下弦の月 15





 二条北宮は異様な雰囲気に包まれていた。検非違使だけでなく、物見高い野次馬たちが邸の周囲を取り囲んでいたのである。
 行成は一旦自邸に戻り、夜更けを待った。そして目立たぬよう、小さな網代車で二条宮に向かった。
 すげなく面会を断られることを危惧していた。が、主上の勅命は何にも増して優先されるものである。
 行成は寝殿に通され、長い間待たされた。
 そして伊周が現れた。
――痩せたな、というのが最初に抱いた印象だった。
 水際立った美貌は変わりなかったが、表情は冴えなかった。しかし伊周は不敵に笑うと。
「主上の命だと?」
 円座に腰を下ろすなり、脇息に寄り掛かった。
「大赦を下さるというのか」
「主上は貴方様が内裏へ参内なされることを希望しておられます」
 伊周は馬鹿にしたように鼻を鳴らし。
「我は病気なのだ。参内できぬ」
「お恐れながら、病に伏されているようには到底見えませぬ」
「相変わらずの生真面目ぶりだな」
「率直に申し上げます。このまま二条北宮に篭っておられても事態は好転致しませぬ。やがては痺れを切らした検非違使たちが動き出しましょう。検非違使たちが土足で踏み込むようなこととなれば、主上の御子を宿す中宮にとって、それは耐え難い屈辱となりましょう」
「出来るものか。主上は我が妹を愛しておられる」
「なればこそ、主上の苦しい御心の内も理解出来ましょう」
 行成はさながら宣するように言った。
「貴方様の罪は大逆罪でございます」 
 帝とは万能の神ではない。有力貴族たちの意のままに動かされる駒だ。それは退位させられた先帝、花山院のことで既に証明済だ。寵后の兄であることを理由に大逆の罪を見逃していれば、やがては自分の地位を危うくすることになる。
「今、参内なされば、大宰権帥とはいえ大宰府流しにはなりますまい。播磨辺りに留め置かれることになりましょう。その上で改悛の意を示せば、そう遠くない未来、復位も叶いましょう。今は耐えて時を……」
「そなたに何がわかる!」
 伊周は吼えた。
「これまで私をちやほやと崇め奉っていた公卿たちが、父の死と共に掌を返したように道長に付いた。女院は甥ではなく弟の道長に味方し、ささいな不調を私が行った呪術のせいだと騒ぎ立てる」
 行成は瞳を伏せた。
 何を言う。
 幼くして父を亡くし、母も祖父もない、この世の孤児同様の私に。
 頼れるのは友と己の才覚、そして帝が自分に寄せる信頼だけというこの私に。
「何、父がおらずとも私がいる。私が我が妹の腹の御子の後見人となり、皇子の即位の暁には摂政関白ともなろう。その時に私への仕打ちを悔やんでも遅いのだ!」
 行成は黙って伊周の話に耳を傾けていた。伊周の長広舌が終わると静かに。
「仰りたいことはそれだけでございますか」
 伊周は絶句した。
「状況は状況、事実は事実にございます。どう言い訳をなさろうとも、貴方様と権中納言隆家様が花山院に矢を射掛け、二人の童子を殺めたという事実は変わりません。――なぜあのようなことを」
「そなたは恋をしたことはないのか」
 今度は行成が言葉を失う番だった。
「そう、その相手以外何も見えなくなるような恋。他の者などどうなっても良い。帝すら敵に回しても構わないと思えるほどの恋を」
 行成は陸奥にいる実方を想った。
 わからない
 それが恋故のものならば、何もかも許されるのだろうか。伊周の、前帝に矢を射掛けるというあり得るべからず不敬も。花山院の、母娘に、姉妹に手を付けるという犯すべからざる不道徳も。
 それは、想えば想うほど、殻に閉じ篭っていく自分とはまるで真逆の愛し方だった。
 行成の沈黙を否定と取ったのだろう、伊周は。
「朴念仁のそなたには私の気持ちなど一生わからぬままかもしれぬな」
 そしてきっぱりと言った。
「私は後悔しておらぬ」
 こんな風に人を愛せたらどんなに良いだろう。
 自分にこの自信が、この潔さがあれば、恐らく実方とあのような別れ方をしなくても済んだはずだった。
 友情を繋ぎ止めるために身体を投げ出し、それ故にもっと深く親友を傷つけてしまうようなことも。
 かつて実方との関係に誰よりも早く気付いた敏い友。行成自身気付かぬまま、心の底にわだかまっていたこの想いにも又、気付いたのだろう。
 行成は千々に乱れる思いを振り払うように平伏すると。
「伏してお願い申し上げます。内裏に参内なされ、罪をお認めに……」
「道長の犬が何を言う!」
 行成は瞳を見開いた。
 私が惹かれる男は、いつも美しく勝手な者ばかりだ。
 余韻だけを残して去る。
 また見送ることになるのだろうか。
 何も、出来ぬまま。
 何も、言えぬまま。
 行成は拳を強く握り締めると、顔を上げた。
――いや。
 行成が覚悟を決めて唇を開いた。その時。
 渡殿を大勢の人が渡ってくる気配がした。
 誰がやって来るのかはすぐにわかった。几帳が目に入ったからである。
 女房たちは主人の姿が見られぬよう、歩みに沿って几帳をずらしていく。人目に触れぬための用心だろう。伊周に妹は多いが、この邸でこうまでして人目を憚らなくてはならないほど高貴な身分の者は限られる。すなわち中宮定子だ。
 行成は伏して定子を迎えた。
 定子が御簾の中に入ると、女房は伊周に言った。
「若殿、どうか蔵人頭とお二人だけに」
「しかし」
 伊周が逡巡していると、御簾の内より声がした。
「兄上」
 その声音には有無を言わせぬ響きがあった。伊周は渋々ながらに立ち上がり。
「何かあればすぐに私を呼ぶように」
 伊周が去った後、最初に口火を切ったのは定子であった。
「主上の勅命で参られたと聞きしましたが」
「主上は内の大臣が内裏へ参内なされることを希望しておられます」
 行成は再三用件を繰り返した。長い沈下の後、定子は静かに。
「兄上は誇り高き方、そればかりは出来ますまい」
 まさか中宮さえもここに来て主上の大赦の可能性を探っているのだろうか。
 前関白、藤原道隆は豪放な美男子であった。自分に足りぬ物は何かと考え、妻を娶ったという。すなわち教養。
 高内侍と呼ばれた高階貴子は円融帝の内侍だったが、その身分はしかし受領階級。宇多天皇の血を引く源倫子、醍醐天皇の血を引く源明子をそれぞれ娶った道長とは対照的だ。そのため、伊周の外祖父はさしたる力を持たず、父亡き後こうして道長に追い込まれることとなった。
 しかし高内侍の教養と美貌は伊周、定子の兄妹に受け継がれたに違いなかった。伊周の漢詩の才は第一級とされていたし、定子は――直接見たことはないものの、女房たちの弁によれば――比類なき美貌の持ち主で、その話はいつも深い教養を窺わせた。
 その定子が自分の兄が陥っている窮地に気付かぬ筈がない。
 行成の考えを裏付けるように定子は言った。
「破滅の足音が聞こえていても、なお頭を垂れることが出来ぬのでしょう。或いは高階の血がそうさせるのやもしれません」
 伊周、定子の母、高階貴子の気位の高さは有名だったが、それにも増して高階は特殊な一族だった。
 高階一族は在原業平と伊勢斎宮との不義の子の子孫であると言われていた。伊勢神宮に憚りのある家系とされ、参拝を避けていた。そのため前関白存命時はともかく、定子の血筋をとやかく言う向きすらあったのだ。
「わたくしには兄を説得すること叶いませぬ。いえ、わたくしが説き伏せようとしても、我が母が決して許さぬことでしょう」
 御簾と几帳越しであったが、定子が平伏する気配があった。
「蔵人頭。わたくしに代わり、どうか主上を宜しくお願い申し上げます」 
 数え十四で入内し、五年もの間女御であった定子にとって、帝はもはや家族同然となっていたのであろう。まるで弟を頼む姉のような口調で。
「主上のお心に添えぬこと心苦しく思います。されど」
 定子は言った。
「いざとなれば、わたくしはわたくしの身を呈し、わたくしの家族を守るつもりでおります」
 揺るぎのないその語調に行成は定子の覚悟を悟った。 



 行成が二条北宮を辞そうとした時、再び伊周が現れた。
「門まで送り申そう」
 既に夜明けが近く、邸の住人は全て寝静まっていた。
 渡殿を歩みながら伊周は言った。
「昔、少納言とこんな風に内裏を歩いたことがあった」
 伊周は朗々と吟じた。
「遊子なほ残りの月に行く」
 遊子猶行残月、函谷鶏鳴。
 函谷関に鶏の声が夜明けを告げた後も、孟嘗君は残月の光に歩き続ける。
 それは和漢朗詠集の一節。漢詩の才に長けた伊周らしい引用だった。
「少納言は女にしておくには惜しき人物よ。直ぐにどこからの引用か悟った。まさしく内侍にこそ相応しい」
 伊周はそう言うと意味深に口を噤んだ。行成は淡々と。
「少納言はそれほど器用な性質ではないでしょう」
「この世は器用な者にこそ有利であるがな」
 行成は渡殿から夜明けの空を振り仰いだ。そこにあるのは新月まで欠けていくばかりの下弦の月。それはまるで伊周の今後を示唆しているようだった。
 ふいにあの日のことが思い出された。
 内裏に積もった雪を見て、無様に汚れた姿を晒すよりも、綺麗さっぱり溶けてしまった方が良いではないかと言った伊周。
 参内しおめおめと捕縛されるよりも、邸に篭り主上の大赦を待つ道を選んだのだろう。
 沓を履き、前庭を歩み、やがては門に辿り着いた。
 行成は言葉に詰まり、伊周を、その冴え冴えとした美貌を見た。
 この男は哀しいまでに稚いのだ。
 自分の父もそうだったのかもしれない。
 見目麗しく、信心深く、歌の才能に優れた、世にも素晴らしい男だったと人は言う。
 されど稚い部分を持っていたのかもしれない。誇った美貌を失っては生きていけないほど弱く、脆い人間だったのだろう。
 そして自分はそんな父に、そんな父に似た男にいつも惹かれて止まぬ。
 伊周は気安く別れの言葉を口にした。
「それでは、ご機嫌よう」
 行成は後ろ髪を引かれる思いで、こう返した。
「――息災であられますように」



 今この場に雷が落ちて死ねればどんなに良いだろう、行成は思った。





つづく
Novel