ラインの乙女 1





「頼む! 頼む、ディートリヒ!」
 両腕を二人の騎士に掴まれ、主塔の最下層にある地下牢へ引き立てられながら、ハインリヒは叫んだ。
「殺さないでくれ! お前にラインフェルスの城をやろう。ゴアハウゼンの街もやる。決して後悔はさせないぞ」
「何を言っておられるのやら」
 ディートリヒは唇の端を吊り上げると、世にも酷薄な笑みを浮かべた。
「兄上、それらはもう私の物なのですよ」
 ハインリヒは梯子段を引きずり下ろされ、塔の最下層へ下ろされた。
 地下牢の揚げ戸が開かれる。揚げ戸の下には文目もわかぬ漆黒の闇が広がっていた。地下牢に虜囚を下ろすために使用される、滑車につけた縄が巻き上げられる。
 ハインリヒは堪らず悲鳴を上げた。
「私をここから突き落として殺すつもりか、ディートリヒ!」
「これはこれは、私たち母子をさんざん慰み者にした兄上の言葉とは到底思えませぬな」
「ディートリヒ!」
「兄上、私の母を殺したのは一体誰でございましょうか」
「私が手を下した訳ではない」
「そう、直接手を下してはおりませんな。まるで犬に餌を与えるのを忘れたかのように放置し、そして死なせたのです」
「だが、あの女はユダヤ人だった! 異教徒だった!」
「いかにも。私の体にもその母と同じユダヤの血が流れております。キリスト殺しの民、その偏見通りに振舞いましょう。ここから地下牢へ突き落とせば、首の骨を折って死ぬでしょうな。しかし兄上、私はそれほど慈悲深くはないのです」
 騎士の一人が運んできた拷問器具を見るや、ハインリヒは恐怖に震えあがった。
 それは聖母マリアを模(かたど)った巨大な人形であった。前面が観音開きとなっており内部は空洞、その空洞に人が入れられる構造となっている。
 鉄の処女(おとめ)と呼ばれる悪名高き拷問器具。通常は内部に無数の釘が植えつけられており、観音扉を閉めると同時に、哀れな犠牲者に釘が突き刺さる仕掛けとなっている。
「ご存知でしょうか、兄上。鉄の処女でございます。もっともこの処女の内部に釘はありません。私のせめてもの情け」
 騎士たちは鉄の処女の中に暴れるハインリヒを押し込めると、扉を閉ざして鍵をかけてしまった。
「兄上の悲鳴を聞けば、主塔の上層にいる人質どもは震え上がり、主君に家臣に身代金を無心する手紙を書き送りましょう。すなわち新しいカッツェンエルンボーゲン伯は身内さえも容赦せぬと」
 ディートリヒは鉄の処女を滑車に掛けて引き上げさせた。恐怖の余り狂気のようになったハインリヒがあらん限りの大声で叫んでいる。
 ディートリヒは薄ら笑いを浮かべて。
「我が母上が味わった苦しみを知るがよい。――落とせ」
 騎士たちは鉄の処女を地下牢の奥底へと投げ落とした。床に付くと同時、主塔に魂切るような悲鳴が木霊した。 
 投げ落とした後で、騎士たちは再び鉄の処女を吊り上げた。驚いたことにハインリヒには未だ息があった。
「流石はお兄上、……命汚い。一体いつまで生き伸びれるか見物でございますな」
 ディートリヒは騎士たちを引き連れ、主塔を後にした。

 食料はおろか水さえ与えられることなく、けれどハインリヒは予想を遥かに越えて長く生きた。
 日ごと夜ごとに呪詛の言葉を吐くハインリヒの声に、主塔の上層部にいる人質たちは震え上がった。
 やがてその呪詛の声すら聞こえなくなり、文を許されると、人質たちは主君に郷里に手紙を書き送った。一刻も早く身代金を送るようにと。
 そして帰国後は声を潜めてその恐怖を語り、その悪名はラインの諸都市のみならず帝国の隅々にまであまねく知れ渡ることとなった。
 すなわち、身内殺しのカッツェンエルンボーゲン、と。





 猫の肘との変わった家名を持つ、カッツェンエルンボーゲン伯爵家。
 ライン河畔に城を持つという幸運に恵まれた伯爵家はライン河の通行税で富を集めた。
 女道楽でとみに知られたヴィルヘルム・フォン・カッツェンエルンボーゲンの没後、血みどろの後継者争いの末、伯爵の地位を得たのは、先代ヴィルヘルムがユダヤ商人の娘との間に作った庶子であった。
 新伯爵は兄を弑(しい)し、その地位を得るなり、巨大な富を費やし自城を拡張し、難攻不落のラインフェルス城塞を作り上げた。
 完成後、青年伯爵は通行税の急激な増額を行った。ラインの諸都市は一斉に蜂起、一年を費やしてラインフェルス城を包囲したが落ちず、また税の下がる気配も一向になかった。
 ラインのすべての諸都市から挑戦状を叩きつけられ、その家名と異常なまでの拝金主義から、ユダヤの黒猫と仇名された青年伯爵。
 その名はディートリヒ・フォン・カッツェンエルンボーゲン。二十七歳だった。





 ザンクト・ゴアハウゼン、それはローマ時代の要塞から発展した古い漁村であった。
 リーンハルトがその村の酒場に身を落ち着け、ライン河を下る商船について詳細を尋ねた途端、周囲の人々の顔色が変わった。
「水路を使うのは不可能でございます」
「ラインの諸都市の商船団は陸路を使っております。損失は免れませぬが、それでもかの伯に荷を根こそぎ奪われるよりはマシなのです」
「貴方様は皇帝陛下から遣わされた巡察使ではないのですか。何卒、皇帝陛下にお伝え頂きたい。帝国自由都市の尊厳がかの伯爵により無残に踏みにじられているのです!」
 皇帝から遣わされた巡察使。図星であったが、まさかそうだとも言えず、リーンハルトは逃げるように酒場を後にした。
 皇帝直属、帝国自由都市の市参事官たちの嘆願は既に皇帝にまで届いていた。
 皇帝選挙侯たるライン宮中伯の口添えもあり、ついに皇帝は盗賊騎士となり果てたカッツェンエルンボーゲン伯とその領地の調査に乗り出したのである。
 巡察の任を命じられたのは、皇帝の忠臣たるヴェルフ伯爵家のリーンハルトであった。
 人目につかぬ用心のため、リーンハルトはここまで長旅を共にしてきた騎士たちを隣領に留め、単騎、カッツェンエルンボーゲン伯のお膝元であるザンクト・ゴアハウゼンに乗り込んでいた。
――噂に違わず。いや、むしろそれ以上か。
 たった一人の強欲伯爵の存在が、帝国の大動脈たるラインの水運を止めてしまったとは驚きだった。
 リーンハルトはライン河の岸辺に立ち、崖の上に倣岸と聳えるラインフェルス城塞を見上げた。
 ラインの諸都市の一年にも渡る攻囲を耐え抜いたというその城。宵闇がひたひたと迫る中、黒々と浮かび上がるそのシルエットに、リーンハルトに畏怖の念を覚えずにはいられなかった。
 かすかな馬のいななきが聞こえた気がして、リーンハルトは音のした方角に顔を向けた。
 一頭の馬が潅木に繋がれていた。
 漆黒の馬体を誇る見事な馬だ。騎士にとって馬は決して切り離せぬ存在。見事な馬に会った騎士の常で、リーンハルトは躊躇なく馬に近付いていった。
 近付いて、やはり……と確信を強める。
 何と立派な馬であろうか。
 しかし立派な馬を手に入れるには、それなりの金子が必要だ。カッツェンエルンボーゲン伯の手の者の馬かもしれない。
 リーンハルトが警戒を強めたその時、自分を取り巻く空気が変わったことに気付いた。感じたのは、まごうことなく殺気。
 リーンハルトはマントの裾を翻して駆け出した。数歩も行かぬうちに、長身の騎士がリーンハルトの行く手を阻んだ。
 リーンハルトは立ち止まり、腰帯に付けた剣を抜いた。
「――私に何用だ」
「皇帝が犬を遣わしたと聞いたが、貴公がその子犬(ヴェルフ)か」
 犬、比喩表現とも取れるが、子犬呼ばわりをするところを見ると、恐らくはリーンハルトの身分を知っての言葉のようだった。ヴェルフ、それはこの国の言葉で子犬を意味するのだ。
 騎士はマントに付いた頭巾を目深に被っているため、顔の判別までは付かない。
 けれど威厳に満ちたその声と持つ情報から、かなりの身分の者であると知れた。カッツェンエルンボーゲン伯に仕える騎士、それとも家士か。
 騎士はゆっくりと剣の柄に手を掛けた。掛けたが、抜かず、黙ってリーンハルトの動向を見守っている。
「聞き捨てならぬ言葉であるな。確かに私は子犬(ヴェルフ)だ。だが」
 もはや身分を偽ったところで仕方がないだろう。リーンハルトは昂然と頭を上げた。
「まったき犬ならば、忠義でなくて何としよう!」 
 騎士はおよそその場に不釣合いな、高らかな笑い声を上げた。笑い声はいつまでも止まず、くつくつと身を折って笑い続け――。
「気に入った。気に入ったぞ、ヴェルフの若殿よ」
 騎士は口許に指を持っていくと、指笛を鳴らした。
 鳴らすと同時、ラインの岸辺に生える低い潅木に潜んでいた騎士たちが飛び出して来て、リーンハルトの周囲を取り囲んだ。
 その数、およそ十人。
 騎士が目深に被った頭巾を下ろすと、そこから闇に溶け入るような漆黒の巻き毛があふれた。血のように赤い夕陽を反射し、黄金の瞳が妖しく煌く。
 血みどろの後継者争いの末にカッツェンエルンボーゲン伯爵の座に就いたのは、前伯爵がユダヤ商人の娘との間に作った庶子であったという。
 リーンハルトは瞬時に悟った。この騎士こそがユダヤの黒猫、カッツェンエルンボーゲン伯その人であると。
 騎士は笑って告げた。
「歓待いたそう。我こそがカッツェンエルンボーゲン伯爵だ」
 カッツェンエルンボーゲンのご領主は御自ら獲物を物色する。
 その噂が真実であった事を、リーンハルトは我が身を持って知ることとなったのだ……。





つづく
Novel