月虹 1 |
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「…は……っ…」 だしぬけに弱い部分を探り当てられ、思わず腰が浮いてしまう。首筋に沿って生温かい舌が這わされ、背に回された手が背骨をゆっくりと撫で上げてくる。 行成は嗜めるように言った。 「左の大臣(おとど)」 懲りぬ男。 だが、このしぶとさと執念深さこそが、権力から遠く隔たった場所にいたこの男が宮廷の最高位、左大臣にまで登りつめた最大の理由であることを、行成は既に知っていた。 「俊賢とは終わったのだろう。身体が疼かぬか」 「何を……」 左大臣、藤原道長の指摘通り、俊賢との関係は終わっていた。それは誰も知らぬ間に始まり、誰にも知られないまま終わった関係のはずだった。どこで知った、或いはただの当てずっぽうか。 否定のために開かれた唇は、しかし道長の唇によって塞がれた。舌は素早く口内に滑り込み、行成の舌を絡め取った。二人の正妻、そして数多の愛人を持つ道長に唇を吸われると、頭の芯まで痺れるような感覚に襲われた。 「っ……」 混ざり合った唾液は溢れ、顎を伝って流れ落ちる。 息衝きのため、一度離れた道長の唇。その隙を付いて、行成は道長を押しのけた。 「変わった男だな、そなたは」 道長は皮肉まじりに言った。 「皆喜んで我の前に身を投げ出すというのに」 「女人であれば、でございましょう」 道長に背を向け、密かに服の袂で唇を拭う。 「女人だけとは限らぬぞ」 道長がいよいよ身を乗り出した、その時――。 ざわざわと渡殿に人が渡る気配があった。 「頭弁がお渡りと伺い、参上いたしました」 顔を出したのは、土御門邸の古参女房だった。 主上の代理たる蔵人頭の訪問は最大級に歓迎されるのが常だ。道長が宮廷の最高位に就き、帝と公卿の間の取り持ち役である蔵人頭の行成の土御門通いが連日となったとしても、古参女房はその慣習を崩す訳にはいかぬと頑なに思い込んでいるようであった。 女房は漆塗りの高坏を捧げ、膝行した。高坏には松の実、柏の実、干しなつめ、柘榴の四つが盛り合わされている。 道長は干しなつめを取ると、政治向きの顔に立ち返り。 「前例がないと言ったであろう。一度出家した者を再び中宮として迎え入れるとは」 「しかしながら主上の意思は固く、またお産まれあそばしました内親王とのご対面を強く望んでおられます」 行成の用向きは、髪を切り落とし出家した中宮の再入内についてであった。 先年十二月、中宮定子は内親王、女児を産み落とした。帝は内親王との対面を望んでいたが、未だ果たせていなかった。 そして中宮定子の出家の原因となった伊周と隆家は今年四月、恩赦により罪を許されていた。 これで障害は無くなったと考えた帝は定子の再入内を強く望んだが、公卿の強い反対にあっていた。中でも宮廷最高位の左大臣、藤原道長の反対は根強いものだった。 いかに左大臣といえども、権力を完全に掌握出来るのは、自分の娘を帝に差し出し世継ぎの皇子を産ませ、その皇子が帝となった時だけ。そして道長の娘、彰子は未だ幼かった。 定子が再入内し、万が一にも親王、男子が生まれることがあれば、その存在は道長を大いに脅かすことになるだろう。 「ふん」 道長は檜扇を閉ざし。 「戻すとしてどこに入れるつもりだ。弘徽殿女御も承香殿ももう埋まっている。再びの登花殿か、それとも梅壷か」 「職の御曹司ではいかがかと」 職の御曹司は中宮職の役所の建物のことである。宮城を包括する大内裏にあるが、内裏の外に当たり、母屋には鬼が出るとの悪い噂もあった。 それは俊賢の発案だった。中宮定子を疎んじての策ではない。一度出家した者を后として再び宮中に迎え入れるのは道長に指摘されるまでもなく、過去に前例がない。 けれど帝の意志は強固だった。 内裏に入れるのは差し障りがある。ならば――。 「公卿方から反対されることは、もとより覚悟の上にございます」 「職の御曹司とは考えたものよ。誰の入れ知恵か」 行成は答えなかった。 道長はさきほどとは打って変わった冷たい声で。 「中宮の件は考えておこう。出直されよ、頭弁」 飴と鞭の使い分けの何と上手い男だろうか。 行成は平伏し、土御門邸を後にした。 「何と言っている、左大臣は」 帝への奏上であれば、敬語は廃される。行成は事務的に道長の言葉を告げた。 「前例なきことにつき、熟考したい、とのことでございました」 「またそれか」 帝は傍目にも明らかに苛立っていた。 「いつになれば、私は内親王と対面が叶う」 道長は自分の娘が入内するまでの時間稼ぎをしたいのだ。しかしその思惑を伏せ、前例が無いの一言で、定子の再入内を妨げていた。道長がそう言えば、道長の顔色を伺う公卿たちは皆それに倣う。 「皆、左大臣、左大臣。まるで左大臣が帝になりかわったかのようだ」 行成は平伏しつつ瞳を細めた。 かつて帝と全く同じ事を言った男がいた。 今や皆、右大臣、右大臣。道長、道長だ、と。 それを口にした男、伊周は都を追われ、失脚した。そしてかつて右大臣だった道長は今や宮中最高位の左大臣の地位にある。もはや帝とて、道長を思い通りに動かすことは出来ない。 「中宮の復位はおろか、内親王との対面すら叶わぬとは」 「お気持ちはお察し申し上げます。されど……」 「言い訳はもう良い」 何度も聞いたその言い訳を再び耳にしたくなかったのだろう。言葉を途中で遮られ、行成は唇を噛んだ。 行成が異例の抜擢により蔵人頭となり二年。遠い存在であった帝と日々接し、帝は英邁であるとの評価を下していた。聡明なるが故に、自分が公卿達の傀儡であると思い知らされるのは屈辱だろう。 「頭弁、そなたは心正しき男だ」 行成はハッとして顔を上げた。 「そんなそなたを苦しませる私を許せ。だが、私はこの宮中にたった独りで居ることにもはや耐えられぬのだ」 弘徽殿女御は、承香殿女御は、という問いかけは無粋だろう。 前関白である藤原道隆の死、伊周・隆家の失脚を受け、それまで前関白の権勢を恐れて入内を控えていた女御たちが次々と宮中に入った。 弘徽殿女御と呼ばれる藤原義子は内大臣、藤原公季の娘であり、承香殿女御と呼ばれる藤原元子は右大臣、藤原顕光の娘である。そこには公卿を自分の味方につけようという道長の策謀が見え隠れしていた。 だが、後宮にどれほど女御が増えようとも、未だ帝の心を占めるのは、中宮定子、ただ一人なのだろう。 「私にはそなたしか頼れる者がおらぬ」 士は己を知る者の為に死す。 史記の言葉である。男子たる者、自分の真価を認めてくれる者のためには、命を投げ出してでも報いるという意味である。 それは行成が密かに心に刻んでいた格言であった。 長い間、日陰の身であった行成。そんな自分を最初に見出してくれたのは、親友である源俊賢だった。そして俊賢の引き立てにより、万人の垂涎の職である蔵人頭となった。行成は俊賢のためならば、命を投げ出しても構わないとさえ思っていた。 そして今、天上人とばかり思っていた帝が自分の価値を認めてくれたのだ。心正しき男、何と勿体ない言葉だろうか。 「頼む、頭弁」 行成は平伏した。 「今一度、左大臣にかけあって参りましょう」 |
つづく |
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