ラインの乙女 10





 隣街で馬を借り、リーンハルトは夜通し馬を走らせた。
 長い夜が明け、馬が口から血の混じった泡を噴き始めたことに気付くと、リーンハルトはようやく休息を取ることとした。
 前方の崖の上にひどく女性的な感じのする瀟洒な城があった。
 通りかかった領民に城主の名を問うと、シュタインベルク女伯の物との答えが返ってきた。
 その名を聞いてリーンハルトは息を飲んだ。知り人であったからだ。
 リーンハルトは馬を下りると轡を取り、城に続く長いつづれ折りの坂を徒歩で上がった。城門前で歩哨にその身分を明かすと、すぐに広間へと招かれた。
 ややあって広間に現れたのは、美しい女城主だった。
「こうしてお目にかかるのは初めてね、元婚約者殿」
 それはシュタインベルクの女伯爵、エレオノーレ・フォン・シュタインベルクであった。
「そして肖像画よりも美しい殿方にお会いしたのも初めてだわ。残念でならないわ、貴方の妃になり損ねたことが」
 そう言って笑う女伯爵は、既婚夫人の証となる頭巾(ウィンプル)を被っていた。
 彼女は跡継ぎの弟が亡くなったため、婿を取り、弟に代わってシュタインベルク伯の座に就いたのだ。そのために、ヴェルフ伯爵家の跡取りであったリーンハルトとの婚約も同時に解消された。
 元より親同士が決めた婚約であり、一度も会うこともないまま婚約は解消されたため、互いの間には何のわだかまりもなかった。
「ラインフェルス城からいらっしゃったそうね。ご立派だわ。あのディートリヒの懐から逃げ出して来るなんて」 
「知っているのか、カッツェンエルンボーゲン伯のことを」
「ええ、恐らくこの世の誰よりも。わたくしは貴方と婚約をする前は、フリードリヒ・フォン・カッツェンエルンボーゲンの婚約者だった。わたくしはラインフェルス城で育ったの。だからわたくしとディートリヒは兄妹のようなものよ」
 フリードリヒ・フォン・カッツェンエルンボーゲン、戦の怪我が元で死んだという伯の長兄だ。
 婚家の家に馴染む為、相手の城で育つ。それはこの時代、よくある話であった。
 共に育つと顔立ちまで似てくるのだろうか。エレオノーレの緑玉の瞳は伯のそれとよく似ていた。女伯はその猫を思わせる緑玉の瞳で、じっとリーンハルトを見ていたが。
「率直に申し上げるわ。ディートリヒは貴方に特別な興味を抱きはしなかったかしら」
 リーンハルトは弾かれたように顔を上げた。それを肯定の印と取ったのか、エレオノーレは深々と椅子にその身を沈め。
「そうでしょうね。だって貴方はラインの乙女に似ているもの」
「ラインの……、乙女?」
「わたくしとディートリヒとで付けた名よ。ラインの乙女は岸辺にさ迷い出ては、世にも美しい声で歌ったものよ。それはいつも決まって満月の晩で、わたくしとディートリヒは岩陰に身を潜め、その歌声に聞き惚れた。貴方はそのラインの乙女に少し似ているわ」
「ローレライの魔女のことだろうか」
 それはカッツェンエルンボーゲン伯のお膝元、ザンクト・ゴアハウゼンの地に伝わる古い伝説だった。
 ローレライは美しい少女の姿をした水の精である。岩山の上で美しい歌声で歌い、船乗りを惑わし、船を沈没させてしまうのだ。
「ローレライの魔女はただの伝説、ラインの乙女は実在したわ。わたくしの言うラインの乙女とは、ディートリヒの母親のことよ。恋人と引き離され、親子ほど歳の離れた男の妾にされ、子供を産まされ、……狂ったの」
 伯がユダヤ商人の娘との間に生まれた庶子だという話は聞いていた。病死したとも。
 けれどもよもや狂っていたとは――。
「貴方とわたくしは浅からぬご縁。新しい馬と金子をお渡しし、安全地帯まで騎士たちの護衛を付けましょう。ディートリヒは執念深い方よ、どうか油断はなさらないで?」
「どのような子であったのだ、伯は」
「わたくしはディートリヒに初めて会った時、どこの下働きかと思ったわ。二人の兄に小突き回され、ひどい虐待を受けていた。汚れ擦り切れた服を身に付け、生傷が耐えなかった。けれど決して泣かず弱音を吐かないものだから、泣いて慈悲を乞う姿が見たいと――。その繰り返し。ディートリヒがカッツェンエルンボーゲン伯となり次兄のハインリヒを嬲り殺しにしたと聞いた時、わたくしは心の中で快哉を叫んだものよ。そう、ディートリヒがやらなければ、わたくしがしていたかもしれない」
 エレオノーレはだしぬけに立ち上がると、リーンハルトに言った。
「昔話をしていると長くなるわ。先をお急ぎね。旅の準備をしながらお話しましょう」
 エレオノーレは厩に向かうと、リーンハルトに馬を選ばせた。
 リーンハルトが一頭の栗駒を選ぶと、小姓に命じて、鞍を置かせ、鐙を付けさせた。
「ディートリヒには申し訳なく思っているわ。わたくしは許婚の名を借りた体の良い人質で、ディートリヒはあの兄弟の奴隷だった。わたくしは幼い頃からあの兄弟の玩具にされてきたわ。処女を失ったのがいつなのか思い出せないほどの小さな頃から。けれどわたくしが初潮を迎えて、あの兄弟の関心はわたくしからディートリヒに移ったの」
 生々しい女の生理をさらりと口にするエレオノーレ。リーンハルトは口篭りつつ、それでも問いた。
「……何故だ」
「単純な理由よ、男なら妊娠しないもの。結婚前に婚約者を孕ませるのは外聞が悪い。ましてや兄弟どちらの種か判らない、なんてことになったら困るでしょう」

――私はこの世の生き地獄を見た男。私が見た地獄をぜひ貴殿にも味わってもらいたい。

 そう伯は言っていた。リーンハルトはそれを地下牢で過ごした日々のことだと思い込んでいた。伯も又あの地下牢に入れられた経験があるのだろうと。
 だが、そうではなかったのた。 
 伯が見た地獄とは、むしろその後――。
「逃げ出すこともできたでしょう。けれどディートリヒはそれを良しとしなかった。何故ならあの城にはラインの乙女が居たから。ラインの乙女の側に居たいがため、あの方はその虐待に耐えた」
 栗駒に鞍覆いが掛けられ、帯で腹に止められる。準備が整ったところで、馬は中庭に引き出された。
「前伯爵は新しい妾を手に入れると、ラインの乙女を打ち捨てたわ。扱いは徐々に悪くなり、長兄のフリードリヒが亡くなり、わたくしがシュタインベルクに返されたその頃には、城の一室に軟禁されるようになっていた。郷里に帰れることは嬉しかったけれど、わたくしはディートリヒとラインの乙女のことが気がかりだった。わたくしとディートリヒの間に恋愛感情はなかったけれど、互いが互いを盟友と思っていたから」
 エレオノーレは充分すぎるほどの金子をリーンハルトに手渡した。布袋はずっしりと重く、リーンハルトは固辞したが、エレオノーレは頑としてそれを撥ねつけた。
「だからそれからのことはすべて風の噂。ラインの乙女は放置されて亡くなり、怒り狂ったディートリヒがハインリヒを弑したと聞いたわ」

――ディートリヒは狂っているのかもしれないわ。

 豪奢な毛皮を身に付け、塔を金貨で埋め尽くしても、ラインの乙女は還らない。
 あの方の心は空っぽ。その虚無があの方を異常なまでの拝金主義へと駆り立てている。
 帝国のすべての人間があの方を非難したとしても、わたくしは彼を庇うでしょう。
 だって皆、あの方の傷の深さを知らないのだから。



 急峻なつづれ折りの坂を下り、リーンハルトはライン河の畔に立っていた。護衛に付いた騎士たちを待たせ、とうとうと流れるラインを眺めた。
 このままラインの岸を下流に進めば皇帝城、上流に戻ればラインフェルスの城がある。
 リーンハルトは馬上よりライン河の上流を顧みた。
 そして再び馬首を巡らせると、馬に勢いよく鐙を掛けた。

 皇帝城に向かって――。





つづく
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