下弦の月 3





 行成は濡れ縁に座し、淡い月の光に照らされた苔庭を眺めていた。
 都の東方にある寺である。二条にある前関白邸からの帰路であった。行成は方違えのため、この寺に一夜の宿を乞いたのだ。
「行成殿、ぜひまた近いうちに」
 幾度も手を握り、さんざんに別れを惜しんだ後、隆円はようやく行成を解放した。前関白家、前と言えども関白道隆が死去したのはつい数ヶ月前のこと。喪中ではあるものの、女房の質、数。雅やかな調度品。流石は天下の関白家と思わずにはいられない立派な住まいであった。
 苔庭を眺めながら、行成は桃園を想った。
 桃園、それは清和天皇の皇子であった貞純親王の邸宅であった。その後、醍醐天皇の子である代明親王のものとなり、さらには代明親王の子、源保光の邸宅となった。そして行成の母はその源保光の娘であった。十重二重に取り巻く貴族の血。行成の親友、源俊賢でさえ醍醐天皇を通して血は繋がるのだ。
 ともあれ、幼くして父を亡くした行成は母の実家である桃園で育った。
 内裏からほど近い場所にあるにも関わらず、桃園は周囲を墓に囲まれた寂しいところであった。
 もしも、と思うのは、とうの昔に止めていた。けれどこんな夜には、華やかな前関白邸の帰りには、物思いに耽らずにはいられなかった。
 もしもあの美しく才に溢れた父、藤原義孝が生きていたら。関白になったのは父であろう。そして今の伊周の地位に自分はいたであろう。自分は一人子ではなく、同母の弟妹たちがいたであろう。隆円のような弟も生まれ、そして妹が生まれたのなら――。
 そう、中宮となっていたのかもしれないのだ。
 すべてはもし、だ。
 今の私はこの世に独りで、蔵人頭。
 行成は立ち上がり、寺の本堂へと向かった。
 内陣の常燈が寺の本尊を厳かに照らしだしている。見るだけでも有難く、行成は仏に手を合わせ静かに拝んだ。
 そして本堂の一角にしつらえられた局に入る。局は屏風と几帳を張り巡らせて作られた個室空間である。敷かれた畳に座すと知らず溜息が漏れた。
 どうやら自分は思ったより疲れてしまっているらしい。行成は小さく首を振ると、石帯に手を掛けた。
 遠くで微かな物音が聞こえたような気がして、行成は耳をそばだてた。
 衣擦れの音はやがて近くなり、板張りの床を摺る足音が混じる、そして障子が開く音がした。
 僧侶ではない。僧侶ならばもっと控えめに動くであろう。では、自分同様方違えに訪れた都の貴族か。
 だが、本堂にしつらえられていた局は一つ。
 几帳が倒され、背後から抱きとめられて、ようやく気付いた。嗅いだことのある薫物の匂いに。
「隆円は何も知らぬのだ。私に方違えの先を問われ、答えただけのこと」
 伊周の声が響いた。
「――夜は長いぞ、行成」
 答える暇もなく、口を塞がれる。
「一郎」
 伊周の呼びかけに牛飼い童がのっそりと姿を現した。





 牛飼い童、童と名が付いていても立派な成人である。成人後も童形をするのが常だった。
 その牛飼い童に屹立を頬張られ、行成は裸の胸を晒していた。
「良い眺めだな」
 提子から杯に酒を注いでは飲みながら、伊周は行成を冷静に観察していた。
 裏筋に沿って舌が這わされる。敏感な窪みにたっぷりと唾液をまぶした舌を挿し込まれ、行成はその身を震わせた。
「どうだ、一郎。都の貴族の味は」
 牛飼い童は答えず、下卑た笑いを浮かべた。
 舌が動かされる度、敏感になっている屹立に髻を結わない垂髪の牛飼い童の髪が触れ、行成はその度に狂おしいまでに身悶えなくてはならなかった。
 実方と本意ではない別れ方をした後、行成は誰とも関係を持ってはいなかった。けれど短くとも深く愛し合った実方との性交により、行成の身体は作り変えられてしまっていたのだった。
「やはり源宰相かな」
 涼しい顔で伊周は言った。
 行成は緩く首を振って否定したが、実方との思い出をこの男に嗤われるくらいなら、むしろ親友との間を勘繰られた方が良いとさえ思っていた。
「一郎、最後までは達かせるな」
 達する寸前まで追い上げられたところで放り出され、放り出されてはまた追い上げられる。どれほどそれが続いただろうか。やがて伊周は提子を床に置いた。その拍子に提子の鉉が倒れ、かたんと小さな音を立てる。
 それが合図となった。
 伊周は背後から回り込むと行成の猿轡を外した。
「……何故でございますか」
 猿轡は外されたものの、後ろ手に縛られ、身動きはままならない。開口一番、行成は言った。
「何もかも手に入れていらっしゃるのに」
「自分まで手に入れようというのか、と? 自惚れているな」
「私など取るに足らぬ者でございましょう」
「そうか?」
 太股に手が掛けられ、大きく脚を割り広げさせられる。行成は羞恥を悟られまいと伊周から目を逸らした。
「右の大臣はそなたに執心している」
 思いも寄らぬ言葉に行成は我と我が耳を疑った。行成の表情を読んだのか、伊周は。
「まるで計ったようにあの場に現われた。おかしいとは思わぬのか」
――そうだ、確かに。
 あまりに頃合が良過ぎた。女房たちが詰める局に男の気配があれば、知らぬ振りで通り過ぎるのが貴族の作法。
「源宰相も、主上も。そう、最近は隆円までもだ」
 しかし行成は伊周よりもより冷静に自分の価値を分析していた。悲しいかな、行成は自らに自惚れを許さぬ生まれだった。
「右の大臣はあなたを追い落とす機会を待っていたのでございましょう。狙いは私などではなく」
「そう思いたくば思えば良い。そう、どちらの言葉も半分は真実であろう」
 伊周が乾いた手で屹立に触れてくる。
「あ……っ……」
 牛飼い童の無骨な手とは違うそれで屹立を擦られ、上げまいとしても嬌声が漏れてしまう。
 伊周の細く白い指は屹立から離れ、それまで触れられないままでいた胸の頂きに移った。人差し指と中指の間に挟まれ、頂きはすぐに尖りを帯びる。しこったそれを親指と人差し指で摘み上げられると堪らなかった。行成は伊周に白い喉を晒した。
「茫洋として掴みどころのない男だと思っていたが。皆この顔を知っているのか」
 伊周は何を思ったか、唐突に提子を手にした。
「一郎」
 伊周の呼びかけに、それまで慎ましく下がっていた牛飼い童が進み出た。牛飼い童に行成を羽交い絞めにさせると、伊周は行成の鼻を抓み、顎を引いて口を開かせた。提子に残った酒を口に注ぎ込んだ。
 突然大量の酒を注ぎ込まれた行成は噎せ、一部は唇から溢れて床を汚したが、それでも容赦なく酒を注ぎ込まれ、窒息しないためにはそれを嚥下せざるを得なかった。
「そう、その顔だ。……堪らない」
 行成は伊周の膝の上に乗せられ、後孔に昂ぶりが宛がわれた。徐々に酔いが回り、身体に力が入らなくなってくる。
「…く…っ……」
 熱い昂ぶりは容赦なく行成の肉筒を割り開いた。以前は寸でのところで右大臣、道長に助けられた。けれど今夜ばかりは救いの手は差し伸べられないだろう。
 昂ぶりを全て押し込めてしまうと、伊周は性急に腰を使い始めた。
「あ……ああ…ッ…あ……!」
 唇を血が滲むほど強く噛み締め、嬌声を押し殺す。何とかして逃れようとするが、酒で力の入らなくなった手は空しく虚空を掴むばかりだった。
 繋がったままで身体を返され、脚を伊周の肩に掛けさせられる。身体が折り曲がるほど脚を上げさせられ、より深く穿たれた。熱く脈打つそれは行成の感じる場所を正確に穿ち、擦り、追いつめていく。
「良いだろう。源宰相よりも」
 行成の上で、伊周は息を荒げながら言った。
「私の物になれ、行成。さすれば、どんな出世も思いのままだ」 
 可笑しくてたまらなかった。
 行成は嗤った。狭い肉筒一杯に伊周を頬張らされながら。
 その嗤いをどう受け止めたのか、伊周は。 
「今や皆、右大臣、右大臣。道長、道長だ。女院のご機嫌取で成り上がったに過ぎぬ男をちやほやと」
――あなたこそ何も知らぬのだ。
 私から見れば、あなたもまた傍系に過ぎないということを。あなたの祖父道兼は私の祖父伊尹の弟だった。もしも祖父と父が生きていれば、あなたの立場にいたのは私だったかもしれない。 
 伊周の限界は近かった。これ以上はないというほどに膨れ上がった昂ぶりが行成の最奥を叩いたその瞬間、伊周は弾け、生温かい液体が染み出るように内壁に広がっていった。


――だからあなたもまた、忘れてはいけないのだ。権力は決して磐石なものではない。帝の寵愛は永遠のものではなく、人は死に、万物は流転するということを。
 伊周の精液を身体の奥深いところで受け止めながら、行成も又、達した。
 被虐の昏い悦楽がそこにはあった。





つづく
Novel