような声を上げたものだった。同時に腰の動きが早まり、行成を追い詰めていく。家人に二人の関係を知られることを恐れる行成は必死で嬌声を押し殺し、過ぎる快楽に耐えていた……。
 行成は脳裏からその面影を消そうとした。でなければ、取り違えてしまいそうだったのだ。今、自分を愛撫している男が誰なのかを。
「ほう」
 伊周は行成のその反応からすべてを悟ったようだった。
「朴念仁を絵に描いたような男だとばかり思っていたが、どうやら経験はあるようだな」
 その言葉には面白がるような響きがあった。執拗に耳を舐め、行成の反応を確かめてくる。
「どうだ? 舌まで犯される気分は」
「…は…っ……」
 言葉にさえ煽られて、行成はびく、とその身を震わせた。やがて伊周は耳の中に舌を這わせてきた。尖らせた舌先が耳奥にまで入り込み、行成を翻弄する。喉を仰け反らせ、行成は喘いだ。
「相手は誰だ。源宰相か?」
 行成は首を振り、ここから逃れる方法を模索した。関白家の傲慢を体現したかのようなこの男の意のままにされたくなかった。身をよじり、圧し掛かる伊周の脚間を狙い膝を蹴り上げる。
「っ……貴様…っ……!」
 狙いは誤らず、伊周は脚間を押さえて悶え苦しんだ。行成は後ろ手に縛られ、猿轡を噛ませられた姿のまま、妻戸ににじり寄った。逃れられる! と確信したのも束の間、伊周に脚を引かれ、再び局に引き戻された。
「これ以上手間をかけさせるな」
 その後の伊周は容赦がなかった。腰紐を解いて袴を引き下ろすと、行成の足首と腿を一まとめにして縛り上げた。膝に手をかけ、左右に大きく割り広げる。後孔に熱く昂ぶったそれが宛がわれた。
「挿れるぞ、行成」
 ずぶり、先走りの露が滴るそれが押し入って来ようとする。行成は死に物狂いで抵抗した。
「……っ!」
 実方を左遷させ行成を抜擢人事に導いた、宮中での冠事件。事情はどうあれ、自分が実方を追い落としたと思われているのは知っていた。真実を知るのは、親友、源俊賢だけ。けれど行成の想いはどうあれ、自分が実方を京から追い出すことに違いはない。行成は他の誰よりも自分の罪を知っていた。
 嫌だ。この男の好きにされたくない。自分を抱くのは、自分を罰するのは――。
 実方だけだ、強く思ったその瞬間。
 唐突に妻戸が開いた。
「これはこれは」
 燈台の朧な光の下、その声はよく響いた。
「お安くないな、内の大臣殿。そちらにおられるのはどなたであろう」
 帝を除き、もしも伊周を諌められる者がいるとしたら、それはこの男をおいて他にはいなかった。伊周にとっては叔父、叔父といってもその歳の差は僅かに六歳。行成にとっては父の従兄弟に当たる、帝の母の歳の離れた弟。伊周の目下の政敵。右大臣、藤原道長であった。
 行成が蔵人頭に補される僅か七日前。公卿たちの前で、二人が激しく言い争いをしたことを宮中で知らぬ者はいなかった。
「しかし同意の上とも思えぬな」
 伊周は忌々しげに舌打ちすると、素早く衣を身につけ、道長の前をすり抜け歩み去った。
 伊周が去った後、道長は瞳を細めて行成を見下ろした。行成の口には猿轡、手首は後ろ手に、足首と腿は一まとめにして縛り上げられている。事情を聞かずとも、何が起こったかは明白だろう。
「成る程」
 道長は唇を歪めて笑った。そして不自然とも思えるほど長い時間をかけて、行成が噛まされていた腰紐をほどいた。
「伊周にも困ったものだな」
「――お助け頂き、感謝いたします」
 燈台の僅かな灯りが、行成のむき出しにされた肌を仄かに、しかしなまめかしく照らしている。行成が決まり悪げに身じろぎをすると、道長はようやく太股に掛かっていた紐に手を掛けた。すべての紐をほどくと、行成に背を向け。
「さて、どうしたものか。宮中でのこの落花狼藉」
 道長は上衣を脱いでいた。脱ぎ終えると、こちらを向かぬまま、それを手渡す。行成は渡された上衣を有難く受け取ると、それで身支度を整えながら。
「お戯れがすぎたのでございましょう。幸い、私は怪我もなく。――右の大臣(おとど)、ここは一つ穏便に」
 伊周を追い落とす材料を道長に提供するつもりはなかった。行成が穏やかに、けれどしっかりと釘を刺すと、道長は面白がるような表情を浮かべて行成を見た。これ以上この場に留まれば深い話となろう。行成が一礼しその場から去ろうとした、まさにその時。
「貴殿は温和な男と思われているようだな」
 道長は言った。
「だが、私はそうは思わぬ」
 行成は振り返らず、背中で道長の言葉を聞いていた。
「決して温和なだけの男ではない。さりとて鈍い訳でも、狷介な訳でもないのだろう。貴殿は決して権力に屈せず、無私無欲を貫く男」
「それは買いかぶりというものでございましょう」
「謙徳公の血筋は才色兼備。右近少将もまた、才に溢れた、世にも美しい男であったと聞く」
 謙徳公は行成の祖父の諡(おくりな)であり、右近少将は行成の父の官職名であった。思いもよらぬ名を聞かされ、その場から動けずにいる行成に背後から歩み寄ると、道長は囁くように言った。
「貴殿の字は美しいな」





つづく
Novel