ラインの乙女 9





 広間の盛り上がりは最高潮に達していた。
 リーンハルトは伯に前置きをした上で、懇意の騎士であるジークを掴まえて厠(かわや)への案内を乞いた。
 伯が北海より取り寄せた貴重な海の幸、ムール貝に当たったかもしれないと付け加えるのも忘れなかった。
 居館の厠はここに初めて連れて来られた日に使ったことがあった。
 小さな張り出しに作られた穴だが、張り出しの上方に換気のための小窓があった。
 屈強な体格を持つ騎士ならば到底無理であったろう。幸いにしてリーンハルトは細身だった。
 リーンハルトは組み合わされた石の僅かな凹凸を足掛かりにして、小窓から外へ出た。
 厠の遥か下方には空堀。
 足を滑らせたら最後、頭をかち割って死ぬか、さもなくば不具の身となることだろう。
 リーンハルトは慎重の上にも慎重を期して、厠の上に上がると、雨樋を伝って居館の屋根によじ登った。
 常ならば見咎められるであろう屋根の人影だが、リーンハルトが睨んだ通り、祭りの最中の警備は手薄であった。
 リーンハルトは身を屈めて屋根伝いに歩いて行き、再び居館に入り込んだ。
 厠の上、居館の三階部分は城の住人が居住する場所だが、宴たけなわの今、誰もいないはずであった。
 リーンハルトはそのまま跳ね橋へ向かうという愚行は冒さなかった。伯が誂えた豪華な衣装、それが今のリーンハルトにとっては大きな足枷となっていた。
 何かないか、何か――。
 リーンハルトは手当たり次第に部屋の扉を開けた。
 最初の部屋は武器庫であった。あまり大きな得物では目立ってしまう。リーンハルトは手頃な大きさのナイフを手にすると、腰帯にそれを付けた。
 隣の部屋は空き部屋で、リーンハルトは落胆した。次に飛び込んだ部屋には僅かに望みがあった。
 古びた長持ちの上に古着や襤褸などが無造作に放置されていた。叶うものなら領民の物が望ましかったのだが、かつての城の住人の物らしく、時代物の、けれども豪華な服がほとんどだった。
 急がないと厠から抜け出したことを悟られる。一度(ひとたび)騒ぎになれば、一巻の終わりだ。
 焦って服を物色するうち、女物のその服が目を引いた。
 古い。古いが、人目を引くほどではない。恐らく領民の物だったのだろう。ちょうど村娘が母親の一張羅を身に付けて夏至祭りに現れた、そんな印象を受ける服だ。
 服を取り上げ、身体に合わせてみる。
 長身の女の持ち物だったのだろう。男の自分が着れば短かろうが、着れぬほどではない。昼間なら、或いは奇妙な印象を受けるかもしれない。けれど今は夜で、一年に一度の夏至祭りの真っ最中。

――いけるかもしれない。

 結い上げた髪を解(ほぐ)し、未婚の女らしく編まずに垂らした。
 上着の上から引き裾を羽織り、履いている長靴が見えないようにした。歩きにくい事この上ないが、自分の足に合う女物の靴がなかったのだ。
 身支度を整えると、リーンハルトは素早く部屋の外に出た。
 壁をくり抜いて造られた窓から外の様子を伺う。
 中庭は領民たちで埋め尽くされ、皆陽気に農民の踊り――回ったり、景気良く跳ねたりする――を披露していた。
 見張り役の騎士がいないことを確めてから、リーンハルトは居館の階段を駆け下りた。 
 誰にも見咎められることなく、居館を脱出できたのは望外の幸運だった。
 リーンハルトは中庭を埋め尽くす領民の輪の中に飛び込んだ。幾度となく人とぶつかり、もみくちゃにされながら、跳ね橋を目指す。
 もう少し、後少しだ。
 ようやくのことで人の群れから脱出し、跳ね橋に足を踏み入れたその時、だしぬけに手首を掴まれた。
――見咎められたか!
 リーンハルトは覚悟を決めて振り返った。
 驚いたことには、リーンハルトの手を掴んでいたのは、尖り帽子を被り、長い白髭をたくわえたユダヤの老人だった。
 瞬時に気が付いた。この城に初めて連れて来られた日、廊下ですれ違ったあの老人だと。
 老人はあの時、しげしげと自分を眺めていた。だからこそ、リーンハルトに気付いたのだろう。
 リーンハルトは掴まれた手首を必死で振り解こうとしたが、枯れ枝のような風貌を持つ老人はしかし万力のような力でリーンハルトの手首を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。
 リーンハルトは観念し、囁くように言った。
「見逃せ。――必ず礼をする」
 金で動くユダヤ人、そんな偏見が心の奥底にはあったのかもしれない。
 ユダヤ人を保護しようという領主は数少ない。その貴重な存在を裏切ってまで、老人がリーンハルトを見逃すはずもなかったのだが。
 老人はまるで信じられない物を見るような目付きで、リーンハルトを凝視していたが、やがて唐突に手を離した。
 次の瞬間、老人の口から驚くべき言葉が飛び出した。
「ラインの流れに沿って下流に向かうと、ダビデの星印の付いた艀(はしけ)が繋がれてございます。これを見せれば、船頭が貴方様をお乗せします。ただ一言言って下さい、下れ、と」
 老人は首に掛けていたペンダントを外すと、それをリーンハルトの手に握らせた。ペンダントの先には金貨を半分に割った物が付いていた。
「お気をつけて」
 リーンハルトは弾かれたように走り出した。
 跳ね橋を渡り、狭い、曲がりくねった急坂を駆け下りる。
 ラインの岸辺に辿り着いてもなお、リーンハルトは我が身に起こった僥倖を信じられずにいた。
 罠かもしれぬ、とも思った。だが、これほど手を込んだ罠を仕掛ける必要がどこにあるのだろう。あの時、老人が声を上げさえすれば、それで事足りたのだ。
 潅木の生い茂る岸辺に沿って歩いて行くと、果たしてその艀はあった。平べったい屋形船であった。
 岸辺の気配に気付いたか、屋形船の中から若い男が現れた。リーンハルトは俯き加減に、男にペンダントを差し出すと言った。下れ、と。
 声音ですぐに男と知れた筈だった。けれど男は顔色一つ変えずペンダントを受け取ると、身振りだけで屋形船に乗るよう促した。
 リーンハルトは船首に腰を下ろした。
 屋形船はすぐに岸辺を離れ、ライン河をゆっくりと下り始めた。見上げる崖の上にはラインフェルス城。徐々に小さくなっていくその威容を見て、リーンハルトはほっと息を付いた。
 その時だった。
 岸辺を駆ける馬の蹄の音が聞こえてきたのは――。
 カッツェンエルンボーゲン伯であった。自(みずか)ら先陣を切って馬を駆けさせつつ、背後に二騎を従えていた。 
 伯は艀を認めると、馬を停め、馬上から弩(アルムブルスト)の矢をつがえた。
 近距離であれば、鉄甲冑さえも貫く弩の矢。鋭い風切り音と共に、矢はリーンハルトが立つ船首部分に命中した。衝撃で、小さな屋形船は大きく傾いだ。
「次はその胸を貫くぞ!」
 脅しではないその証拠に、伯はリーンハルトの胸に弩の照準を合わせた。
 進退窮まったリーンハルトを救ったのは、雲だった。
 むら雲が月に掛かり、辺りは一瞬真っ暗になった。リーンハルトはその隙に荷の影に身を潜めた。
「戻れッ! リーンハルト!」
 リーンハルトは祈るような思いで月を見上げていた。雲は再び風に流され、月が顔を覗かせるのは、もはや時間の問題だろう。荷の影から岸辺を伺う。
 リーンハルトはそこに信じられない光景を見た。
 先程リーンハルトにペンダントを渡したあの老人が伯に後ろから躍りかかったのだ。均衡を崩し落馬した伯から弩を掴み取り、何事かを叫んでいた。
 危ない! リーンハルトは思わず船首から身を乗り出した。が、船頭は委細構わず、艀を下らせている。
「良いのか」
 思わず尋ねてしまっていた。
「良いのです。このペンダントを持つ者の言葉には、誰であれ必ず従うように言われております」
 虐げられ差別される、国を持たぬユダヤの民。それ故に有事の優先事項は常に定められているのだろう。
 岸辺で揉み合う二人の姿はみるみるうちに小さくなり、河が大きく蛇行する場所に来ると、完全に見えなくなった。 
「その姿では目立ちましょう。船内に着替えがございます。着替えられたなら、次の街で馬をお貸しいたしましょう」
 未だ安心はできなかったが、ともあれ無事脱出は果たした。喜ぶべきなのだろう。
 だが、伯に逆らったユダヤの老人のその後を思うと、リーンハルトは暗澹たる気分にならずにはいられなかった……。





つづく
Novel