ラインの乙女 3





 一晩寝て起きたその時には、リーンハルトの気分はもう持ち直していた。元々楽観的な性格のため、あまり長い間悩むことができないのだ。
 窓から見える父なるライン河は、朝陽を浴びてきらきらと輝いていた。
 寝癖で乱れた髪を手櫛で整え、器用に一つに括ってしまう。水差しから盥に水を汲み、洗顔を済ますと、もうすることがなくなってしまった。
 河とは反対側にある窓から身を乗り出し、中庭で鍛錬する騎士たちの様子を眺めていると、石造りの階段を上がってくる足音がした。
 やがて扉が開かれ、小さな入り口を潜るようにしてカッツェンエルンボーゲン伯が現れた。
「目覚めの気分はどうであろうか、ヴェルフの若殿よ」
「お陰様で。夢も見ずにぐっすりだ」
「それは幸い」
 カッツェンエルンボーゲン伯と共に現れた騎士は床の上に酒杯と器を直置きすると、一礼して立ち去った。
「食べるがよい」 
 器には丸くて平たい渦巻きパンが入っていた。
 リーンハルトは礼を言って受け取ったが、伯の目の前で食べる気にはなれず、膝の上に置いたままにしていた。
 この時代にあっては、戦に負ける、イコール死とは成り得なかった。ことに高位貴族においては。
 高位貴族は身代金を絞り取るために存在すると言っても過言ではない。紋章入りの鎧を身に付けてさえいれば、命は確実に保障される。
 互いの立場はいつ入れ替わるとも知れぬため、高位貴族は人質先では厚遇された。王侯貴族であれば、連日連夜の接待さえ行われるほどだ。
 しかし身代金の支払いを渋ったり、支払いが滞ったりすれば、著しく待遇が悪くなることは多々あった。
「後ほど羊皮紙と羽根ペンをご用意しよう」
「手紙を書けと? テーブルも用意してもらえると有り難いのだが」
 前述した事情から、リーンハルトもまた気安く我儘を口にした。カッツェンエルンボーゲン伯は軽く頷いて了承の意を示すと、リーンハルトに尋ねた。
「誰宛に書かれる? 奥方か」
「私は独身だ、カッツェンエルンボーゲン伯。家令に書こう」
「珍しいな、伯爵位を持つ貴族が未だ独身とは」
「そういう貴殿の奥方は?  昨夜の晩餐の席ではお見受けしなかったが」
「この城に女主人はいらぬ」
 驚くほど冷たい声だった。
 リーンハルトはいささか驚いたが、それについての言及は控えた。
 午後になってから、脚立に板を乗せただけの簡易な卓と椅子、驚いたことに箱寝台までも運び込まれた。
 リーンハルトは運び込まれた卓を使い、午後の一杯を費やして、二通の手紙を書き上げた。
 一通目は予告した通り、家令宛。虜囚となった不手際についてをくどくどと詫びた後で、およそ遜(へりくだ)った文面で身代金の工面を乞いた。必要であれば、母親の婚資金であったリリエンベルクの領地を売り払っても良いとの指示を与えた。
 二通目は親友である皇太子宛であった。家令宛の手紙とは裏腹、大袈裟な表現は用いず、事実のみを淡々と記し、身代金の工面は自前で行う旨を伝え、心配御無用と書き結んだ。
 自分でも惚れ惚れするような文面に満足したものの、書き終えた時には既に夕刻。リーンハルトは疲労困憊していた。
 だからこそ、疲れ故だと思い込んでいたのだ。夕食を摂るなり、早々に箱寝台に倒れ込んでしまったその理由を。
 ほんの一眠りのつもりが、次に目覚めた時には真夜中で、リーンハルトはようやく異常に気付いた。
 カッツェンエルンボーゲン伯だった。部屋の中央に立ち、リーンハルトを静かに見下ろしていた。消し忘れた燭台の炎が、世にも珍しい琥珀色の双眸に照り返り、伯をよりいっそう魔物じみて見せていた。
 すぐに起き上がろうとしたが、身体の自由が利かなかった。
 伯は箱寝台の端に腰を掛けた。リーンハルトの唇は戦慄(わなな)くばかりで、言葉にはならない。
 カッツェンエルンボーゲン伯は手を伸ばすと、リーンハルトの髪に触れた。
 リーンハルトは双眸を見開いた。こちらが目覚めていることは、むろん承知しているのだろう。けれどカッツェンエルンボーゲン伯は完璧な無表情を保ったまま、リーンハルトを静かに見つめるばかりだった。
 白い指がリーンハルトの顔の輪郭を辿り、やがて顎から唇へと上がる。びく、リーンハルトは小さく身体を震わせた。
 あるかなきかの仄かな微笑が、カッツェンエルンボーゲン伯の美しい唇を掠めた。
 伯は身を屈めると、リーンハルトの唇に己の唇を重ねた。
 けれどそれはほんの一瞬のことで、カッツェンエルンボーゲン伯は立ち上がり、牢を後にした。混乱するリーンハルトをそのままに。
 後に残ったのは、乾いた唇のその感触だけだった――。





「九柱戯、ご存知かな」
 突然塔から連れ出されたその理由は、遊戯の面子が足りぬという、何とも呑気なものだった。
 油断させ、隙を見て……と思ったものの、跳ね橋は上げられ、門には歩哨が立ち、屈強な騎士たちに囲まれているというこの状況下では到底逃げおおせるものではない。
 だが、狭い塔暮らしは身体が鈍る。一時の落胆が去るや、リーンハルトは気を取り直し、その新しい遊戯に没頭した。
 それは九つの柱(ピン)を並べて立て、そこに向けて球を転がし、何本倒せるかを競う遊戯であった。伯と騎士たちは常日頃からその遊戯に親しんでいるらしく、腕前は確かだった。
 負けず嫌いのリーンハルトはすぐに熱くなり、一投でいかに多くの柱を倒せるか、その一点に集中した。
 伯は初めて会った時と同様、冷淡でそっけなかったが、遊戯の間だけは僅かに人間味を見せた。騎士たちとのやりとりを見る限り、暴君という訳でもなさそうだった。力、もしくは金子のみで従わせているのなら、このような和やかな雰囲気を醸しだすことは出来ないだろう。
 しかしこの男は兄殺し、簒奪者なのだ。決して気を許すな、とリーンハルトは再び自らに強く言い聞かせた。
「ほう、なかなかの腕前だな」
 伯はリーンハルトのすぐ後ろに立つと、九柱戯の腕前を褒めた。
 リーンハルトは複雑な思いで、カッツェンエルンボーゲン伯を見た。
 あれからリーンハルトは食事に注意するようになった。薬を盛られたのではないかと疑ったのだ。
 しかしあの夜以来、食事におかしな味がすることも、伯に枕元に立たれることもなかった。
 幾日か経つうちに、確かに残っていた唇の感触も無くなり、リーンハルトもあれは悪い夢ではなかったかと思い始めていた。
 今ここでこうして傍らに立っている伯は、リーンハルトへの興味をおくびにも出していなかった。身分の高い人質に対して、城主ならばこうするであろう態度を保っている。
「では、私も」
 カッツェンエルンボーゲン伯は球を手にすると、優雅な動作で一投した。球は真っ直ぐに地面を転がっていき、九本の柱を一度に倒した。
「お見事」
 リーンハルトの賞賛の声を、仄かに笑んで受けたその表情があの夜の微笑と重なる。リーンハルトは堪らず視線を逸らした。
「ああ、忘れるところであった。貴殿の手紙の返事がさっそく届いていた。失礼だが、先に目を通させて頂いた。後ほど貴殿にもお目にかけよう」
 人質の立場であれば、抗議をすることさえも出来なかった。どのみち身代金の交渉は自分ではなく、カッツェンエルンボーゲン伯とするものなのだから。
 リーンハルトは再び広間へと招かれた。
「貴殿はたいそう皇太子に愛されているようだな。私宛に直々の文を頂いた」
 覚えのある筆跡を見せられ、リーンハルトは思わず椅子から立ち上がった。
 カッツェンエルンボーゲン伯は鼻を鳴らし、リーンハルトの目の前にその手紙を置いた。
 震える手で手紙の内容に目を通す。リーンハルトの思いとはまるで逆、皇太子は何年掛かろうとも言い値で身代金を払うが故、早くヴェルフ伯をお返し頂きたいと乞いていた。
「そして貴殿の郷里(くに)からも届いている。これも内容は同じだな。言い値で払うが故に若殿をお返し願いたいと」
 カッツェンエルンボーゲン伯は香辛料入りの葡萄酒を一息に煽ると、楽しそうに言った。
「この私に向かい、言い値で払うと公言するとは。どうやら血の最後の一滴までも搾り取られたいようだな」
 リーンハルトは鼻白んだ。ともすれば荒々しくもなりかねない語気をつとめて押さえて、リーンハルトは言った。
「皆、言っている。カッツェンエルンボーゲン伯の望みは塔を金貨で埋め尽くすことだと。何故だ、何故そんなにも金貨に固執する」
「愚問だな。この世は金貨が全てであろう」
「私はそうは思わない。金貨よりももっと大事なものがこの世にはある筈だ」
「では、ご教授頂こうではないか、ヴェルフの若殿よ。金貨よりも大事なもの、それは何だ」
「知れたこと、家族、友、それに主君」
「家族だと?」
 カッツェンエルンボーゲン伯は再び嘲るように鼻を鳴らした。リーンハルトはもはや黙っていることが出来なかった。
「だから噂されるのだ、浅ましきユダヤの黒猫と」
「私は、私に流れるユダヤの血を恥じてはおらぬ。だから気分を損ねたりもせぬ。だが――」
 卓に肘をつき、指と指とを組み合わせた上に顎を乗せ、上目遣いにカッツェンエルンボーゲン伯は言った。その妖しい黄金(きん)の瞳には世にも危険な色が宿っていた。
「貴殿はきっと良い環境でぬくぬくと育ったのであろうな。名門ヴェルフ伯爵家の跡取り息子、皇太子の遊び相手として望まれて皇帝城に上がったと聞く。皇太子の後ろ盾の下、順風満帆。世の穢れを何一つ知らぬ」
 カッツェンエルンボーゲン伯はゆっくりと立ち上がった。
 戻れという合図だろうか。元より夕食を共にしようという気にはなれなかった。好都合とばかり、リーンハルトも伯に倣って立ち上がった。
「私はこの世の生き地獄を見た男。私が見た地獄をぜひ貴殿にも味わってもらいたい。その上で、再び問おうではないか。それでもまだ同じ言葉を言えるのかと」
 リーンハルトは自分の発言がカッツェンエルンボーゲン伯の怒りを買ったことに気が付いた。何故なら伯は手を打つと、騎士にこう告げたからだ。
「ヴェルフの若殿を地下牢にお連れ申せ」





つづく
Novel