月虹 3






 源俊賢は尋ねた。
「天文道は何と言ってきた」 
「安倍晴明と賀茂光栄に堪申させた。二十二日甲寅、時は巳剋。東門から御出されるのが望ましかろうと」
 話し合っていたのは、帝の東三条院への行幸についてであった。帝は大臣以下あまたの臣下を引き連れ、母后、東三条院藤原詮子に会われるのである。
「巳剋、良い頃合だな。では、その間に内親王を内裏に、定子殿を職の御曹司に移らせるよう取り計らうが良い」
 それは帝の定子への配慮からであった。世間の目を自らの行幸に引きつけておき、前例なき還俗、再入内を行う中宮への非難を逸らすのである。
「主上はたいそう喜んでおられたぞ。これもひとえにそなたの働きのお陰だな」
 行成は安堵して肩の力を抜いた。源俊賢は前任の蔵人頭、未だ教えを乞うことは多く、その助言はいつも的確だった。
「それにしてもよく左大臣を説き伏せられたものだ」
「……」
 行成はそれに答える言葉を持ち合わせなかった。
 俊賢は鋭い。自分の表情一つ、目の色一つからすべてを悟ってしまうことだろう。謙遜するように瞳を伏せ、何気なさを装って話題を変えた。
「北の方も出仕されるのか」
 俊賢の妻は中納言の君と呼ばれる定子付きの上臈女房だった。職の御曹司にも同行するのかと尋ねた行成に俊賢は昏い声で。
「果たして今の中宮の元に妻を置きたいと思う男がおろうか」
 口の中に苦い失望の味が広がった。
 中納言の君は前の関白である道隆の従妹、すなわち道長の従妹でもあった。今や道長の政敵となった定子に仕えれば、微妙な立場に立たされることは目に見えている。
 それを承知していてもなお、行成は中納言の君に裏切られたような気がしてならなかった。
「だが、喜べ、行成。少納言は出仕をするそうだぞ」
 突然、親友の口から飛び出た思わぬ名に行成は驚き、反射的に噂の出所を確かめていた。
「左中将殿が言っておられたのか」
 俊賢は頷いた。
 少納言と親しい仲の左中将から聞いた話ならば本当なのだろう。
 少納言が戻ってくる。あの少納言が――。
「良かったな」
 俊賢は屈託なく笑って言った。
「少し妬けるが。そなたと少納言が男女の仲になったとしても、私に止める権利は無いな」
「私たちは別段そのような……」
「そなたのような地味な男は闊達な女に惹かれるものよ」
「俊賢殿」
 弱り果てたように言ったものの、行成はその軽口に俊賢の気遣いを感じ取っていた。
 身体の関係を断ってから、既に一年。俊賢は二人の間で深い話が交わされることを意図的に避けている節があった。
「だが、そなたと少納言は似ているぞ」
「私にはあのような才知はない」
 煌く才知。そして俊賢の言う通り、自分とは対照的な、陽気で闊達な性格。それこそが小納言という女房であった。
「そなたには比類なき書の才があろう。そなたからの文は誰もが拝み倒して持ち去っていくぞ」
 行成は自分でも気付かぬうちに書の名人とされていた。書というものは上手い者の字を模倣して練習するものである。そのため、仮名であれ漢字であれ、誰もが書いたそばから自分の文をもぎ取っていくのは事実であった。
「そしてどちらも高名な父を持つというのに和歌を作らぬ」
 行成の父は言わずと知れた藤原義孝。少納言の父は契りきなで名高き清原元輔だ。
 どんな歌を作ろうとも父親と比べられるだろう。そんな思いが、行成をして和歌を作ることをためらわせていた。尋ねたことこそなかったが、少納言も恐らく同じ思いを抱いていることだろう。その意味では、やはり自分と少納言は似ているのかもしれなかった。
 道長派と噂される自分が定子の側にいては迷惑が掛かると告げて中宮定子の元を離れた少納言。
 女房たちの誰もが道長の不興を買うことを恐れ、定子の元から去っている今、敢然と戻って来ようとは。
 何と覇気のある女房だろう。
「どうやら私は少納言という女房を見くびっていたようだ」
 かつて俊賢は言った。
――少納言とてその真意はわからぬ。旗色の悪い中宮定子の陣営から離れ、主上の内侍として再出仕を目論んでいるのやもしれぬ。
 その時、少納言に限って、という言葉が喉まで出かかったが、それを口にする事は出来なかった。そして何があっても不思議はない。誰も信じてはいけない。それが宮廷なのだと自分に強く言い聞かせた。
 だが、そうではなかったのだ。
 たった一人でも、この伏魔殿で忠義を貫こうとする者がいることが何と嬉しいことか。それが少納言ならば、なおのこと。
「少納言がいれば、定子殿も心強かろう」
 それは実方を失い、伊周を見送った行成にとって、久々に耳にする明るい話題であった。
 知らず笑みを浮かべた行成を見て、俊賢もまた楽しそうに笑った。





 中宮定子とその女房たちは無事に職の御曹司へ入り、行成は少納言と再会した。
「お変わりなく」
 と言ったものの、行成はそれきり二の句が告げなくなってしまった。
 少納言は常の如く御簾の向こう、扇で顔を隠したまま。
「頭の弁におなりあそばされたそうですね」
 変わらずよく通る美しい声だと行成は思った。
「これまでご不便をおかけしたのではないでしょうか」
「貴方が戻り、安堵いたしました」
「またわたくしに定子様へのお取次ぎを頼むおつもりではないでしょうね」
 図星を突かれ、行成は再び沈黙した。
「あるもので間に合わせ、こだわらず、どんなことも贅沢を言わずにこなすのが大人というものでございましょう」
 行成はすぐに気付いた。これが自分の曽祖父である藤原師輔の言葉を引用したものであることに。
 衣冠より始めて、于牛馬に及ぶまで、有るに随ひて之を用ひ、美麗を求むることなかれ、である。
 そうであれば、それなりの答えを用意すればなるまい。
 行成は言った。
「これが私の性分ですから。改まらざるものは心なりと言うではありませんか」
 人の本性は改めようがない、と行成は白氏文集から引用して答えた。漢詩、漢籍に明るい少納言ならば、すぐに判るであろうと踏んだのだ。
「では、改むるに憚ることなかれ、をご存知?」

 子曰く、忠信を主とし、己にしかざる者を友とすることなかれ。
 過つては即ち改むるに憚ることなかれ。

 行成の言葉の意味を理解するどころか、論語を引いて逆襲され、ついに行成は笑い出した。
 すべては変わった。
 伊周は左遷され、その妹の定子は出家した。還俗し、再び中宮となろうとも、宮中はもはや道長がいなくては立ち行かぬ。
 だが、少納言の姿を見ていると、宮中は行成が蔵人頭となったばかりの時のまま、何も変わっていないような気がした。
 それが錯覚に過ぎないとしても。
 行成はほんの少しの間でもそんな錯覚を抱かせてくれた少納言を心の底から好もしく思ったのだった。





つづく
Novel