ラインの乙女 2 |
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歓待とはお世辞にも言い難い、両手両足を縛られた屈辱的な姿で、リーンハルトはラインフェルス城に連行された。 険しいつづれ道を登り、辿り着いたラインフェルス城塞はまるで大きな街のようだった。 荷馬車はひっきりなしに城門を行き来し、水を引き入れられていない空堀には家畜の群れ、鵞鳥番の娘は忙しなく鵞鳥を追っていた。 城の中庭には大きな天幕が張られ、篝火が焚かれ、その前で騎士たちがたむろしている。まるで戦時下のようであった。 この様子を事前に目にしていたのなら、リーンハルトは間違いなく皇帝に向け、警告を書き送っていたことだろう。カッツェンエルンボーゲン伯の武力、侮りがたし、と。 そのまま牢に放り込まれると思っていたが、意外な事に、リーンハルトは厩へ連れて行かれた。 舟形の大きな盥が運び込まれ、湯が満たされる。浴衣が与えられ、リーンハルトは下働きの女の手により身体を洗われた。思わぬ好待遇に驚いたものの、何か裏があるやもしれぬと反対に気を引き締めた。 相手はユダヤの黒猫、身内殺しのカッツェンエルンボーゲンだ。生きて皇帝城に戻ることを一番に考えよう。我が殿下のためにも――。 身体を洗われた後には、着替えが用意されていた。長身のカッツェンエルンボーゲン伯の物だろうか。丈は長く、袖も余ったが、丈は腰帯で調整し、袖は捲り上げ、何とか身に纏った。 着替えを終えるや、そこに迎えの騎士が現れ、リーンハルトを広間へと案内した。 石造りの廊下を歩む途中で、尖り帽子を被り、長い白髭を蓄えた老人とすれ違った。リーンハルトが新しい人質であると見抜いたのだろうか、老人は驚きの表情を浮かべてリーンハルトを見た。 尖り帽子はユダヤ人であることがすぐに判るよう、ユダヤ人だけに着用が義務付けられているものであった。 カッツェンエルンボーゲン伯は自(みずか)らにユダヤの血が流れるだけに、ユダヤの商人が城に出入りすることも許可しているのだろう。 広間はつづれ織りで仕切られ、床には香草が敷かれ、石造りの城を少しでも暖かくしようという工夫が施されていた。五月の宵であったが、北国の常で、暖炉では炎が燃えさかっていた。 既に巨大なテーブルが用意されていた。テーブルの向こうに豪奢な黒貂の毛皮を身に纏ったカッツェンエルンボーゲン伯が居た。 「ヴェルフ伯、リーンハルト殿で相違ないか」 「よく知っているな」 背凭れのない椅子に腰を下ろすなり、リーンハルトは言った。 「戦国の世にあっては情報は何より大切。ヴェルフの若殿は二十歳、騎士叙任を果たしたばかり。女と見紛うばかりの色男だと聞いていた。一目で判った」 「私が巡察に来ること、それも知っていたと?」 「皇帝も取り巻きを選ぶべきであろうな。この世の中、金子に左右される人間の何と多いことか。――皇太子の愛人だと?」 「だ、誰がそのようなことを!」 「宮廷雀の囀りだ」 リーンハルトは強く唇を噛み締めた。 そうだ、伯爵の言う通り。皇帝も侍(はべ)らす家臣は選ぶべきだ。よりにもよって、私と殿下との仲をそのように邪推するとは……。 「宮廷雀が貴殿の耳に何を入れたかは知らないが、根も葉もない戯言だ。私と殿下の関係はそのような邪(よこしま)なものではない」 伯は揶揄するように片眉を上げただけ、何も言わなかった。 召使たちが入って来、テーブルにはカッツェンエルンボーゲン伯爵家の財力を誇示するが如くのご馳走が並んだ。 「毒は入っておらぬぞ」 戸惑いを怯えと取られたのが口惜しく、リーンハルトは遠慮なく皿に手をつけた。 丁子入りのソースをかけた鶏肉、珍しい北海産の鰊、ミルクで煮た豆、棗(なつめ)、焼き栗、アーモンド、香辛料入りの葡萄酒。 盛大に食べ、かつ飲んでいると、カッツェンエルンボーゲン伯が自分をじっと見つめていることに気付いた。 「昔話に子供を太らせてから食べようという魔女がいたな」 「そんな目で見ていると? ――かもしれぬ」 カッツェンエルンボーゲン伯は葡萄酒の杯を口に運びながら言った。リーンハルトは意を決して口を開いた。 「率直に申し上げよう。ライン河の通行料を下げ、人質たちを開放してはもらえ ぬか。条件を受け入れるというのなら、私から陛下に執(と)り成そうではないか」 「一体何を執り成すのだ」 「貴殿が罰を受けずに済むように」 カッツェンエルンボーゲン伯は世にも面白い冗談を聞いたという様子で、高らかな笑い声を上げた。 「皇帝に泣きついたのは、ライン宮中伯か。それとも、腰抜け揃いの帝国自由都市連合か。残念だが、私は皇帝に臣下の礼を取ってはいない。その為、皇帝に指図を受けるいわれもない。皇帝も、大司教も私は恐れぬ。私は恩知らずで、都合の良い時だけ飼い主に擦り寄る猫だ。馬鹿正直なだけが取り得の犬とは訳が違う」 カッと頭に血が昇った。 「ゲルマンの法では庶子は家督を継げぬ決まり。貴公は正式なカッツェンエルンボーゲン伯ではない。ただの簒奪者だ」 「我が兄上は不慮の事故で亡くなった。私が家督を継がなくては、カッツェンエルンボーゲン伯爵家は断絶する」 「不慮の事故とは笑わせるな。殺した、の間違いではないのか」 たちまちのうちに修復しがたい深い溝が二人の間に出来上がった。 カッツェンエルンボーゲン伯は朱唇に笑みを刻んだ。それは見る者全てをゾッとさせるような、凄惨な笑みであった。 「貴殿の配下の者たちはどうした?」 「私が口を割るとでも?」 「口を割らせる方法はいくらでもある。だが、我がラインフェルスの主塔は既にして人質で満員だ。騎士や家士風情から、さほどの身代金が絞り取れるとも思えぬ。探し出すまでもないな。しかし言っておこう、ヴェルフの若殿よ。我がラインフェルスにあっては伯爵さえもさほど珍しい存在ではないし、大事にされるとも限らないということを」 喉を通る料理はもはや何の味もしなかった。けれど脅迫めいたその言葉に怖じまいと、リーンハルトは真っ直ぐに伯爵を見返した。 伯爵は手を打って、騎士を呼び寄せた。 「ヴェルフの若殿はお疲れだ。すぐに部屋にお連れ申せ。城壁塔が良い。その他大勢と主塔に押し込めては、閣下の不興を買おう。特別待遇だ」 特別待遇と言っても、どのみち人質であることに変わりはない。リーンハルトは大仰に溜息を付くと、騎士に促されるその前にと椅子から立ち上がった。 「さて、帝国の皇太子は貴殿の身体に一体幾らの値をつけるであろうな」 伯爵は言って、再び高らかな笑い声を上げた。 リーンハルトは城壁塔に連れて行かれた。 塔の上層部にある牢を振り当てられたのが、せめてもの救いか。塔の地下に作られる牢の環境は限りなく劣悪なものであるからだ。 壁をくり抜かれて作られた壁龕には造りつけの小さな石のベンチがあり、質素ながら寝具が置かれていた。 リーンハルトはベンチに腰をかけ、窓から外を眺めた。 月光に照らされた、父なるライン河が遠くに望める。 ――君のことを悪く言う者たちがいるのは知っているよ、リーンハルト。 ふいに皇太子の声が耳に蘇り、リーンハルトは爪を噛んだ。 「殿下……」 ――君が僕の幼馴染だから贔屓をしているのだとね。中には君と僕とが男女の仲で はないかと穿った考えを持つ者たちさえいる。 そう、手柄を立て、周囲の者たちに認めさせようと思っていた。配下を隣領に留め、一人で斥候を買って出たのもそのためだった。 ――危険な任務だが、どうか無事に戻って来て欲しい。そしてその後はずっと僕の側にいてくれるね。約束だ、リーンハルト。 ヴェルフ家の始祖は皇帝の稚児だったという。 皇帝に纏わりつくその様子が子犬のように見えたのか、或いはその忠義を認められたためか、始祖は名誉なことに皇帝から直々に姓を賜った、それが仔犬(ヴェルフ)。その興り故か、容貌に優れた者が多いことで知られる一族だった。 それ故にリーンハルトと皇太子との仲も、何かにつけて家臣団の中で取り沙汰されることとなった。 二人の関係は、幼馴染で親友、それ以上でもそれ以下でもなかったのだが。 邪な目で自分を見る者たちに実力を認めさせるため、皇太子の傍らに大手を振っているため、リーンハルトは功を焦った。そしてユダヤの黒猫に囚われたのだ。 リーンハルトはベンチの上、膝を抱えて独りごちた。 「ざまはないな、本当に」 ライン河の上に浮かぶ月は、リーンハルトの心とは裏腹に、この上なく美しかった……。 |
つづく |
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