下弦の月 4





「どうしたのだ」
 呼びかけられているところを見ると心を飛ばしてしまっていたのだろう。源俊賢が不審そうに自分を見ていた。
「すまぬ」
 行成は反射的に謝り、意味もなく綴じ本を捲った。
「前任の蔵人頭として教授を、と思っていたが」
 源俊賢は綴じ本を閉じると。
「私は心配のしすぎかも知れぬな。そなたは一を聞いて十を知る男。それを知って主上に推挙した。私は役目を退き参議となったが、同輩に藤原斉信もいる。あの者に聞けば、瑣末なことはすぐに解決しよう」
 行成は慌てて。
「いや俊賢殿、私はあなたの好意を嬉しく思っているのだ。我々は歳こそ離れているが、真の友。これまでも仕事抜きでも会っていた仲ではないか」
「行成殿」
 いつになく真剣な表情を浮かべて俊賢は言った。
「失礼を承知で言ってもよいだろうか」
「私とあなたの仲ではないか。何を言われようとも失礼とは思わぬ」
 行成の促しに、俊賢は思い切ったように口を開いた。
「私はそなたを私だけの宝のように思っていた。河原で何気なく拾い上げた石が世にも美しい玉だったようなものだと。すぐにそなたに近付き、親しくなり、ひそかにそのことを喜んでいた。――私だけがそなたの魅力を知っていると。もっとも藤中将のような美意識に優れた一部の公達はそなたの魅力にとうに気付いていたようだったが」
 行成は黙ったままでいた。藤中将、藤原実方とは通い合う仲だった。行成はそのことを口外せず、俊賢も聞かぬままだったが、恐らく二人の仲に気付いていたのだろう。
「そなたの魅力をもっと広く知ってもらいたいと思い、主上に蔵人頭として推挙した。だがこうしてそなたが蔵人頭となり、皆がそなたのことを語るようになると、なにゆえか寂しく思えるのだ。私が掌中に大事に仕舞っておいた玉が、と」
「俊賢殿、私は何も変わってはおらぬ」
「そうだな。知っているよ」
「私はこれからもあなたとこういう機会を作りたいと思う」
「多忙となってもか」
「それではまるで私が暇だからあなたに会っていたような言い方ではないか」
 俊賢は言った。
「そうは言っておらぬよ。だがそなたは寝る間を削っても会いに来そうな男だからな」
 否定をしようとした行成を手で制して。
「良いのだ。それがそなたの良いところだ。律儀で生真面目」
 行成は憮然として。
「自分ではそうは思ってはおらぬ」
「そういうことにしておこう。だがこの現代においてそなたのその気質は美徳であると私は思っている。話は変わるが」
 俊賢は自邸にいるのにも関わらず、辺りを憚るように声を潜めた。
「私はどうやら内の大臣(伊周)に道長派と目されているようだ。こんこんと嫌味を言われた」
「内の大臣が? 何を根拠にあなたを道長派だと」
「私の異母妹が道長殿に嫁いでいるからであろう。そして弟の経房は道長の猶子だ」
 源俊賢の妹は高松殿と呼ばれる源明子であり、俊賢と同じく源高明を父に持っていた。
「その一方で我が妻は中宮定子の女房だ。私は恩義ある道隆殿のためにも中立の立場にいたいと思い、実際そのつもりでいるが、内の大臣の曇った目にはそうは見えぬらしい」
 奇妙に納得ができた。
 だからこそ伊周は自分を手篭めにしたのか。
 伊周はかつて道隆派であった貴族たちが道長派に寝返ることを恐れている。自分を取り込めば、自分と親しい源俊賢もまた取り込めると思ったのだろう。
 ご苦労なことだ。身体をいくら繋げようとも、心を繋げられなければ意味がないというのに。
「まったくもって笑わせる。そなたも私も、宮中での権力闘争には辟易しているというのに」
 そうだろうか、行成はいぶかった。
 親友の言葉を疑うつもりはなかった。だが、俊賢は長い間暗く細い道を歩いてきた人間だ。権力闘争に敗れた身内を持つ人間だ。権力闘争に敗れるということが、どんなに惨めで辛いものか、骨身に染みて知っている人間だ。
 俊賢が権力闘争に辟易していることも、闘争とは無縁の場所に身を置きたいと思っていることも確かだ。だが――。
 その闘争に敗れても良し、とは決して思ってはいない筈なのだ。
「そなたには?」
 何を問われたか判らず首を傾げた行成に。
「内の大臣はそなたには何と言った?」
 その口調に何かねついものを感じ取った行成は顔を上げた。
「あなたは前にも似たようなことを聞かれたな。いいや、何も言われてはおらぬ」
「――そうか。それは?」
 俊賢の視線の先を確かめ、行成は反射的に首筋を掌で押さえた。そこには先日伊周によって付けられた口付けの跡があることを行成は知っていた。
「気付かぬうちに撲(う)ったようだ」
 平静を装う行成の言葉に、俊賢は視線にいぶかしさを乗せて行成を見た。





 行成は紫宸殿の南庭をそぞろ歩いていた。
 南庭の東には桜、西には橘が植えられていて、それぞれ左近の桜、右近の橘と称されている。
 行成はまるで吸い寄せられるように右近の橘に近付いた。一年でもっとも良い季節とされる九月。今はむろん花の時期ではなく、実を付けるにもまだ早い。行成は枝を手繰り、常緑の葉に唇を寄せ、花に思いを馳せた。 
 五月になれば、清楚な白い花を咲かせる橘。桜と比べれば遥かに地味だ。けれど行成はこの花を事の外気に入っていた。地味で目立たぬこの花と、自分の境遇とが似ているように思えたからかもしれなかった。
「花の時期でなくて残念であったたな、蔵人頭」
 闇の中から現れたのは、右大臣、藤原道長であった。
「右の大臣」
 行成は枝から手を離すと、うやうやしく一礼した。
「橘の花は地味で目立たぬが、清楚で美しい花だ。しだれ梅のように派手ではなく、桜のように押し付けがましくもなく」
 道長は人に注目されることに慣れきった者だけが持ち得る不遜な態度で行成の前に立った。
「まるで貴殿のようだな」
 否定すべきか、それとも肯定すべきなのか。判らず立ち竦んだのは、それが褒め言葉とも思えなかったからだ。そう、橘の花は地味な花。
「花の時期となれば慕わしく香り、人はようやく気付くのだ。ああ、ここに橘の花があったかと」
「けれど人は橘の花の下で花見はいたしません。――橘は持て囃される花ではない」
 古来より花見は梅、今では桜の下で行われるのが常だった。
「清楚なこの花の下では、浮かれ騒ぐのが恥ずかしくなる。橘はそんな花なのだろう」
 気付くと、道長の顔が目の前にあった。腰に手が回され、ごく自然な形で唇が重なる。
「――…」
 突然のことに行成は身体を強張らせた。道長はすぐに唇を離すと、行成を間近で見ながら微笑んだ。
「何の真似にございますか」
 さりげなく身体を引き離そうと試みるが、道長は行成の腰に手を回したままでいた。
「私は時折思うのだ。右近少将とはどんな男だったのだろうと」
 右近少将とは行成の父、若くして死んだ美貌の歌人、藤原義孝のことであった。道長の言葉の先を聞きたいと思えば、無下に突き飛ばすことも出来ず、行成は道長の腕の中にいた。
「長兄の道隆は親しかったようだ。だが、私は朧ろにしか覚えてはおらぬ」


――五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする


 道長がそんな話を始めたのは、恐らく橘の花が理由であろう。古今和歌集にあるこの歌からの連想で、橘の花の香りと言えば、過去の人が思い浮かぶとされている。
「生前に会ったことのある者はおろか、会ったことのない者まで夢枕に立ったとして、右近少将を語る。何と美しく、信心深く、儚い運命の下に生まれた男であったかと」
「そして私を見て言うのでしょう。あの右近少将の子にしては何と地味な男かと」
「いや」
 再び唇が重ねられた。
 熱く濡れたその舌は下唇を何度かなぞった後で、行成の唇をこじ開けた。歯列を割り、口内に滑り込んでくる熱い舌。行成は身体を震わせながら、それを受け入れた。聞きたかったのだ、道長の言葉の先を。
 道長は舌を絡ませるようにして行成を自分の口内に導くと、粘着質な音を立て、その舌を吸った。濡れた音が耳朶に響き、行成を乱す。 
「っ……、あ……」
 あまりに濃厚な口付けを受け、行成の膝はがくがくと震えていた。
 長い銀糸を引いて、唇が離された。道長は行成の濡れた唇を指で拭い。
「――たまらぬな」
 ぐい、と腕を引かれ、その胸に抱き止められた。
「未だ気付いておらぬのか。そなたはまぎれもなく謙徳公の血筋、右近小将の子だ」
 行成は瞳を瞬かせた。
「凡人は気付かぬ。流石は我が義兄よ、源宰相は人を見る目がある。配流された源高明の子としての艱難辛苦が人を見る目を養ったのであろうな」
 道長は行成の耳に舌を這わせた。行成はびく、と身を震わせ、肩を竦めたが、舌は執拗に行成の耳を責めてくる。恐らくは行成の全身は紅く染まり、目の下まで朱が差していることだろう。それを確かめることは出来なかったが。
「ッ……、っ……」
 人は、認めてもらえることを望まずにはいられない。
 この男は何と上手にそれを探り当てることか。
 だからこそこの男を皆はこう呼ぶのだろう。
 人たらし、と。
「源宰相は嫉妬でひき蛙のように膨れ上がっているぞ。当然だ。そなたの魅力を誰よりも先に知ったからと言って、それがどうだと言うのだ。独り占めする権利がある訳でもない」
 道長は両の掌で行成の顔を包み込んだ。
「知れば知るほど執心せずにはいられなくなる。何と危険な男よ」
「……その言葉を」
 道長の執拗な責めから解放され、行成はようやく言葉を搾り出した。
「一体何人の公達に仰られたのですか」
 道長は心底から面白そうに笑った。
「なあ、行成」
 そして道長はひとしきり笑い終えると真顔になり、こう言った。
「麝香鹿は己の香りを知らぬと言うぞ」





つづく
Novel