下弦の月 5 |
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行成は戸惑いの中、道長の口付けを受けていた。 抗おうと身をよじるが、道長の力は強く、振り払うことが出来ない。 渾身の力を込めて突き飛ばすことも出来ただろう。だが、それでは道長の言葉の続きを聞くことは出来ない。天性の人たらしの言葉は耳に快く、もっと聞きたいという欲望に抗うことは出来なかった。 道長の唇が語るのは行成の父、藤原義孝。二歳で死別した父だ。 父の話を聞きたかった、もっと。 けれどそれを望む一方で、醒めている自分がいた。もし義孝が生きていれば、宮廷の主流は自分たちであり、道長は容赦なく自分たちを蹴落としにかかったことだろう。味方に甘く、敵に容赦がない、道長はそんな男だ。 口付けの合間を縫って行成は尋ねた。 「なぜ、……右近小将の子と」 「貴殿は魔性の男だ。そうではないか?」 道長は啄ばむように唇を合わせたかと思うと、角度を変えて口付け、熱い舌を咥内に滑り込ませた。舌を絡ませては引き込み、舌先を擦り合わせ、互いの唾液を混ぜ合わせる。唾液を飲まされ、肌が戦慄いた。 「そう、その顔だ」 頤に指が掛けられ、顔を上向かされる。 「普段は清冽な泉のように見せているが、時折こうして凄絶な色気を見せる」 行成は道長の言葉の意味がわからなかった。 どんな顔をしているというのだろう、自分は。 「もっと見たくなる」 再び顔が近付く。 避けようと顔を背けた行成の耳に足音が響く。それは夜回りの滝口(武士)であった。 道長は舌打ちしたが、行成にとって滝口の登場はむしろ救いだった。 「それでは、右大臣」 一礼し、道長から離れる。足早に歩み去ろうとする行成の背中に道長の声がかかった。 「ときに、蔵人頭。源信僧侶の往生要集、興味はおありかな」 なぜ知っている、といぶかった。 それは行成が借りる当てを探していた貴重な本であった。 流石は人たらし。 心中で思うが、それを口にすることはしない。行成は振り返り。 「――有難くお借り致します。右の大臣」 比叡山の高僧、源信が書いた往生要集。 末世の現代、どうすれば極楽に行けるかを説いた本である。日本はおろか遥か遠くの唐でも評判となっていた。人気が高く、行成もまた借りる先を探しあぐねていた。 やっと手に入れた貴重な本だった。一字一句違えたくなく、行成は集中して筆を走らせていた。 行成が仏教に深く帰依したのは、信心深かった父、義孝の影響からだけではないだろう。 行成が常に感じていたのは、世の無常だ。 祖父を父を、後ろ盾を失ってまで生きなければならないのは何故だろう。 行成には同母の兄弟はいなかった。同じような境遇を生きてきた親友、源俊賢にすら同母の兄弟がいるというのに。 そして行成は今年流行した悪疫により、唯一自分に残された後ろ盾であった母方の祖父、そして心の拠り所であった母を亡くしていた。 行成は人生の底辺にあり、蔵人頭に抜擢されたのだ。それはまさに暗闇にさした一筋の光明だった。生きろ、と仏に言われたように感じずにはいられなかった。 それにしても――、行成は思った。 あの不幸を一身に受けたような伊周の態度はどうだろう。後ろ盾であった父を失ったが、妹も弟も母も、母方の祖父も未だ健在ではないか。 しかし、その感情が恵まれた者への嫉妬であることに気付けぬほど行成は愚かではなかった。 行成は一瞬でもそう思った自分を恥じて唇を噛んだ。 渡殿に慌しい気配がし、行成は一旦写本の作業を中断した。 簀子縁に現れたのは、古参女房の近江であった。 「源宰相さまが参られました」 「俊賢殿が?」 俊賢の邸で会ってから、まだ幾日も経っていなかった。急用だろうか、行成はいぶかった。 「すぐに案内を」 近江は女房たちに硯箱を片付けさせると、脇息や円座を運ばせ、急ぎ俊賢の席を作った。 さほどの間もなく俊賢が姿を現した。 俊賢は部屋に入るなり、行成の手元にある往生要集を一瞥した。 「それは」 「右大臣に」 俊賢はそれを聞くなり気色ばみ、円座に座り込んだ。 「俊賢殿、いかがなされた」 「では、噂は真であったのだな」 「噂とは?」 「――……」 「俊賢殿」 俊賢はようやくのことで重い口を開いた。 「右の大臣がそなたを取り込もうとしているとの噂を聞いた」 「少なくとも内の大臣はそう思っているらしいな。誰あろう、貴公から聞いた話ではないか」 「いや、そうではない。そうではないのだ、行成」 俊賢は行成の手首を掴んで引き寄せると、覆いかぶさるようにして強く抱き締めてきた。 「俊賢殿……っ」 「行成!」 俊賢は狂人もかくやの力で行成を引き倒すと、強引に口付けた。 その時、行成は友情と恋とは違うということを悟った。 俊賢は行成の親友であり、むろん好意を抱いていた。けれどその口付けは行成に困惑しかもたらさなかった。 死に物狂いで抗うことも出来ただろう。だが、これまで育んできた友情を思えば、そのようなことが出来るはずもなかった。 行成は俊賢にされるがままにしていた。 俊賢は思い詰めたような低い声で。 「そなたが藤中将(藤原実方)と通い合う仲だったことは知っていた。あの華のある男なら仕方がないと思っていた。あの男の陸奥行きを喜ばなかったかと言えば嘘になる。だが、ずっとこのままで良いと思っていた。そなたと私、良い友人のままで。しかし」 俊賢は激昂し叫んだ。 「むざむざ右大臣に奪われるのは我慢がならぬ!」 普段は思慮深い年上の友人が見せた思わぬ熱を目の当たりにし、行成は自分の浅慮を恥じた。 「――覚えておられるだろうか」 行成は静かに言った。 「貴方と私が知り合った、殿上の賭弓」 すべての人間が血縁であると言っても過言ではない宮廷。むろん互いにその存在は知っていた。だが、その殿上賭弓で二人は同じ組となり、初めて親しく言葉を交わしたのだ。 「その後、貴公が話しかけてきた。比叡山で君の吉夢を見たよ、と貴公は言った」 告げた途端、涙があふれた。 「嬉しかった、私は」 長い間誰にも顧みられなかった自分という存在。それを初めて認めてくれた男、それが俊賢であった。その想いをどうして無下にすることが出来ようか。 行成は俊賢の背に手を回した。 「行成…っ…!」 むしゃぶりついてくる俊賢を首を小さく振って制し、行成は立ち上がった。渡殿に出、恐らく物音に聞き耳を立てていたであろう女房に告げる。 「鼠が出て、騒いでしまった」 そして大きく息を吸い、言った。 「源宰相殿と込み入った話があるのだ」 自分は馬鹿なのかもしれない。 だが、自分の身体にどれほどの価値があるというのだろう。 それは俊賢との友情を失ってまで守るほどのものなのか。 「寝殿には朝まで誰も参らぬよう」 俊賢が背後で小さく息を呑む気配がした。 |
つづく |
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