下弦の月 13





 その噂は一夜のうちに京の都を駆け巡った。
 伊周とその同母弟の隆家が花山院に矢を射掛けたのである。それだけに留まらず、花山院の童子――牛飼い童と同様、童と名が付いていても立派な成人である――が二人、乱闘の挙句に殺されたという。
 退位したといえども、元の帝に対し、何たる不敬だろう。
 花山院はあまりの不面目に自邸に閉じこもり何も語ろうとはしなかったが、行成や斉信、道長等のごく一部の人間だけが知るある理由により、噂だけが先行した。
 一時の衝撃が収まったその後は伊周にどのような処罰が下されるかに関心が集まった。
 大宰権帥。かの菅原道真、源高明と同じく大宰府に配流されるのではないかという意見が主流となっていたが、伊周への処分はなかなか下されなかった。
 すべてが中途半端なまま、宮廷にはひたすら重苦しい空気が漂っていた。
「もし」
 登花殿の西側の庇の間、女房たちの詰める細殿の前の道を歩む行成に声を掛けてきたのは、少納言であった。
 少納言は立蔀の塀の向こうの簾の中にいた。
「わたくしは宮廷を下がります。ご不便をお掛け致しますが、何卒ご容赦を」
 行成は中宮定子への取次ぎはすべて少納言を通じて行っていた。それを思っての言葉であろう。行成は立蔀に近付いていき。
「里へ帰られるのですが」
「申し訳ございませんが、居所をお教えすることはできませんわ。何と噂されることか」
「苦しい立場であられるのですね、あなたも」
 少納言が道長の間者ではないかと噂する女房たちがいると聞いていた。狭い局にひしめきあって過ごす女房たち。その中で敵視されることは、さだめしいたたまれないに違いない。
「私は頭中将と親しい間柄でございました。そして右大臣は一角の人物であるとわたくしがかねてから吹聴していたことは貴方様もご存知でございましょう」
「だが、それは」
 それが道長が今の立場になってからの言葉なら追従とも取られるだろう。だが、そうではない。少納言は道長が出世の目処も立たぬ藤原兼家の四男だった時から、そう評価していたのだ。
 少納言の目はいつも真っ直ぐに物事を捉える。世の毀誉褒貶を顧みず。
 行成の次の言葉を待たず、少納言は言った。
「右の大臣の間者かも知れぬ者がお側に仕えていてはご迷惑がかかりましょう」
 誰が、と聞くまでなかった。少納言の主、中宮定子にとって、である。
「決して他言は致しません。せめて、せめて文なれど」
 簾の向こう、少納言が首を振る気配がした。仕方の無いことだろう。誰しも敵となる可能性がある宮中。親しさだけを信用の物差しに使っていては、伏魔殿である宮中を渡って行くことは出来ない。
 自分もかつてはそのことをよく知ってた筈だった。なのに――。
 つい口を滑らせてしまった、斉信に。
 行成は拳をひそかに握り締め。
「お戻りをお待ちしましょう。いつまでも」
 少納言は微かに笑ったようだった。





「少納言とてその真意はわからぬ。旗色の悪い中宮定子の陣営から離れ、主上の内侍として再出仕を目論んでいるのやもしれぬ」
 行成から話を聞いた源俊賢は冷たく言った。
 少納言に限って、という言葉が喉元まで出かかったが、それを口にする事は出来なかった。何があっても不思議はない。誰も信じてはいけない。それが宮廷なのだ。
「主上は何と言っておられる」
「検非違使別当の藤原実資殿に調査をお命じに」
 行成が口振りも重く答えると、俊賢は言った。
「そなたが気に病むことはない」
 反射的に顔を上げた行成に向かい、俊賢は。
「院に矢を射掛けるなどあり得ざる不敬。前関白の恩義に背いたなどと気に病むことはない。大宰府に配流されても当然の行為だ」
「だが松君は」
「我が父、源高明が流された時、私は十一歳だった。松君は数えで四歳、何もわからぬ年頃なのが幸いだ」
 注進に及んだのは斉信だったが、行成はどうしても道長に利用されたという気がしてならなかった。
 自分でも意識せぬままに気が緩んでいたのだろう。数々の甘言。写しを所望された往生要集。否、そもそも往生要集を貸与された時点から、気付かずうちに道長の術中に嵌っていたのだろう。――こちらの陣営に来ないかという。
「内の大臣は甘いのだ。右の大臣が虎視眈々と引きずり下ろす機会を狙っているこの今、女子の元に通い、嫉妬心から矢を射掛けるなど。あろうことかその相手は花山院だ」
 俊賢の口吻は常のものとは違っていた。
 この事件が最後通牒となったのだろう。源俊賢はついに伊周を、前関白を見限ったのだ。前関白派であった俊賢とてこの有様なのだから、他の貴族たちの動向は想像に難くない。
「大宰府とて地獄ではない。内の大臣とて、一、二年で復位となろう。決して主流には返り咲けぬことだろうが」
 自身、父の高明に付いて大宰府に赴いた俊賢の言葉には説得力があった。
 貴族社会に極刑はなく、あって配流か禁獄。花山院の退位により失脚した行成の叔父、藤原義懐が絶望から出家したように、高みから転落することは、或いは死より辛いことかもしれないが、死罪となることは決してないのだ。
 行成は浅く息を吐いて。
「問題は中宮定子殿の還御だ。公卿たちは悉く障りを申している」」
 中宮定子の懐妊はもはや明らかとなっていた。出産は穢れのため、宮中より退出しなければならない。その退出先が伊周邸となるため、貴族たちは頭を悩めているようだった。道長に目を付けられたくない。そんな思いから貴族たちは障りを申し出、定子に随行することを拒んだ。
「もはや思い悩む必要はない、行成。――私が随行しよう」
 俊賢はきっぱりと言った。
「私は二世源氏だ。藤原とは違う。そして中宮定子に罪はない」
 何と思い切った判断だろう。行成は今更ながらに親友を好もしく思った。
「だが、還御に使うのは檳榔毛御車でなくて、糸毛御車が良かろうな」
 俊賢は前蔵人頭らしく、牛車の種類にまで言及した。檳榔毛ではなく糸毛。牛車の格を落とし、自粛の意を示そうということだろう。
「もし」
 行成はためらいがちに問いかけた。
「もし産まれる御子が男皇子であらせられたら」
 伊周はどうなるのだろうか。或いは主流に戻れるのか。
「もはや流れは変わったのだ。たとえ皇子であったとしても、右の大臣はありとあらゆる手段を用いて、その皇子の後見人を潰そうとすることだろう」
 行成は唇を噛んだ。
 では、自分こそが伊周を追い詰めたのか。
 万人垂涎の蔵人頭。華やかな定子後宮。道長の甘言。斉信の率直さ。そのすべてが自分の目を眩ませたのだろう。たった一言が命取りとなる宮廷。その恐ろしさを忘れてしまっていた。
 だが、亡き関白への恩を別とすれば、行成には伊周を庇う義理も、失言に責任を感じる必要も無いはずだった。ましてや二度も狼藉を受けた身。
「行成、そなた……」
 俊賢が驚いたように顔を上げるのが見えた。
「泣いているのか」
 行成は堪らず顔を伏せた。








つづく
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