下弦の月 8





 伊周と道長は明らかにある意図を持って自分に近付き、親友の俊賢は執心するという異常な事態にあって、けれど行成は蔵人頭の職に邁進していた。
 万人垂涎の蔵人頭。しかも実方を陸奥に追いやっての抜擢人事とのことで、行成の足を引こうとする者は多かった。俊賢の推挙の手前、無様な姿を見せる訳には行かなかった。
 蔵人頭は帝と公卿の間を取り持つ秘書役。内大臣の伊周も右大臣の道長とも毎日と言っても良いほど顔を合わせたが、あくまでもそれは公的な場において。
 そして俊賢も蔵人頭の職に邁進したいという行成の意を汲み、行成の邸を訪れることを控えていた。
 そんな事情から、職務は別として、行成は比較的穏やかな日々を送っていた。





 暦は旧暦十月。冬となった。
 前関白道隆が娘定子のために選りすぐって集めた女房たちは、見目麗しく知的で、中宮定子の住まう登花殿はいつも華やかだった。知性はともかく、御簾を垂らし、几帳を立てて対峙する後宮の女房たちの容姿を確認する術はなく、あくまでも伝聞であったが――。
 新しい蔵人頭という存在は彼女たちの好奇心をいたく刺激すると見え、ひとたび行成が参内すれば、御簾越しに姿を見ようと鈴なりとなった。
 顔が見られぬため、後宮の女房たちの識別はその声と話しぶりでする他はなかった。
「蔵人頭が驚いておいででございますわ」
 そう言ったのは、俊賢の妻である中納言の君だった。女房の名はすなわち身分を表わす。中納言の君とは、父兄もしくは近い親族に中納言職の者がいたことを意味するのだ。
「実方の中将は無事に旅立たれまして?」
 そして、この声の主は少納言だろう。かつて実方と噂のあった女房だ。
「主上より支子染めの衾と下襲一揃いを賜り、また正四位下に叙されました。しかし服喪であられたので、拝舞は行わず」
 左遷という印象を取り繕うとしたためか、帝は実方に通例どおり餞別を送った。行成は奏上が通例どおり行われたことを話す機会を得て安堵した。
 御簾の中で何事か囁きあう気配がし、くすくす笑いと共に可憐な声が上がった。
「あなたは実方の中将と親しかったものね、少納言」
 中宮定子であった。
「覚えているわ。――うは氷あはにむすべるひもならば、かざす日がけにゆるぶばかりを」
 何だろうか、紐?
「ねえ、小兵衛」
 定子が呼びかけた女房の名から行成の頭に閃くものがあった。
「五節の舞……」
 行成の言葉を受け、女房たちは弾かれたように笑った。
 そうだ、聞いたことがある。
 五節の舞の折り、小兵衛の肩から結び下げた赤紐が解け、それを実方が結び直したと。
「実方の中将は、誰の思いでこの紐が解けたのかと小兵衛を口説いたのですわ」
 中納言の君が口添える。
「上がってしまって答えられない小兵衛の代わりに、少納言がこの歌を」
 実方は解けた赤紐と袴の紐をかけて口説いたのだろう。自分の熱情で紐が解けたのではないかと。
 何と、あの男らしい。
 そして少納言の返歌の意味はこう。
 ざっと結んだ紐は薄氷の如く、貴方の眩しい日の光で溶けてしまった。
 日かげには日の光と同時に日陰の意味もある。五節の舞には小忌の公達という役員が付きもので、実方はその小忌の公達であった。そして小忌の公達はひかげのかずらという植物を頭に付けるのだ。
 そう、この歌には掛け言葉が隠されている。
 とっさにこの歌を読む少納言の何と才気走ったことか。
 そして同時に思った。少納言は奏上が通例どおり行われたことを既に知っていたのではないか。それを知っていたが故に、行成が皆に話す機会をあえて作ったのではないか。恐らくは古馴染みの実方の名誉を守るために。
「素晴らしい……」
 感に堪えかねたように呟く行成を見て、少納言は御簾の向こうで笑ったようだった。
 そこに内大臣の訪れが知らされた。
 内大臣伊周は中宮定子にとって実の兄である。女房たちもよく見知った仲であり、浮き足立った雰囲気が流れる。行成は襟を正した。
「これは蔵人頭」
「内の大臣」
 行成は平伏して伊周を迎えた。内心でどう思っていようとも、宮廷は宮中位階がすべて。礼を失することは出来なかった。
 伊周は茵(しとね)に腰を下ろすなり。
「昨日内裏に落ちた雷はどうした。主上はさぞかし震え上がっておいでのことだろう」
 早良親王の怨霊から桓武天皇を守るために造られた平安京。変事にはすべからく意味がある。内裏に雷が落ちれば凶相とされ、陰陽寮の指示を仰ぐのが常だった。
「天文道の晴明殿に占わせるよう、右府(道長)にお命じになられましたが、右府は病床にあるため、右大将が代わってその任を受けられました」
 噛んで含めるように行成が答えると、伊周は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「病気だから他の者に頼め、と言うのか。主上に向かい、何たる傲慢よ」
 伊周が道長の悪口を言うことには慣れているのか、女房たちは平然としていた。定子がたしなめるように。
「あまり右大臣の悪口を言うものではありませんわ。ここにいる少納言は昔から右大臣を贔屓しておりますのに」
「少納言がいくら肩入れしようとも、好かぬものは好かぬ」
 御簾の向こうで定子が肩を竦める気配がした。
 話題はいつの間にか道長から兄妹の会話へと移っていき、行成は小声で尋ねた。
「もし、少納言殿」
「何でございましょうか」
 檜扇で顔を隠しながら、少納言は御簾近くにいざり寄った。 
「右大臣をどう思われますか」
 行成は宮廷きっての才媛の目から見た道長像というものを知りたかったのだ。
「わたくしはあの方が今のような出世を果たす前から、一角の人物だと思っておりましたわ」
 少納言はきっぱりと言った。伊周の妹定子の局で、何という毅然さだろう。
「問われるばかりはずるいですわ。蔵人頭はあの方をどう思っておられるのですか?」
「右大臣殿は……」
 行成はゆっくりと言った。
「人たらしだと思います」
 少納言は深々と頷いた。
「仰る通りですわ。あの方は人たらし。されど」
「されど?」
「人たらしは人でなしにもなれましょうね」
 少納言の言葉は行成の胸にいつまでも残った。





 伊周と行成は二人揃って登花殿を下がった。
「一郎がそなたを恋しがっていたぞ」
 二人きりになるなり、伊周はそう言って行成を挑発した。行成はそれを平然と受け流し。
「宮中に敵をお作りになるのは、得策ではないと思われますが」
「そなたが私の敵に回ると言うのか。宮中で冠を払われても怒らなかった男が何を言う」
 襟を掴み、行成を引き寄せる。
「あの夜は三人であんなにも楽しんだではないか」
 行成は嘆息した。
「あなた様がそう思われるのならそうなのでしょう」
 伊周の手を払い、その場を立ち去ろうとして思い留まった。逡巡は一瞬。気付くと唇が開き、行成は自分でも思いも寄らぬ言葉を口にしていた。
「どうか松君の将来をお考えあそばすよう」
 松君、それは伊周の幼い子供の名前であった。唐突に子供の名を出されたように感じたのだろう。伊周は気色ばんだ。
「そなたに言われるまでもない。やがて生まれ来る私の甥が未来の帝となり、松君を守ってくれようぞ」
 そう言い捨てると、伊周は袴の裾を蹴捌き、簀子の向こうに消えた。
 簀子に一人取り残された行成は思った。
 あの男とて父親なのだと。
 そう思えば、黙っていることが出来なくなった。
 まったく似ているところがないのにも関わらず、伊周と父、そして陸奥へと去った実方の姿が重なった。
――美しい男の何と勝手なことだろう。
 好き勝手に生き、残された者の心に波紋を残す。
 私は勝手な男をいつもこうして見送るばかり。
 ふと肌寒さを覚えた行成は顔を上げた。よく晴れた冬の空にちらちらと舞う白いもの。風花――。
 今年初めての雪を見上げながら、行成は祈った。どうかこれ以上敵を作ってくださるなと。 
 伊周のためではなく、松君のために祈った。
 頑是ない幼子が何の後ろ盾もないまま、世知辛い世間に一人、放り出されることがないように。
 行成が手のひらに受けた風花はあえなく溶けて、跡形もなく消えた。







 
つづく
Novel