下弦の月 10 |
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土御門邸。元は源倫子の父、源雅信の邸であった。 通い婚が常の現代だが、道長は徐々に土御門殿に住むようになった。家は娘に付く。雅信の死後、邸は源倫子の物となり、実質道長の邸となったのである。 失脚した源高明の問題は別としても、高松殿に通われる身である源明子が、同居する源倫子よりも、何かと冷遇されるのも仕方のないことと言えた。 「ご苦労、蔵人頭」 その土御門邸の昼の御座で、道長は行成を迎えた。 「驚いたような顔をしているな。もうだいぶ良いのだ」 主上の代理での病見舞いだったが、意外なことに道長の顔色は良かった。 「一時は出家すら考えたほどだがな」 道長は簀子の端に座す行成を手招いたが、行成は固辞した。 「いえ、私はこのままで」 「変わらず堅いな。気安くお喋りをしない新任の蔵人頭は後宮の女房たちには不評のようだ。だが、聡明な小納言はそなたを買っているそうだぞ」 後宮の女房たちに煙たがられていることは予期していたが、あの小納言が自分を買っているとは初耳だった。 「少納言は昔から貴方様を贔屓していると聞きました」 「そう、あれは古い馴染みよ」 どこかで聞いた言葉だと思った。ややあって、それは実方がかつて小納言について語った言葉だということに思い当たった。 「あれの言葉はいつも正しい。男の趣味も――、良いようだな」 道長は含みを持たせて言うと、ちらりと行成を見た。 行成は流されまいと気を引き締めた。ぬかりなく情報を手に入れ、惜しげもなくそれを本人に披露する。自分への関心を示されれば、人は誰しも喜ぶものだ。 「お戻しが遅くなりました」 行成はそう言って、先日道長から借りた往生要集を傍らに置いた。返却がここまで遅くなったのは、蔵人頭の職務が忙しく、写本作業に手間取ったためである。 「借りた本を返すのに手渡しとは行かぬのか」 道長の言葉はもっともであり、行成もこれ以上我を通すことは出来なかった。 簀子から一段母屋側にある庇の間に入り、道長に往生要集を差し出す。道長は表紙を一瞥するなり、当てが外れたような顔つきをした。 「残念だな。そなたが写した方を貰いたかったのだが」 「お戯れを」 「冗談なものか。私が持っていた写本よりも、そなたの筆の方が遥かに勝っている」 その言葉を裏付けるように、道長は溜息と共に往生要集を手にした。 「そなたはいずれ佐理殿はおろか、道風をも越えるやもしれぬ」 藤原佐理、先日大宰大弐の職を更迭された公卿である。素行にやや問題があるものの、書に優れ、三代の帝の大嘗会の屏風色紙を書く名誉に預かっていた。道風は言わずと知れた小野道風。行成が尊敬して止まぬ稀代の能書家である。 「そなたも右少将と同じく信心深いと聞いている。写された本が痛んだ頃合にまた貸すとしよう。その時は」 ふいに道長から提示された壮大な夢。その夢はあまりに恐れ多く、されどもあまりに甘く、行成は一瞬、我を失った。その隙を見逃さず、道長は行成の手に己の手を重ねた。 「写した方を持ってこられるよう」 行成はまるで焼け火箸を誤って掴んでもしたかのように、急ぎ手を引いた。行成の過剰な反応を見て、道長は笑った。 「まるでどこの深窓の姫君かというような反応だな」 揶揄するような道長の言葉に、ひどく辱められたような気になった。だが、今の自分の態度は自意識過剰と言われても仕方がないだろう。行成は平静を装い、道長を見返した。 「その後、源宰相とはどうだ」 返す暇もあらばこそ、道長は衝撃的な言葉を発した。 「共寝の夢を見たのではないか」 行成はひそかに拳を握り締め。 「何を申されます」 「どうやら一時の狂乱が収まったようだ、我が義兄は」 「参議となられて、一時ご多忙であられたのでしょう」 「では、そういうことにしておこう」 ずばりと核心に切り込んでくる道長の豪胆さに行成は内心舌を巻いていた。 まるで抜き身の剣の上で対峙しているようだった。道長の一つ一つの言葉には含みが、意味があり、返す言葉を行成に迷わせる。 「高階一族は強引だ」 道長はふいに話題を変えた。 高階、それは故道隆の妻の一族の名字である。 道隆の妻はかつて宮廷で高内侍と呼ばれた高階貴子。内侍は官職名で、宮中女官の最高位である。美しく聡明で、道隆に熱望されてその妻となったという。 されど気位が高く、身分では上となる娘、中宮定子の前でも敬意を表わす裳裾を付けなかったという逸話はとみに知られていた。 「そしてその血を引く伊周。あの男が内覧を許され、関白となったらどうする」 行成は即答した。 「どうも致しません」 「揺れぬな、蔵人頭」 道長は口角を上げた。 「絶対に我に回って来ない筈の席が空いたのだ。天が私に味方しているとしか思えぬ」 宮廷に吹き荒れた赤瘡の災い。七人もの公卿が亡くなり、行成も外祖父と母を相次いで亡くした。しかしそれにより未曾有の大人事変更が行われることとなったのだ。道長は内覧を許されて右大臣に。源俊賢は参議に上がった。 「そなたも感じている筈だ。運が自分に味方していることを」 そう、そしてたとえ実方とのことがあったとしても、常ならば俊賢が行成を蔵人頭へ抜擢することは到底不可能なことであったろう。 「源宰相は可愛い明子の兄よ。どうして重用しない筈があろう。源俊賢を蔵人頭から参議に引き上げたのは私であるし、その後任にそなたを推すと言われた時も私はあえて止め立てしなかった」 道長は脇息に凭れかかると、ゆっくりと言った。 「源宰相はそなたに道を付けたかもしれぬ。だが、私ならさらにその先の道をも切り拓くことが出来る」 その言葉の真意を悟れぬほど行成は愚鈍ではなかった。行成は静かに。 「貴方様はかつて私に言われた、それが正しいかどうかは別としても。私は決して権力に屈せず、無私無欲を貫く男だろうと。矛盾しているとはお思いになりませんか」 「そう、出世は望んでいまいな。だが、転落することには耐えられまい。いずれはそなたの子に見せる未来も欲しいであろう」 子、それも行成の心を震わせる鍵となる言葉であった。何故だろう。何故亡き父のことを思うと、いつもこんな風に取り残された孤児のような気分になるのだろう。若くして自死を選んだ父。自分を、何の後ろ盾も持たせずに世間に放り出した父。 どんなに恨んだことだろう。どんなに憎んだことだろう。そして――。 どんなに恋しかったことだろう。 「そのすべてをそなたが望まなかったとしても、源宰相はそれらを望んでいる」 似た境遇にあった行成と源俊賢。だが、二人の間には一つの、そして決定的な違いがあった。源俊賢の父は臣籍降下した源高明、醍醐天皇の第十皇子。源高明は安和の変によって大宰府に配流された。それは藤原氏の策謀であったとまことしやかに囁かれている。 自死した行成の父とは違い、源高明は策謀によって栄華の座から転げ落ちたのである。 その無念を晴らしたいと源俊賢はひそかに思っている。自分のためではなく、自らが高い位に付くことで源高明の汚名を雪ぐことが出来るのではないかと。 「そなたが自分の道を邁進するのは良いことだ。だが、それが恩義ある友の足を引くことにならぬと良いが」 明らかに釘を刺されたと感じた。平静を装ったが、顔色に出たのかもしれなかった。 「ふふ、憂い顔もまた美しい」 道長は膝を進め、機先を制して行成は下がった。道長は興じるような表情を浮かべて。 「すぐになびかぬところも又良いな」 ぱちりと檜扇を閉じると道長は言った。 「――宮廷に戻られよ、蔵人頭。主上はそなたを好いておられる」 |
つづく |
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