ラインの乙女 8





 太古の昔、ゲルマンの民族は今より遥か北方に住んでいたという。冬の寒さは厳しく、氷河を渡る狼は寒さのために失明した――。
 その太古の記憶が血脈に流れているのだろうか。ゲルマンの民族は短い夏を熱狂的に愛する。そう、夏の到来を告げる夏至は特別なのだ。
「少し残念な気もするが」
 カッツェンエルンボーゲン伯はそう言いながら、手ずからリーンハルトの首輪を外した。床の上にはリーンハルトの新調された衣装があった。夏至祭りに備え、伯がわざわざ誂えたのだ。
「客人の前で、そのような姿を見せる訳にはいかないからな」
「貴様にも人並みの常識があるようで安心した」
「すぐに湯浴みの準備をさせる。晩餐は終課の鐘が鳴る頃だ。それまでに支度を整えておくといい。ジークを迎えに出そう」
「至れり尽くせりだな」
「人質を杜撰に扱っているとは思われたくないからな。今宵の祝宴の噂はいずれ皇帝城にも届こう」
 リーンハルトは肩を竦め、けれどそれについての言及は控えた。今日ばかりは伯を刺激したくなかったからだ。
 牢に盥が運ばれ、リーンハルトは下女の手により湯浴みを済ませた。リーンハルトの黄金の髪は下女の手により丁寧に梳かれて、「魚の骨」と言われる独特の編み方で結われた。
 伯が誂えた服は高価な天鵞絨で、青色に染められたそれはリーンハルトの青玉の瞳によく映えた。白貂の縁取りのついたマントを羽織ったところで、ジークが迎えに現れた。
「盛況なようだな」
「はい、いつにも増して」
 搭から外に出るには梯子を下りなくてはならない。中庭に渡された梯子を下りると、既に跳ね橋は下ろされており、続々と中庭に領民が集まり始めていた。それらを横目に広間のある居館へと向かう。 
 歩きながら、リーンハルトは徐々に自信を取り戻しつつあった。ヴェルフは古い家柄、歴代の皇帝と共に歴史を紡いできた。新興のカッツェンエルンボーゲンがいかほどのものか。
 ヴェルフ家の当主としてふさわしき姿を見せよう。
 広間に辿り着くなり、先触れがリーンハルトの来訪を告げた。
「ヴェルフ伯爵閣下、リーンハルト殿にございます」
 扉が開かれた途端、眩いばかりの光がリーンハルトの目を灼いた。常は広間を仕切り暖かくするために下げられているつづれ織りが全て壁際に飾られていた。煤で部屋を汚すと室内では敬遠される篝火が四方八方で焚かれ、昼のような明るさを作り上げている。
 壁の上方には城主であるカッツェンエルンボーゲン伯の猫の紋章が描かれた盾と家臣の盾とがずらりと掛けてあり、その取り取りの色彩が広間を華やかにしていた。
 そして何よりリーンハルトを驚かせたのは、広間を埋め尽くす人、人、人。皇帝城と言えども、これほどの数の人を目にしたことはなかった。並みの王冠(諸侯)が威張りすぎていると言われる帝国の実情が浮き彫りになっているとも言えた。
 広間の奥には、王座然とした椅子の横に起立するカッツェンエルンボーゲン伯の姿があった。裾を引き摺るほど長い、豪奢な黒貂のマントを身につけた伯は威厳に満ち、美しかった。
 広間には花と香水がふんだんに撒かれ、花園のような良い匂いがした。その花弁を踏んで歩き出しながら、リーンハルトは王座に向かった。人垣が割れ、あのヴェルフ家の……、と人の波から囁きが漏れる。
 そう、私はヴェルフ家のリーンハルトだ。皇帝の稚児を始祖に持つ。恥じる事は何もない。
 リーンハルトが王座然とした椅子に辿り着くと、カッツェンエルンボーゲン伯は身を引いて一礼し、王座を薦めた。
――上座を譲るか。
 天井知らずの自尊心を持つかのようなカッツェンエルンボーゲン伯が上座を譲ったことにリーンハルトは驚きを隠せなかった。
 しかしこれこそが騎士道。
 リーンハルトは悠然と椅子に腰を下ろした。すぐに一人の騎士が竪琴を手にリーンハルトの前に進み出た。
「お目にかかれて光栄でございます、ヴェルフ伯爵閣下」


 川も、泉も、せせらぎも
 綺麗な揃いのお仕着せか、
 水滴の銀の細工を身にまとい、
 誰もが衣をあらためる。
 季節がマントを脱ぎ捨てた。


 騎士が歌い終えると同時、割れんばかりの拍手が広間に木霊した。
 誰であるかは問うまでもなかった。レオポルト・フォン・ブラウバッハ。聖エリザベート伝説で名高いヴァルトブルク城で行われた歌合戦の勝利者である彼は、今帝国で一番所望されている恋愛歌人だった。
 ブラウバッハはその後、古代ゲルマン伝説をモティーフにした叙事詩を高らかに歌い上げ、再び満場の拍手を呼んだ。
 リーンハルトの元に小姓が現われ、月桂の葉で作られた冠をうやうやしく捧げた。その意図を悟ったリーンハルトは立ち上がると、ブラウバッハに月桂冠を授けた。
「有り難き幸せにございます」
 ブラウバッハは喜びに頬を紅潮させながら礼を述べ、リーンハルトは一瞬自分が置かれている立場を忘れた。
 恋愛歌人が下がった後は無礼講となった。ヴァイオリン弾きからなる楽団が登場すると、舞踏会が始まった。老いも若きも男も女も踊りに加わり、椅子に残っているのは、リーンハルトとカッツェンエルンボーゲン伯の二人だけだった。
「踊らないのか、カッツェンエルンボーゲン」
「そういう貴殿は?」
「私は虜囚の身だ。好き勝手に動き回る訳にはいかないだろう」
「許可しよう」
 リーンハルトが立ち上がると、人垣が割れた。宮廷仕込みの危なげのない足取りで、踊りの中心に向かっていく。
 恐らく貴賓の中で一番身分の高い貴婦人(ミンネ)がリーンハルトを待ち構えていた。貴婦人の手を取るなり、新しい曲が流れだした。
 曲は二拍子の軽快な曲で、男女それぞれが一列に並び、それぞれ相手を代えて踊っていくものだった。
次々と相手を代えて踊りながら、リーンハルトは伯を見ていた。何としてでも脱走の機会を作りたかった。そのためには伯の目を盗む必要があった。けれど伯は椅子に腰を掛けたまま、その魔物じみた琥珀の瞳でじっとリーンハルトを見つめている。
 リーンハルトは顎を引いて伯を誘った。踊らないか、と――。
 すると伯がおもむろに立ち上がった。ざわっ、何故か大広間にどよめきが走った。
「これはお珍しい。殿が踊られるとは」
 聞き覚えのある声がすぐ近くでした。ジークだった。柱の影で驚いたように瞳を見開いている。
 伯がふいに加わったがために奇数となり、ちょうど列の一番端にいたリーンハルトは伯の手を取ることとなってしまった。 
「珍しいそうだな、貴様が踊るのは」
「貴殿があまりに楽しそうに踊っているのでな」
「最初のお相手が私で残念であったな」
 踵を鳴らしてターンする。ターンしたところで、再び互いの手を取った。
「いや、そうでもないな」
 手を取り、数歩歩き、再びターン。すれ違いざまに伯は囁いた。
「妃、妃と煩い貴殿に教えておこうか。私が人を抱いたのは、実に五年振りのことなのだ」
 思わずステップを踏む足が止まった。伯はリーンハルトの手を引いて、腕の下にくぐらせた。
「私は母が死んでからずっと喪に服していた。それを苦に思ったことは一度もなかった。だが――」
 ターン。
 そして伯の相手は見目麗しい貴婦人に代わった。





つづく
Novel