下弦の月 11





「ッ……」
 何と大胆な。
 それは誰が通るとも知れぬ細殿で押し倒された時にも思ったことだった。そして今度は宿直所だ。
 行成は息も付けぬほどの口付けを受けていた。顔を背けたが、再び正面を向かされ、舌を絡める深い口付けを受ける。
 振りほどき、宿直所の端に這い寄った。
「頭中将が」
 弁官と武官の二人からなる蔵人頭。武官である同僚の藤原斉信は蔵人頭と近衛中将を兼任するため、頭中将と呼ばれていた。
「――頭中将が聞きつけて参るやも知れません」
 伊周は言った。
「騒ぐつもりか。争い事は嫌いであろう」
「事と次第によっては」
 暦は既に十二月。赤瘡の厄災に見舞われた長徳元年もようやく終わりを告げようとしていた。
 大雪の降る中、帝が突然の物忌みに入り、行成のように宮廷を退出できなくなった貴族は多かった。
 警戒はしていた。だが、仕事場である宿直所で襲われるとは夢にも思わなかった。
 伊周は恫喝に怖じず、袴の裾を蹴捌き、行成に近付こうとした。
 その時、妻戸の向こうで声がした。
「蔵人頭はおられるか」
 源俊賢であった。名ではなく肩書きを呼んだのは、宮中であったからだろう。たとえ親子であっても公式な場で名を呼ぶのは不敬に当たる。
 行成の親友の登場に流石の伊周も頬を引き攣らせた。
「源宰相殿」
 行成は平静を装って答えた。
「今、着替えの最中なのだ。――いかがされた」
「運悪く主上の御物忌に掛ってしまった。貴公と雪を愛でながらしみじみと話でもしようと思って来たのだが」
 妻戸の向こうで嘆息する気配がした。
「どうやら間が悪かったようだ。登花殿に寄った後にまた来よう」
 遠ざかる衣擦れの音を聞きながら、行成はほっと安堵の息を付いた。
 その隙を突き、伊周は行成の手首を掴むや、ぐいと引き寄せた。
「騒げるものなら騒いでみろ。逆上する源宰相はさぞや良い見物となることだろうよ」
 恩を仇で返すような伊周の言葉だった。
 逆上する俊賢は行成にも容易に想像がついた。伊周にどれほどの非があったとしても、俊賢は人々の好奇の目に晒されることになるだろう。或いは自分との仲を勘繰る者さえ現れるやもしれなかった。
 自分が自分に重きを置いていないことは自覚していた。それが悪い癖であることも重々承知していた。だが――。
 どうしても俊賢を窮地に追いやることは出来なかった。
「そう、そうして大人しくしていればすぐに済むことだ」
 沈香木で作られた火桶の暖かさは知れている。身も切るような寒さの中で、二人は肌を合わせた。
 冬の外気に触れて勃ちあがった乳首を伊周が口に含む。
「通ってくる者でも出来たのか」
 ざらりとした舌で舐められ、歯先で咥えられ、行成は眉を寄せた。
「前より敏感なようだ」
「ふ……」
 行成は鼻先で笑った。
「貴方こそ」
 脚を大きく割り開かされた。十六夜の月明かりが行成の白い太腿を艶かしく照らし出す。
「噂は耳に」
「さて、何の噂か」
「ん…っ、…あ…ッ…」
 行成の脚間に伊周の手が絡みついた。上下に擦りたてられれば、直ぐに芯持つ固さとなる。
「新しく通う女人がおいででしょう」
 伊周は行成の首筋に顔を埋めた。唇を押し当てられ、強く吸われる。顔色が変わったのが自分でもわかった。痕を付けられることを危惧したのだ。行成はさり気なさを装って身を引いた。
「私を構う暇などないはず」
「主上の物忌に掛ればどこにも行けぬわ」
「だから手近で、と?」
 あまりに勝手な言い分に呆れる他なかった。
「舌を」
 出せ、と言われて行成は顔を背けた。伊周は逃げを許さず、両の手で行成の頬を包み、向き直させた。唇が押し当てられ、熱い舌が挿し込まれる。内臓をかき乱すような深い口付けだ。
「澄ました顔をして――。好きであろうに」
「何を……」
「同じ血を求め合うのが我らだろう」
 床に両の手を縫い留められ、抵抗を封じられた上で、舌を吸われた。おののく舌が絡められ、引き出され、唾液を注がれる。
「通う女も、妻も子も、政敵も友も。皆、藤原と源だ」
 雪は音を吸う。
 宮廷の、誰がいつ訪れるとも知れぬ宿直所で、しかし行成はこの世に自分と伊周二人しかいないような錯覚に囚われていた。
「花山院の最近を知らぬか」
 問いかけの唐突さに行成は驚いた。伊周は本当はこのことを聞きたかったのではないかという気がした。
「数少ない従兄弟であろう」
 花山院は、不敬のそしりを免れるならば、行成の映し鏡とも言える悲劇の帝だった。
 生母は藤原懐子。行成の父、藤原義孝の同母の妹であり、花山院は行成の従兄弟に当たる。
 同じく後ろ盾となる祖父藤原伊尹や叔父の藤原挙賢、義孝兄弟を失ったために悲劇の道を歩むことになった。
 一人残された叔父の藤原義懐を後見として天皇の座に着いたが、祖父の弟の家系である藤原道兼の陰謀により、在位わずか二年で退位させられた。
 藤原義懐は絶望して出家し、これにより行成の天皇の外戚としての未来は完全に絶たれたのであった。
「未だ女漁りが激しいそうだな」
「花山院の未来を奪ったのはあなた方」
 そして自分の未来も。
 行成は冷ややかに言った、
「女漁りがひどくなるのも止む無し、とはお思いになられぬのですか」
 伊周は畳み掛けるように言った。
「母娘に手を付ける色狂いだ」
 花山院は出家後、六年もの間各地を彷徨った。京に戻った後、謙徳公こと藤原伊尹の娘、叔母である九女と関係を持ったことを皮切りに、貴族にとって兄妹同様の関係にある乳母の娘、さらにその娘にまで手を付け、爛れた生活を送っているともっぱらの評判となっていた。
「冷泉帝の血ゆえでしょう」
 花山院の父は奇行で知られた冷泉帝。冷泉帝も在位わずか二年で退位させられていた。
「母娘に手を付ける男なら、平気で姉妹とも関係を持つことだろうな」
「顔が似ていれば心栄えも似ると」
 形は心を映すもの。愛した妻が亡くなった時、その妹を後添えに求める者は多い。顔が似ていれば心も同じと思うためだろう。
 それを知って口にした言葉であった。しかし。
「何を知っている」
「何を?」
 伊周はその答えを聞くや、苦々しい顔つきになった。
「花山院が……、どうされました」
「何でもないわ」
 だしぬけに身体を折られ、秘められたその場所が伊周の前に晒される。
 行成は伊周を受け入れるために身体の力を抜いた。
「くぅ……ン……」
 狭い隘路を切り拓き、肉の凶器が入り込んでくる。
 伊周は長い時間をかけてすべてを収めてしまうと、律動を開始した。腰を入れられるその度に、伊周の美しい顔が間近に迫る。
 美しく凛々しい、されど稚いこの男。あと十年、関白が生きていれば天下を取れたことであろう。関白亡き後、正しい道に導く者がいないのは不幸なことだ。
「一歩引いたところから」
 激しく腰を使いながら伊周は言った。
「高みの見物としゃれ込むつもりでも、お前もしょせんは藤原だ。心の中には抗いかねる野望と情念が渦巻いている」
「汚い、ものを……っぅ……ん、ん……ッ」
 行成は伊周の激しさを受け止めかねていた。突かれるその度に内臓が口から飛び出しそうな衝撃が走る。
「白日の元に晒す必要が何故ありましょう」
 伊周は一瞬、動きを止めた。行成は組み敷かれながらも伊周を見上げ。
「貴方とて同母の弟と争う未来など想像もしたくないはずだ」
「聞いた風な口を」
 伊周には僧都の君と言われる隆円の他にもすぐ下に弟がいた。権中納言、藤原隆家である。
「前関白が隆円殿を僧籍に入れたのは、兄弟で争うことを恐れたためではないのですか」
帝の妃がねとする娘は何人いようとも問題ない。されど息子の要職は限られる。兄弟が多ければ多いほどその争いは激化するのだ。
「……!」
 伊周は言葉を詰まらせた。
「人を疑う藤原は藤原同士争えばいい。人を陥れ、裏切り、権力の座に座れば良い。されど苦労の上に手に入れたその権力すら、決して磐石なものではない。帝の寵愛は永遠のものではなく、人は死に、万物は流転する。花山院を陥れて手に入れた前関白の栄華はたったの五年!」
「行成ッ!」
 伊周は行成の身体を返すと、腰を上げさせ、獣の姿勢で深く貫いた。
「あっ…、ああっ! あああっ!」 
 実方とも俊賢とも違う。伊周の抱き方はいつも自分勝手で激しかった。そう、まるで伊周自身のように。
 獣の姿勢で貫かれているそのために顔を見られないのが有難かった。
「……あぁ……ッ…うっ……あ……ああッ! 」
 美しいその顔には不釣合いな、長大なそれに突かれ、抜けるぎりぎりまで引かれると堪らない。名残り惜しげに内壁が締まり、抜かれることを拒む。
 内壁が締め付けを見せるその度に伊周が喉奥で笑う。
「良いだろう、行成」
 それから伊周は何も語らず、ただひたすらに肉の愉悦を貪った。無心で突き続ける伊周に行成は何故か名状しがたい不安を覚えた。これは以前見せた道長への焦りとは違う。一体何が――。
 再び身体を返され、向かい合う形で抱かれた。
 揺さぶられ、最奥までも貫かれ、感じすぎて浮かんだ涙を見られたくなく、行成は腕で目を覆った。獣じみた激しさで抽挿を繰り返し、ようやく伊周は達した。
 身体の最奥に熱い飛沫を受けたと同時、行成も先端から白濁を迸らせた……。





 二人で宿直所の庭に積もる雪を眺めていた。
 情事の余韻に浸るつもりはさらさらなかった。疲弊しきり、動くことが出来なかったのだ。共に。
「行成」
 唐突に伊周が言った。
「お前は私が好きだろう」
「貴方という方は本当に――」
 行成は笑うことしか出来なかった。
「呆れ果てるような方だ」
 答えず、違うことを口にした。
「この雪は正月まで持つでしょうか」
「さあな。だが、いつまでも溶けず」
 伊周は大儀そうに身を起こした。
「無様に汚れた姿を晒すよりも、綺麗さっぱり溶けてしまった方が良いではないか」
 行成は唇を噛んだ。
「何だ?」
「私なら」
 行成は静かに言った。
「醜く汚くなったとしても、いつまでも庭に残り続ける方を選びます」
 何故か――。
 父のことを話したくなった。
 醜くなってまで生き続けることを良しとせず、自死を選んだ父。憎くて、恋しいあの男のことを。
 伊周はそれきりその話には興味を失ったようで、何か別のことを考えている様子だった。
 行成は何も言わず、ただ静かにその横顔を見つめていた。







 
つづく
Novel