月虹 4





 秋の長雨の合間を縫い、行成を宿直所(とのいどころ)に訪ねてきたのは、宰相中将こと藤原斉信だった。
「少納言に避けられているような気がするのだ」
「なぜ私に」
 問うのかと行成は困惑の表情を浮かべた。
「貴公と少納言は……」
 恋仲ではなかったのか、そんな言葉が喉元まで出かけたが、貴族の嗜みがそれを口にすることを躊躇わせた。
 その代わりに思い付いた無難な言葉を口にする。
「参議となれば、しぜん後宮とは疎遠に」
 かつて親しい仲だった斉信と少納言。二人の間に修復しがたい深い溝が生じていることに、行成は既に気付いていた。
 それこそ少納言が宮廷を下がった頃からだ。斉信は少納言のかつての夫であった橘則光にその居場所を問い詰めたが、少納言はその居所を決して則光に明かさせなかったという。その頃から少納言は巧妙に道長一派を避けるようになっていた。
 中宮定子の兄、伊周の失脚と同時に参議に上がった斉信。そこに関連性を見出すことは容易だろう。今や斉信は道長の側近中の側近となっていた。
「貴公とはますます親しくしているというのに」
「蔵人頭であれば」
 当たり前だろうと返す。
 庇の柱に背を預け、片膝立ちで座している斉信は、少納言に避けられる理由が思い当たらず、心底不思議に思っている様子だった。
 自分の魅力を知り尽くしており、自信に溢れ、明朗快活。そして出世欲を周囲に隠そうともしない斉信は行成にとって眩しい存在だった。そう、あの藤原実方のように。
 今は遠く、陸奥の地にいる実方を思い、行成はふと溜め息を付いた。
「……」
 気付くと、斉信が自分にしきりに話しかけていた。
「すまない。今、何と」
「少納言はいつまで定子殿にお仕えするつもりなのだろうな」
「いつまで、と言うと」
「定子殿の実家は凋落し、兄弟の不行跡によってその威光は弱まっている。いかに主上の寵愛がいちじるしかろうと、定子腹の皇子は決して帝にはなれぬ」
 皇子が帝になるためには、生まれ順ではなく、生母の実家こそが何よりも重要視される。斉信の言葉は真実だ。
「それでも定子殿は中宮であられる」
 中宮は律令が定める三后のうちの一つである。すなわち太皇太后、皇太后、中宮。后や夫人よりも格上とされ、いわば帝の正妻に当たる。
「そう、それが問題だ」
 と嘆息する斉信は道長の走狗以外の何物でもない。かつて定子後宮を毎日のように訪れ、華やぎを添えていた頭中将としての面影はもはやどこにもなかった。
 なればこそ、少納言は斉信を避けているのだ。定子を思いやり、定子のために宮廷に戻ってきた少納言にとって、道長の走狗となり果てた斉信はもはや敵も同然。
 その道理がわからないとは、何とお目出度い……いや。
 むしろお目出度いのは、私たちの方なのかもしれない。斉信の態度は宮廷貴族としては当然のこと。
 私とても道長におもねり、主上の望みを叶えたではないか。
「神事も行えぬというのに、中宮を名乗るとは」
 行成は顔を上げ、非難するように斉信を見た。斉信は顔面に驚きを露わにすると。
「驚いた。貴公も感情を表にすることがあるのだな」
 言って、庇に扇を投げ出した。
「だが、事実であろう。帝というのは国の神事を行う存在だ。その正妻たる中宮が一度仏門に下った身の上など前代未聞。藤中納言はこう言っておられるそうだ。いずれ大いなる厄災が宮中に降りかかるであろうと」
 藤中納言の名を出されると、さしもの行成も沈黙せざるを得なかった。
 藤中納言、検非違使別当であった藤原実資だ。円融、花山、現帝と、三代の天皇の蔵人頭を務めた。有職故実に通じ、前例主義の宮中行事の催行にあってはもっとも重用される存在だ。
 うるさ型として敬遠される一方で、決して権力に迎合しないその気質を大きく評価されていた。
 その藤中納言が……。
「小煩い男だが、藤中納言の言葉はいつも的を射ている」
「そう、だな」
 斉信は投げ出した扇を再び手に取り、手慰みに開いたり閉じたりを繰り返していた。
 秋の長雨がしとしとと振りしきる中、斉信が衣に焚き染めた薫物が香る。
 そうだ、少納言が草子に書いていた。やはり雨の時期、後宮に訪ねて来た斉信の衣香が次の日まで残ったと。確かに良い香りだ。
 少納言の美意識は優れている。行成は改めてそれを実感した。
 斉信はふと思いついたように。
「近頃はどこにお通いだ」
「急に何を」
「後宮の女房か。まさか少納言ではあるまいな」
 斉信は唇の端を吊り上げて笑った。
「艶めいている」
 斉信は行成の五歳歳上だった。さながら弟にするように行成の頬に手を当てて来、しかし次の瞬間、何故か火鉢にでも触れてしまったような所作で素早くその手を引いた。
「すまぬ」
「いや」
 行成は困惑した。斉信の今の態度はいかにも奇妙なもののように行成の目には映ったからだ。
 斉信は扇を手にすると、そそくさと宿直所を出て行った。

 降り止まぬ秋の長雨の中、斉信の衣香だけがいつまでも強く残った――。





 一度関係を持てば、枯れた葵の葉のように関心が薄れるもののと思っていた。
 だが、誰に対してもそうなのか、道長の態度は変わらなかった。この執念深さこそが、道長を権力の中枢部に惹きつけて止まないのかもしれなかった。
「……っ」
 道長の病悩見舞いのために訪れた土御門邸。もっと近くに、と手招きされ、御簾の内に膝を進めた途端、茵(しとね)の上に押し倒された。
「ん…っ、……は」
 そのまま覆い被さられ、唇が重ねられる。舌を挿れられまいと懸命に歯を食い縛っていたが、息衝きの隙を突いて強引に熱い舌が挿し込まれた。道長は唾液をたっぷりと絡ませた舌で、容赦なく行成の口内を蹂躙した。
 舌を吸われ、唾液を飲まされる。
 暗い御簾の中、舌と舌が絡まる淫靡な水音が響いた。
 行成はやっとのことで、その執拗な口付けから逃れると。
「――詐病でございましたか」
「そなたの顔を見たら、病など吹っ飛んだ」
 行成は身体の下から道長を見上げ。
「お元気そうで何よりでございます」
「宰相中将がそなたの噂をしていたぞ。最近の頭弁はいやに艶めいていると。一体、誰の元に通っているのだろうと」
 不敬がないよう丁寧さを心掛けて、行成は道長から離れた。
「残念だ。頭弁が艶めいているのは、私のお陰であろうと言えたらどんなに良かったことか。そなたとはあれ以来、無沙汰だからな」
 そなたとは、と付け加える道長の巧妙さに行成は気付いた。
 ……妬かせるつもりか。
「またお願いしたい儀が出て参りましたのなら」
「身体と引き替えの請願か。さて、そなたの身体にどれほどの価値があろう」
 行成はにこりともせずに答えた。
「仰る通りかと」
「ふふ、傷ついた顔をするようなら、まだしも可愛げがあるというものを」
 道長は脇息に凭れた。
「相手は少納言か」
「ご想像にお任せいたします」
「今度、共寝の後で少納言に聞いてみるがよい。内侍はいかがかと」
 内侍は帝に付き従い、後宮を取り仕切る内侍司の女官である。
 伊周、定子兄妹の母親、才女で知られる高階貴子は内侍であった。女性が就ける職の最上位と言っても過言ではない。
「少納言を内待にして頂けるよう、私から帝に奏上しようではないか」
 唐突に見える道長の提案には、しかしその裏が透けて見えていた。
「少納言は中宮の御前を下がることになりましょう」
「だが、内侍こそがあの者の真の望みであろう」
 そして中宮から味方を一人一人遠ざけていくつもりなのだろう。血の繋がった姪を相手に何と大人気ないことを。
 だが、血の繋がった者同士で相争う。それこそが宮廷という場所なのだ。
「宰相中将は中納言の位を望んでおろうな」
 まるで人の心の中を読むかのような道長の発言を聞き、純粋な興味に駆られて行成は尋ねた。
「それでは、私の欲しいものは一体何だと思われますか」
「そなたの場合は少々難しい。さしずめ主上の幸福だろうか」
 行成は瞳を瞬かせた。
「そなたは主上にとって理想的な蔵人頭だ。常に主上のためを思い、主上の幸福のために働いている。それ故、主上もそなたを頼りにし、そなたの言うことを聞くのだ。宮廷の未来を左右するのは、実はそなたではないかと我は睨んでいる」
「貴方は本当に――」
 行成は言った。
「人たらしでいらっしゃる」
 道長は笑い、そして言った。
「褒め言葉と取っておこう」





つづく
Novel