月虹 9







「我が邸に穢れが持ち込まれた」
 道長に言われて、昨夜の女房たちの慌ただしい動きを思い出した。
 成程、あの時に。
「死んだ子供が軒下に打ち棄てられていたそうだ」
 行成は眉を潜めた。
 政治闘争はともあれ、表面は優雅に暮らす貴族たちとは裏腹、壁一枚隔てた庶民の生活は劣悪なものだ。
 恐らく子供の死体は野犬が運び込んだものだろう。
「昨日の宴には主だった公卿たちが皆出席していた。どうしたものか」
 昨夜の宴の出席者を脳裏に思い描く。穢れに触れたとして、それらの者たちが皆一斉に物忌みに入れば、内裏は機能停止となるだろう。
「年末故に神事は予定されておりません。年明けまで穢れを忌まぬものとしてはいかがでしょうか」
 道長が同意するように頷き。
「あの大騒ぎの中、姿がなかったな」
「酒が過ぎたようで別室で休息を取らせて頂いておりました」
「奇遇だな。宰相中将も同じことを言っていた」
 行成は表情一つ変えずに道長を見返した。
「ところで、主上の勅命とはいかに」
「脩子殿を正式に内親王とするそうでございます」
「ふん、断る理由はないな」
 脩子、中宮定子が先年に産み落とした女児である。出生前後の騒動から長らく中途半端な存在となっていた。まもなく数えで二歳を迎えることから、正式に内親王とすることを帝から打診されたのだ。
「内親王宣下の実際については先例をよく知る藤中納言に聞くが良い。ここ久しく内親王宣下は行われておらぬからな」
 行成は平伏した。





 その後、行成は源明理に接触した。
 明理は源重光の子。行成の母の従弟である。通い婚が常の現代、遠くとも母方の親族の結束は父方よりも固い。普段から親しくしている相手だけに腹を割って話すことは容易だった。
「いかにも前帥殿は我が邸宅に」
 明理は伊周の義理の兄弟となるため、連座させられて一度は宮中を下がった。再び参内を許されたのは、今年の夏のことであった。
「母も子も泣きの涙で帥殿との再会を果たした」
「ご壮健であられるのか」
「とてもな。定子様にもそうお伝え頂けるか」
「心得た」
 これまで弟の隆家のみを頼みにしてきた中宮定子の後宮は伊周の帰京の知らせに沸き立った。
 承香殿女御の懐妊もあり、心細い思いがあったのだろう。女房たちは涙ながらに。
「脩子さまが内親王としてお認められ、帥殿もようやくお戻りに」
「来年こそ良い年になりましょう」
 御簾の向こうで、女房たちが泣きわめく中、少納言は中宮定子の傍らに黙って座していた。
 そう、嬉しい時、悲しい時、言葉は時に邪魔になるものだ。
「これで承香殿女御が生む御子が女であれば」
「――言葉を慎みなさい」
 中宮定子が女房を窘めた。
 承香殿女御が生む子、それは道長、定子、そのどちらにとっても脅威であった。
 何と皮肉なことだろう。道長は公卿を自分の味方につけるため、ひいては定子への牽制として女御たちを入内させたのだ。それが自分の首を絞める結果になろうとは。  
 もしも承香殿女御が皇子を産めば、右大臣藤原顕光は未来の外戚として権力の中枢の座に就く。いかに顕光が無能であろうとも、だ。
 ふいに簀子縁が軋み、新しく女房が現れた。
 女房は御簾に歩み寄ると、中宮定子に何事か耳打ちした。目に見えて座の雰囲気が変わった。空気はぴんと張りつめ――。
 定子は言った。
「許します。すぐにこちらに」
 女房が慌ただしく去ったかと思うと、再び渡りの気配があった。女房はひそやかにその名を告げた。
「前帥殿にございます」
 前帥、伊周がその姿を見せた。  思ったのだろう、一刻も早く、定子の元へ、と。
 この男らしい、とも言えたが、何と思慮浅きことか。
 伊周は変わっていなかった。いや、少し痩せ、狷介な表情を見せてはいたが、その身に受けた艱難辛苦を思えば、驚くほどに。
 伊周は言った。
「下行く水の」
 和歌を不得手とする行成でさえもその歌のことは知ってた。

 心には下ゆく水のわきかへり

 私の心の中では地下水がわくように思いがあふれているが――。

 むろん聡明な定子であれば承知の上だろう。下の句でそれに応えた。
「……言はで思ふぞ」

 言はで思ふぞ言ふにまされる

 言葉にするより言葉にならない気持ちの方が強いのです。



 涙にかきくれる二人を前に、場違いを悟った行成は職の御曹司を後にした。




 その日は常にも増して忙しい一日だった。忙しい故に伊周のことを考えずに済むのが有難かった。土御門と内裏を幾度も往復し、実資の屋敷である名邸、小野宮にも足を向けた。
 すべての用事を済ませて内裏に戻ると、丑の刻(午前一時)を過ぎていた。
「探していたぞ、頭弁」
 外記庁に面した建春門で牛車を降りると、さっそく声を掛けられた。
「宰相中将」
 こんな夜更けに何用であろうかと首を傾げる。
「聞いたか、大宰権帥が」
 大宰権帥、すなわち伊周のことである。
 人の口に戸は立てられぬ。半日も経たずしてすでに噂となったのか。
 行成が口を開きかけた、まさにその時――。
「これはこれは、頭中将」
 霜を踏む音と共に現れたのは、伊周だった。





つづく
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