月虹 5





 仕切り塀を挟み、後宮の女房の一人と話をしていたところ、奥から声が掛った。
「そこにいらっしゃるのはどなたですの?」
 少納言の声であるとすぐにわかった。
「弁が伺っております」
「あら」
 少納言は快活に笑って。
「どんなに親しくお話をなさろうとも、ここに大弁がいらっしゃれば、すぐに放り出されてしまいますわよ」
 仕切り塀の向こうで、行成と話していた女房が僅かに息を飲む気配がした。
 行成も承知していた。この女房は行成の上司に当たる大弁の通う先なのだ。
「そんなことはしないで下さいとお願いしていたのですよ」
 行成は笑いながら冗談を言った。
 大弁と噂のある女房が去り、仕切り塀越しではあるものの、行成は少納言と二人きりになった。
 その好機を逃さず、自分の意見は差し挟まず、行成は淡々と道長の先日の言葉を告げた。
「――内侍」
 少納言は呟いた。その声音には夢見るような響きがあった。
「昔、源宰相殿が蔵人頭であられた頃、同じ事を仰ったことがありましたわ。わたくしを内侍にご推薦して下さると。嬉しく存じます。でも」
 少納言は世にも楽しげな様子で。
「お・こ・と・わ・り」
 それは行成の予想した通りの返事だった。ただ予想よりも明るく答えられたことが、意外と言えば意外だった。
「左府(道長)殿の策略には乗りませんわ」
「そう仰られると思っておりました」
「元を正せば、わたくしを中宮定子さまの元に上がるようご推挙してくださったのは、当時定子さまの中宮大夫であられた左府殿」
「そう、だったのですか」
「今となられては、左府殿はそのことを後悔なされていらっしゃるのかもしれません」
 少納言は定子後宮の名声を高める、才長けた女房だ。
今や中宮定子は内裏外にある職の御曹司に押し込められた形だが、定子後宮の華やかさに惹かれ、寄る者は昼、夜なく後を絶たない。
 それに少納言の存在が一役を買っていることは否定できない事実であった。
「頭弁様、わたくしがどうして経房の左中将殿と親しくしているのか、その理由をご存知でしょうか」
 突然、改まった口調で少納言は言った。
 かつて道長派との謗りを受け、里に下がっていた少納言。どこに居るとも知れなかった少納言の居所を唯一知っていたのが、源経房だった。
「あの方は左府殿の義理の弟、かつ猶子でございます。もっとも左府殿に近い方であるが故、親しくしていれば、しぜん左府殿のお話も耳に入ります」
 少納言はきっぱりと言い切り、行成は瞳を瞬かせた。
「強(こわ)いことを言うと思われるかもしれません。けれどわたくしが大事に思う方をお守りするためには、左府殿の動向に目を光らせている必要があるのですわ」
 行成は仕切り塀に背を付けた。少しでも少納言に近付こうとしたのだ。
「帰ってしまうのもいいね、と笑ってわたくしに話し掛けてくださった方が次にお会いした時には出家をなさっていらっしゃいました。それが宮中というところ」
 帰ってしまうのもいいね、と少納言に笑いながら話しかけた男が誰なのか、行成は知っていた。
 行成の叔父、一時は頼みの綱としていた藤原義懐だ。
 小白河邸で行われた法華八講に出席した少納言は、帰りしな、花山帝の数少ない外戚として権勢を振るっていた義懐の中納言に声を掛けられた。やや、まかりぬるもよし、と。
 その僅か数日後、花山帝は出家し、将来を憂いた義懐もまた、出家をしたのだ。
「頭弁様」
 とん、と音がした。恐らく少納言が仕切り塀に手を付いたのだろう。
「私が守らないといけない方と貴方が守るべき方は違います。今はその二つは寄り添っていらっしゃいますが、これからどうなるかはわからない。けれど」
 少納言はきっぱりと言った。
「わたくしたち、いつまでも良いお友達でいたいものですわね」
 仕切り塀を隔てながらも、しかし互いの心は誰よりも深く寄り添い合ったような、そんな気がした。





 秋もいよいよ深まる中、承香殿女御こと藤原元子が懐妊の兆候ありとして、里である堀河院に下がった。帝の寵愛を後ろ盾に第一皇子を産むと決め込んでいた定子後宮の落胆は大きかったものの、道長の定子への関心は薄れ、行成は久々に心穏やかな日々を送っていた。
「まこと女というものは度し難いな」
 斉信はそうぼやきながら、宿直所を訪れた。
「承香殿女御が退出のため弘徽殿の細殿を渡る姿を、弘徽殿の女房たちが簾越しに鈴なりとなって見ていたそうだ。簾が膨らんでいるのを見た承香殿女御の女童がこう言って揶揄したと。――簾のみ孕みたるか」
 行成は眉を顰めた。
 未だ子を孕んだことのない弘徽殿女御に向かい、何たる暴言か。
 年端も行かぬ女童が口にした言葉にせよ、仕える者の暴言は主たる承香殿女御の責を問われることになるだろう。
「既にして国母気取りと噂されている」
「未だ皇子と決まった訳では――」
「堀河右大臣は堀河院に僧を集め、腹の子を男に変える読経をさせているそうだ」
 さもありなん、と行成は思った。
 堀河右大臣と呼ばれる藤原顕光もやはり道長、斉信の従兄弟であり、行成にとっては父の従兄弟に当たった。
 実の弟に出世の上で追い抜かれるほどの無能な男であったが、道長はその残酷さをもって、自分に次ぐ右大臣の座に藤原顕光を就けたのだ。もし顕光に煌く才があれば、道長は顕光を右大臣にすることも、その娘を女御にさせることもなかっただろう。
「いかに堀河右大臣が無能であっても、無事に子が生まれ、そして生まれた子が皇子であれば、堀河右大臣は外戚の座を手に入れることが出来る訳だ。藤中納言の渋い顔が目に浮かぶようだ」
 斉信はくくくっ、と喉奥で笑い声を上げた。 
 有職故実に通じ、宮中行事を知り尽くしている藤中納言こと藤原実資にとって、宮中行事の度に失敗を犯す顕光は許しがたい存在であり、こっそりと、時には公に顕光を痛罵していたのだ。
 行成は腰を上げた。
「どこに行かれる」
「職の御曹司に」
 この騒ぎは恐らく職の御曹司にまで届いていることだろう。それを理由に定子後宮を訪れ、承香殿女御の懐妊に落胆する定子とその女房たちに帝の御心を伝えようと思い立ったのだ。
「待て、頭弁」 
 ふいに手首を取られ、行成は戸惑った。
「そうまでして少納言に会いたいのか」
「何を云う。取次ぎは以前から」
 そう、斉信が頭中将であった時から、行成は定子への取次ぎは少納言に頼んでいた。何を今更、と怪訝そうに首を傾げたところに再び斉信は。
「そなたと少納言のことは上達部の間でも噂になっている」
 語気荒く迫る斉信は彼には似つかわしくなく、行成はそこに嫉妬の焔を感じ取った。やはり彼と少納言は――。
「恋仲であれば、むしろ忍ぶかと」
 誤解は早めに解くが得策と思った行成はあっさりと。
「ご心配なら、私と共に職の御曹司へ。少納言はきっと喜びましょう。貴殿のことをあれほど草子に……」 
 書き連ね、と続けようとした口は斉信の唇によって塞がれた。
「ん……ッ…」
 瞬間、何が起きたかわからなかった。
「ッ……」 
 腕を引き、斉信を引き剥がす。一度は離れた斉信だったが、再び行成の唇を執拗に求めてきた。
 行成はその場に引き倒され、圧し掛かられた。
 あまりの出来事に行成の思考は停止し、何もすることが出来なくなった。
 相手は斉信だ。
自身の魅力を知り尽くしており、自信に溢れ、明朗快活。宮廷の女房たちの憧れの的。それが宰相中将、斉信という男だった。斉信には兄もいるが、道長はこの男を特に買っていた。
 彼ならば、どんな相手でも容易く手折ることが出来るだろう。なのに――。
「ま、待……」
 辛うじて制止の声を上げたが、その声も斉信の深い口付けの前に容易く呑み込まれた。
「行成……」
 啄ばむように口付けられ、胸の中に抱き込まれる。斉信からは得も言われぬ良い香りが漂い、行成の意識は朧に霞む。
 首筋から耳朶にかけてを舌で辿られ、耳朶を食まれ、濃厚な愛撫を受け続けるうち、ようやく我に返った。
「私は少納言とは――」
 否定の言葉には洟から耳を傾けようともせず、斉信は行成の衣を脱がしに掛かった。
 ここに至っても、行成は未だ自分の身に降りかかっていることが完全には理解できずにいた。
 相手はかつての同僚であった斉信だ。軽率な振る舞いが災いし、大宰府に流された前の内大臣、今は帥殿と呼ばれている伊周とは訳が違う。
「宰相中将殿!」
 叫ぶが、斉信はその手を緩めようとはしなかった。
「――誰を通わせている」
「通ってなどおらぬ」
 答えながら、行成は斉信の奇妙な言葉遣いに気付いた。
「どこにお通いだろうと問いたところ、左大臣はこう言われたのだ。あの頭弁のことだ、通わせているのであろうと」
 行成はハッと息を呑んだ。
 道長は斉信の耳に毒を流し込み、焚きつけたのだろう。
 何のために?
 決まっている、自分を取り込むために、だ。
 道長は人の密かな望みを巧妙に探り当てることの出来る男だ。自分自身目を逸らし続けてきた浅ましいその欲望を、行成は今まさに見せ付けられていた。
 自分とは正反対の、美しく華やかなものに惹かれる性質を、行成はこれまで巧妙に隠し続けてきた。
 父がそうだった。幼い頃に死に別れた、美しく才能に溢れた父を行成は愛してやまなかった。今業平と呼ばれた実方、軽率だが、美貌と才気に輝いていた伊周。そして……。
 斉信の成すがままにさせながら、行成は目を閉じ、考えた。 
 道長の上を行かなくてはならない。何をしても、どんな手を使ったとしても、そうでなければ、自分の大事な者を守ることなど出来はしない。

――やや、まかりぬるもよし。

 先に帰るのもいいね、と笑った義懐の中納言はその手から花山帝を取り落とした。藤原道兼一派に騙されて出家させられた花山帝は未だ荒れ爛れた生活を送っている。
 また新たな声がした。

――もっとも左府殿に近い方であるが故、親しくしていれば、しぜん左府殿のお話も耳に入ります。

 斉信は道長の側近中の側近だ。
 道長が斉信を使って自分を取り込もうとするならば、取り込まれた振りで、反対に自分が斉信を取り込めばよい。
 だが、出来るのだろうか、自分にそんなことが。

――私にはそなたしか頼れる者がおらぬ。

 出来るのか、ではなく、やらねばならぬのだ。 
 そう、我が帝には花山帝の轍は決して踏ませぬ。
 士は己を知る者の為に死すのだ。
「宰相中将……」
 行成は斉信の背にその手を回した。





つづく
Novel