下弦の月 2





「焦っておられるのだろう、伊周殿は」
 源俊賢は言った。
「結局、何人の公卿が亡くなった?」
「八人であったかと」
 俊賢の問いかけは、今年流行した悪疫についてだった。赤瘡の流行により、八人もの公卿が相次いで亡くなったのである。その中には行成の母方の祖父である桃園大納言、源保光も含まれていた。
 それにより宮中の勢力図は大きく書きかわったのである。
 まず関白、藤原道隆が病に倒れ、病中のみという但しの上で名誉ある内覧の地位が伊周に舞い込んだ。しかし道隆が亡くなると、そのまま伊周に転がり込むと思われた内覧は、道隆の弟、道兼のものとなった。
 その道兼もまた亡くなったがために、宮廷内の権力争いはよりいっそう混沌の度合いを増したのである。
 内覧とは帝に上奏される文書を先に見ることのできる権利である。これが許されるということは、実質政治の実権を掌握したことになる。
「道兼殿亡き後、さすがに伊周殿が内覧の名誉に預かるかと思ったが」
「女院が泣いて帝に縋ったという話は真であろうか」
 女院とは帝の母、道長の姉である藤原詮子のことであった。
 行成の問いかけに俊賢は大きく頷いた。俊賢は前任の蔵人頭である。蔵人頭とは宮廷にあり帝と公卿の間を取り持つ秘書役。宮廷内で起きる様々な出来事について、蔵人頭が知らぬことはないといっても過言ではないだろう。
「一晩掛けて帝を口説き落とし、道長殿を内覧になさったのだ」
「何故……」
「女院は大の道長殿贔屓であられたからな。甥ではなく弟を取ったのであろう」
 俊賢は行成の疑問を一言の元に切り捨てた。
「今や伊周殿が頼れるのは、御妹君であられる中宮、定子殿だけだ。伊周殿は関白殿の早逝をつくづくと悔やんでおろうが、あの歳まで後ろ盾が存在したのはむしろ望外の幸運だったと、果たして気付いているのか否か」
 俊賢の言葉には重みがあった。源の姓が意味する通り、俊賢の父は醍醐天皇の第十皇子、臣籍降下した源高明だった。源高明は藤原氏との政権争いに破れ、大宰府に配流された。俊賢、十一歳の時であった。
そんな事情から、俊賢は三十四歳でようやく蔵人頭となっていた。
藤原の中の藤原でありながら、祖父と父を相次いで失い、出世の道を断たれていた行成を憐れみ引き立てたのも、恐らく自分の境遇と行成の境遇を重ね合わせて見たために違いなかった。
「しかし私は道隆殿に恩義がある。私がかつて蔵人頭となれたのは、前関白殿の後押しのお陰であった」
 俊賢はその時の歓喜を鮮明に覚えていたが故に、行成を蔵人頭とするために骨を折ったのだろう。 「とはいえ、主上の定子殿への寵愛は揺るぎないものであるし、娘を入内させようにも道長殿の娘はまだ幼い。定子殿が男皇子をお産みあそばされれば、伊周殿はその後見役として大きな力を持とう」
 くるくると猫の目のように変わる宮中勢力図。しかしその中心にいるのは帝ではない、あくまでも帝の後見人なのだ。
 俊賢はふと顔を上げると。
「伊周殿はそなたに接触を試みようとはしなかったか」
 逡巡は一瞬。行成はゆっくりと言った。
「いいや」
「私はそなたを主上に推挙する際、こう申し上げた。血筋はこの上なく良く、官吏としてもこの上なく優秀な男であると。その言葉に嘘偽りはない。覚えているであろうか、あの殿上賭弓のことを」
「貴殿と同じ組となり、私が筆録を担当した……」
「そう、あの時私は、何と早く、何と正確に、何と美しい字を書く男だろうと思った。そしてそなたのことをもっと知りたいと思った。断言しても良い。きっと帝もまた、そなたを気に入ることだろう。だが、あり得ぬほどの抜擢と反感を持つ者もおろう。そして好意を持つ者も、また。どうか注意を」
 俊賢の言葉に深い友情を感じ取った行成は深く頷いた。
「それにしても伊周殿があのような性分でなければな。あの方は」
 俊賢は嘆息しつつ。
「敵を作りすぎるのだ」
 行成は沈黙した。伊周にあのような行為を強いられたのは、恐らく自分だけではないに違いない。伊周への不満は静かに、けれど確実に宮中に燻り続けている。敵を日々増やし続けるのは、俊賢の言うように焦り故なのだろうか。
 脳裏に道長の姿が浮かんだ。確かに人心を掴む術に長けている男だ。すでに女院を虜にし、宮中派閥を着々と塗りかえている。伊周か道長か、どちらに付くのが得策かと悩む宮廷雀も多かろう。だが――。
 私には関係のない話だ。
 行成はそう結論付けると、次なる話題に移った。





「あら、主上からの使いでございますね」
 帝の使いで中宮定子の御前に上がった行成が取り次ぎを頼んだのは、清原の少納言と呼ばれる女房だった。
行成が初めて定子の御前に伺候した際、最初に取り次いだのは、誰あろう実方と過去に噂のあったこの女房だった。嫌味の一つも言われるだろうと思っていた。だが、その女房はそれを億尾にすら出さず、にこやかに行成を取り次いだ。そしてある折にこう言った。
「藤中将殿ならば、きっとあちらで歌枕探しに躍起となられることでしょうね」
 実方の陸奥行きを栄転と捉える向きもあった。だが、誰よりも政治の中枢に近い場所にいる後宮の女房が実方の左遷の真実を知らぬはずもなかった。そういうことにいたしましょう、行成はこの女房の言外の意味を悟った。
才長けた明朗な女房。定子の一のお気に入り。それこそが少納言という女であった。
 定子の御前を退出しようとしたところ、先触れの声がした。
 渡りの気配と共に現れたのは、僧都の君と呼ばれる中宮定子の弟、すなわち伊周の弟でもある隆円であった。行成の退出を隆円は制し。
「このたびは蔵人頭就任、おめでとうございます」
 関白家の威光によって僧都となった隆円は十五歳。未だ少年の初々しさが残っていた。
 そして隆円は恐縮する行成を前に、行成の書跡を手放しに褒めちぎった。
「私はなにぶん悪筆なもので。達筆の貴殿が羨ましい。是非一度ご指南を」
 誰もが憧れる蔵人頭という職。けれど蔵人頭就任以前と今を引き比べても、行成は何も変わってはいなかった。仕事に邁進し、日記を付け、書を嗜む日々。けれど周囲の人間の自分を見る目は明らかに変わった。それはまるで長い間暗い細い道を歩いていて、突如光差す庭に入ったかのようだった。
 源俊賢の言葉が耳に蘇った。
――あり得ぬほどの抜擢と反感を持つ者もおろう。そして好意を持つ者も、また。
 行成は蔵人頭となったばかり。だが、既に伊周、道長、隆円。
 喪中であるにも関わらず、隆円は二条にある前関白家の邸に行成を誘った。その無邪気な言葉すら疑わずにはいられなくなっている自分に気付き、行成は戦慄した。





つづく
Novel