下弦の月 12





 年末に降った大雪は跡形もなく溶けて、新年を迎えた。今年こそ良い年になって欲しい、皆そう願っていた。
 行成は正月の宮中行事に忙殺されていた。元旦の四方拝から月半ばの県召除目に至るまで、眠る間もないほどの忙しさだった。
 蔵人頭という職は激務だが華やかである。宮中行事の中心となり采配を振るう。
 実権のない名ばかりの備後権介として末席から宮中行事を見ていた昨年とは天と地ほどの開きがあった。翌年、行成が蔵人頭となっていることを一体誰が予期しただろうか。
「定子殿が?」
 その噂を行成にもたらしたのは、同じ蔵人頭である藤原斉信だった。
 前太政大臣、藤原為光の次男。父の従兄弟、すなわち道長の従兄弟でもある斉信は蔵人頭と近衛中将を兼任するため、頭中将と呼ばれていた。かねてから少納言と仲が良く、行成の前で二人がじゃれ合うこともしばしばあった。 
 少納言は男の趣味が良いと道長が言っていた。
 かもしれぬ、と行成は思っていた。かつて少納言と噂のあった実方と斉信には、同じ藤原氏出身の中将であるばかりでなく、重なる部分が多々あったからだ。
 藤原斉信は声をひそめて言った。
「ご懐妊ではないかと」
 有能で華やか。端正な顔立ちの斉信は少納言だけではなく、後宮の女房たちから広く人気を勝ち得ていた。恐らくそこから得た情報に違いなかった。
 それこそが行成が待ち望んでいた筋書きだった。帝の定子への愛情は揺るぎないが、それを磐石のものにするには皇子あってこそ。定子が皇子を産みさえすれば――、少なくとも伊周の焦燥ゆえの振る舞いは収まることだろう。
「まだ確証はないのだ。だが、懐妊に繋がるどんな兆候も見逃すなと言われたのでな」
 誰に、と問うまでもなかった。斉信は道長と同時期に左近衛少将を務めたことがあり、道長とは親しい関係にあった。
 故道隆にさしたる恩義を持たぬ斉信が道長に味方するのは当然のなりゆきだろう。
 それ故に斉信は複雑な表情を浮かべていた。
「慶事であろう」
「これが一年前なら手放しで喜べた」
 斉信の率直な物言いに好感を抱いた。
 だからこそ尋ねかける気になったのかもしれなかった。
「鷹司殿のことなのだが」
 鷹司殿、道長の妻ではなく建物のことを指していた。かつて道長の妻はこの鷹司殿に住んでおり、鷹司殿と呼ばれるようになった。その後は斉信の父、藤原為光の邸となり、為光亡き後はその妻と娘たちが住んでいたのだ。
 そしてその鷹司殿の三の君には伊周が通っていると噂になっていた。
「ああ」
 斉信はすぐに合点がいったような顔つきになり。
「花山院のことであろう」
 驚く行成の表情を読んだのか。
「何だ、もう噂になっているのかと驚いたぞ。今、我が異母妹の四の君の元に通っておられるのだ」
「四の君? 確か三の君の元には」
 斉信はにやりと唇を歪めた。
「そう、内の大臣が通っておるな。我が異母妹たちは人気が高いようだ」
 伊周の最近の動向を知りたくて口にした言葉であったが、そこに花山院の名が出てくるとは夢にも思わなかった。鷹司殿、斉信の異母妹たち……。
「未だ忘れられないのであろうか」
「我が妹のことか? そう、未だ面影を求めているのやもしれぬな」
 斉信の言葉には同じ痛みに満ちていた。
 花山院の最愛の女御は斉信の同母妹であった。斉信はかつて伊周と同じ立場にあった。帝の最愛の女御の兄。斉信の妹は帝の寵愛めでたく懐妊したが、悪阻が重く、看病の甲斐なく衰弱死した。その最愛の女御の死に悲嘆にくれる帝の傷心につけこみ、道兼一派が出家をそそのかしたのである。
「あれが無事に子を産んでさえいれば、な」
 もし斉信の妹が無事に子を産んでいれば――。
 花山院は未だ帝であり続け、行成の叔父はその外戚。斉信の父、藤原為光は未来の帝の父となっていたことだろう。思いは斉信も行成も同じだった。
「ところで鷹司殿がどうしたのだ」
 行成は何気なく答えた。
「いや、ただ内の大臣が花山院の動向を気にしておられたのでな」
「内の大臣が? 何故であろな」
 斉信はけげんそうに言った。
 三の君の元には伊周が、四の君の元には花山院。
 伊周は何と言っていただろうか。 
――母娘に手を付ける男なら、平気で姉妹とも関係を持つことだろうな。
 あれは斉信の同母妹と四の君のことではないだろう。伊周が気にしていたのは――……。
 行成が気付くと同時、斉信もまたそのことに気付いたらしかった。
「成る程。そうか、内の大臣が……」
 行成はとりかえしのつかないことを口にしてしまったような気がしてならなかった。





 その晩、道長の土御門邸に呼ばれた。
 昼間うっかりと斉信に告げたことについて言及されるのだろうと思っていた。孫庇に通された行成は、道長に何と答えよう何と切り抜けようとあれこれと思いを巡らせていた。
 邸内の様子がおかしいことに早々に気が付いた。
 急用だと行成を呼びつけたはずの道長はいつまで経っても現れず、女房たちが入れ代わり立ち代わり現われては、行成に酒を勧める。
 断れたのも最初の一、二杯だけ。しきりに主人の遅れを詫びる女房たちに押し切られる形で行成は杯に口を付けた。
やがて夜も更け、女房たちは一人下がり、二人下がり、気付くと行成は一人きりになっていた。
 酒と正月行事の疲れから、いつしか行成は脇息に寄りかかり、眠り込んでしまっていた。
 覚えのある白檀の香りに行成は目を開けた。
 簀子縁に釣った釣灯籠の下、仄かな笑みが浮かべて道長が立っていた。
「右の大臣……」
「待たせたようだな」
 平伏する行成を手を振って止め、道長はするりと部屋の中に入って来た。
「しなければならぬことがあって遅くなった。だが、すべて片付いた」
 円座に腰を下ろすなり、道長は言った。
「二条に投げ文をしたのだ」
 行成は愕然とした。
 道長の言う二条とは、伊周の住む二条殿のことである。
 そして投げ文は貴族が密告のためによく使う手段。
「今宵、花山院は鷹司殿を訪れる。訪ねる先は果たして四の君の元か、と」
 そう、伊周が危惧していたのは恐らくこのことだった。
 三の君の元には伊周が、四の君の元には花山院。
 花山院は亡き女御の面影を求めて四の君の元に通い始めた。なれば、と伊周は思ったのだろう。母娘に手を付ける男なら、平気で姉妹にも手を付けるかもしれないと。
 ひそかに抱いていた疑惑の焔。そこに油を注げばどうなることか。
 行成はだしぬけに立ち上がった。
「もう遅い、蔵人頭」
 道長は鋭く。
「そのために今まで貴公を引き止めていたのだからな。――斉信は次の叙目で参議に上がろう。宰相中将だ」
 道長の言葉の意味は明白だった。斉信はもう手柄を上げたのだ。
 顔面蒼白となり震いつく行成に、道長は笑ってこう告げた。
「貴重な情報に感謝するぞ、蔵人頭」








つづく
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