下弦の月 7 |
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昇りつめ、半ば気を失うように眠りに就いた。 ふと目覚めると、帳台の帳が上げられていた。空にぼんやりとかかるのは、夜明けに上がる半月。下弦の月――。 「このまま朝が来なければ良い」 いつから起きていたのだろうか。 目覚めたことに気付いたのか、行成を抱き寄せ、俊賢は言った。 「初めて妻問いをした時以来だ。こんな思いは」 旧暦九月の夜明けは寒く、行成は俊賢の温かい胸に抱かれたままでいた。帳台の奥には畳まれた互いの衣。辺りに散らばった陸奥紙の懐紙が昨夜の出来事を如実に物語っていた。 悔いはなかった。どうしても失いたくなかった友情だった。 俊賢はゆっくりと起き上がると、行成を膝の上に乗せ、口を吸った。 「ん……っ……」 内臓までかき乱すかのような深い口付けは行成の息を乱した。 長い銀糸を引いて唇を離すと、俊賢は行成を背中から抱き締めた。夜は静かに明け、朝靄が庭に立ち込める。 「藤中将が」 俊賢はためらいがちに口を開いた。 「藤原実方が主上に陸奥行きを奏上させる(申し上げる)そうだな」 それこそが行成の今一番の気がかりであった。既に陸奥守となっていた実方。されど養父が突然亡くなったため、喪が明けるのを待っての赴任となり、今日まで奏上が遅れたのである。 以前にも思ったことだった、この年上の友は何と鋭いのだろう。 今ならわかる。 その鋭さは自分に向ける愛情ゆえのものだった。 これほどまでに明白な事実を、どうして今まで気付かずにいられたのか。 行成が答えられずにいると、まるでその心中を代弁するかのように南庭の池の魚が跳ねた。 行成は単衣を身に着けると端近に立った。水面にも、そして行成の心にもさざなみが大きく広がっていく。 「会うのか」 「私は蔵人頭だ。会わぬ筈がない」 強い視線を背中に感じた。行成はその場にいたたまれなくなり、意味のない言葉を連ねた。 「前任の蔵人頭である貴殿ならご存知であろう」 「そういう意味ではない」 周囲はほのぼのと明るくなり、それと共に人声もしてきた。二人の関係を露ほどにも疑わぬ女房たちは、朝になれば現れるだろう。 俊賢は嘆息し、背後で衣を身に着け始めた。そして恐らくは何気なさを装い、言った。 「終わったのか、本当に」 行成は静かに。 「少なくともあちらはそう思っていよう」 俊賢は身支度を整えると行成の隣に立った。 「参ったな。まるで私は嫉妬深い北の方のようだ」 俊賢は身を屈めると、行成の頬を掌で包み込み、顔の輪郭に沿って指を逸らせた。まるで目だけではなく、指でもその顔を覚えておこうとするかのように。 「朝露が消えぬ前に文を送ろう」 男が女の元に通った場合、歌を送るのが世の習いだった。歌が届くのは早ければ早いほど愛情が深いとされていた。 ――後朝の歌を送るつもりなのだろうか。 行成は苦笑し、しかし次の瞬間、苦い顔つきになった。一瞬とはいえ親友の熱情を笑った自分を恥じたのだ。 「誰ぞ、誰ぞあるか」 行成は様々な思いを振り払うように声を張り上げた。 「源宰相殿がお帰りになられる。誰ぞ案内を!」 女房たちが渡殿を渡ってくる気配がした。 俊賢からの後朝の歌はすぐに届けられた。 行成は藤原義孝という高名な歌人の息子でありながら和歌を苦手としていた。俊賢もそのことを良く知っており、返歌がないことを詰るようなことはしなかった。 歌に続いて文も届き、男女の結婚の条件である三日通いはおろか、婚姻成立の証である三日夜の餅すら食べそうな勢いだったが、行成は事実である多忙を理由に断った。俊賢も納言に次ぐ参議、宰相の要職にある男。もとより暇な訳がなく、次を約して文は止まった。 そしてほどなくその日がやって来た。 会わす顔とてない相手とも顔を会わなくてはならないのが宮中である。没落したと言えども、かつては藤原氏の嫡流筋にいた行成はそのことをよく知っていた。 だが、平静を装い、殿上の間で実方と顔を会わせたその時ばかりは、行成も己の立場を呪わずにはいられなかった。 顔を上げると、そこに実方がいた。 今業平と呼ばれたその男。 服喪のため、黒の重服(葬儀用の黒の衣冠)を身に着けた実方は、息を飲むほど美しかった。 その瞳に怒りの色を見て取った行成は、何故か安堵した。 勝手な物言いであることは百も承知だった。だが、愛の反対は無関心。無関心でいられるよりも、むしろ憎まれた方がいい。行成はそう思っていた。 宮中行事であるため、二人きりでないことだけが唯一の救いだった。蔵人頭として実方と迎え、内蔵寮が用意した酒と精進物を勧め、主上の召しを待つ。 やがて帝がおます昼の御座に主上が現れ、蔵人の一人が実方を召しに来た。 実方は優美な動きで袴の裾を蹴捌き、立ち上がった。 陸奥に行ってしまえば、暫く姿を見ることは叶わなくなるだろう。行成は瞬き一つせず、その優美な後ろ姿を目に焼き付けようとしていた。 蔵人に促され、実方が昼の御座に続く上の戸をくぐろうとした、その時。 実方はぴたり、と足を止めた。 「蔵人頭」 「は……」 いつまで経っても声は掛らなかった。 周囲を憚る実方の様子を見て取った行成は膝行し、実方の後ろにはべった。 実方は振り返らず、聞こえるか聞こえなきかの小さな声で。 「息災で」 行成は瞳を見開き、言葉もなくひれ伏した。 そして思った。 ――この男を愛してよかった、と。 |
つづく |
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