薔薇の冠 1





 初めは、酒に耽溺する父を助けたいと思っただけだった。
 疼くと言われて握った。出したいと言われて扱いた。こうするともっと気持ちが良いのだと乞われるままに含んだ。
 ついに最後の一線を越えてしまうと父はいよいよ見境をなくした。
 母に、使用人たちに知られる事を恐れ、シーツを噛んで懸命に声を殺す。
 豪奢な天蓋の、精緻な彫刻が施された柱の御簾の中で行われるその禁忌。

 その行為が続く間、ただひたすらにその男を憎んだ。
 あの男、あの男のせいだ。あの男さえいなければ……。

 憎むべきは人の道を踏み外した父であろう。浮気な母であろう。
 けれど幼かった自分はそう思わなければ耐えられなかったのだ。

 あの男さえいなければ――。



 りんりん りんりん 金ぴかりん
 ラインの城には どなたがおわす
 城におわすは 猫伯爵

 何としてでも 通しません
 金貨積まねば 通しません



 墓地に子供たちの弾けるような笑い声が上がる。
 伯爵家お抱えの御者の手を借りて馬車から降り立つと、カッツェンエルンボーゲンは馬車の横腹に描かれた紋章を顧みた。
 紋章にあしらわれた動物は猫。猫伯爵と呼ばれるカッツェンエルンボーゲン伯爵家の紋章である。
 子供たちは輪を作って回りながら、ちらちらとカッツェンエルンボーゲンを伺い見ている。
 カッツェンエルンボーゲンはうっすらと唇に笑みを刷くと子供たちを見返した。再び弾けるような子供たちの笑い声が上がる。



 りんりん りんりん 金ぴかりん
 業突く張りの 猫伯爵
 塔を金貨で埋めたとさ



 歌い踊る子供たちの横を通り過ぎ、墓地の奥へと向かう。歌声は更に大きくなり――。



 りんりん りんりん 金ぴかりん
 ラインの塔には どなたがおわす
 塔におわすは 子犬伯


 何としてでも 出られません
 塔からどしても 出られません

 りんりん りんりん 金ぴかりん
 向こう見ずの 子犬伯
 塔を涙で埋めたとさ



 前方に先客が居た。足を止めて相手を誰何する。
 まず目に入ったのは鳶色だった。鳶色の髪を揺らして振り返ったその人物はやはり同じ色の瞳を持っていた。
「私の出自をよく知っていると驚いたが、原因は貴公か」
 一歩下がり、跪き、頭を垂れる。
「無防備ではございませんか、供も連れずに。……殿下」
 冬枯れの墓地に佇むのは、国王ジキスムント・フォン・ラインラントの第一子、ルドルフ王子殿下であった。
「私はもう殿下ではないよ、ただのファルケンシュタイン伯爵だ。知っているだろう、カッツェンエルンボーゲン」
 久方振りに会うルドルフ王子は意外なことに元気そうであった。
 ラインラント国王ジキスムントの正当なる第一子であるが、国王の二番目の妃マリア・カタリーナが第二子ジークヴァルトを産み落としたことにより、王子の地位を剥奪され庶子となり、ファルケンシュタイン伯爵を名乗るようになった。
 庶子とされた後、宮廷でその姿を目にすることは稀となっていた。
「閣下の母君はヴェルフ伯爵家のお生まれでございましたね。閣下の出自をあの子らが知っていれば、さぞや喜んだ事でございましょう。これで猫と犬が揃ったと」
 ヴェルフ、それはこの国の言葉で「子犬」の意味を持つ。
 遠い昔、ヴェルフ伯がカッツェンエルンボーゲン伯の虜囚となった時代にこの歌は作られ、猫と犬の対比の妙故か、それから何百年もの長い間子供達の間で歌い続けられたのである。
「ヴェルフのお祖父様は言っておられた。子供の頃から、さんざんこの歌を歌われ囃子立てられ参ったと」
「それは私もご同様でございます。何代も前の先祖の所業を何百年経った今尚囃し立てられ続ける。けれどもその拝金主義の先祖のお陰で、今の私はカッツェンエルンボーゲンを名乗れているのですから、その汚名もやはり甘んじて受けるべきなのでしょう」
「どちらが外聞が良いのだろうな。塔を金貨で埋めるのと涙で埋めるのは」
「拝金か泣き虫か? でございますか。それを私に問われるとは」
カッツェンエルンボーゲンは笑い、再び目指す墓に向けて歩き出した。王子と自分が訪れる墓は同一。確かめずとも判っていた為である。
「いつか我がラインフェルス城に、……閣下。閣下の先祖が滞在したかの城壁塔はまだ現存しております」
「そう、もしも国王陛下より遠出の許可が得られたのならば」
 髪と同色の王子の鳶色の瞳に暗い翳りが落ちる。
 事実上の軟禁状態にあると聞いていた。
 当の本人に王冠への野心がなくとも、彼を担ぎ出そうとする貴族は後を絶たない。
 教皇庁が国王の最初の婚姻を無効にしようとも、その婚姻が神父立会いの元に行われた事は動かしがたい事実であり、ヴェルフは古く由緒正しい家柄だ。
「陛下をどう説き伏せたら良いものか。今や市門を出ただけで謀反を疑われる有様だ」
 カッツェンエルンボーゲンは片眉を上げた。逡巡は一瞬、ゆっくりと口を開く。
「閣下、口にはどうかお気を付けられるよう」
「ああ、すまん。久し振りに貴公に会ったせいかな、気が緩んだ」
 緩く首を振って謝罪の言葉を否定する。
 カッツェンエルンボーゲンはこの王子の素直な気質、感じやすいその一面を好ましく思っていた。それは恐らく生まれ持っての物なのだろう。けれど苦難の多かった王子の半生を鑑みれば、その気質を損なう事なく今尚持ち続けていることはまさに驚異に値する。
 けれど――。
 カッツェンエルンボーゲンは悲しく思った。その気質は生き馬の目を抜く宮中にあってはむしろ欠点となるのだ。
「母なら、そう我が母ならこう言ったのではないでしょうか。『殿下、貴方の首の上にあるものは何ですか』と」
「頭を使って考えろと? 」
 言葉に塗された皮肉の棘。気付かぬ筈はないだろう。けれど王子はあっさりと首肯し。
「言っただろうな、あの方ならば。あの方は歯に絹きせぬ方。世にも聡明で、世にも変わった、そして世にも美しい方だった」
「そう、変わっていました。そして死に方も又変わっておりましたね」
 互いに行き先を確かめるまでもないのは道理、今日は彼女の十年目の命日であった。
「あの日、彼女は私の部屋に現れなかった。私は彼女の授業を楽しみにしていたから、椅子に腰を掛け彼女が訪れるのをいつまでも待っていた。日が傾き、辺りが夜の帳に包まれるその時まで」
「母は時間に正確な人でした。ですから殿下の部屋には行きたくても行けなかったのでしょう。閣下が椅子に腰を掛け母を待っていたその頃、私は母を見つけておりました。頭は柘榴のように裂け、周囲にはおびただしい血。にわかに母とは判らないほどでした。そして顔は……」
 驚いたことに先客は他にもいたらしい。目指す墓の前には白薔薇の花束が供えられていた。
 供えられてからまださほど時間は経っていないらしい。花の芳香は未だ強く、白い花弁には朝露が光る。
「めちゃくちゃにされていた、と聞いた」
 落ちた沈黙をためらいと取ったのか、王子がカッツェンエルンボーゲンの言葉の続きを引き取った。
「私があの時もう少しだけ大人だったのなら、いや当時の私にもう少し力があれば、必ずや下手人を捕らえたのに」
 カッツェンエルンボーゲンは答えず、墓前の花束を手にした。くん、と鼻を蠢かせる。
 辺りには花とは明らかに違う別の香りが漂っていた。どこかで嗅いだ匂いのような気がした。どこかで……。
 どこで、だったか。
 瞳を瞬かせる。
「カッツェンエルンボーゲン?」
 呼びかけられたが、すぐには返事が出来なかった。
 今きっと自分は嫌な目の色をしているだろうと思った。
 カッツェンエルンボーゲンは掌で目を覆い、目の色を隠した。





 重い扉を開き、カッツェンエルンボーゲンは静寂に包まれた図書室へ入った。常ならば目にする写本係の姿は今日はない。
 否、急用で席を立ったのだろうか。写本途中の貴重な書物が書見台の上に置き放しにされていた。
 それは欧州の王室の全系図を記した興味深い書物であった。何の気なしに覗き込み、改めて十重二重に取り巻かれた王族たちの血縁の深さに驚く。
 そう、欧州の王室は全てが血縁関係にあると言っても過言ではない。
 現に国王が迎え入れた第二の妃マリア・カタリーナは神聖ローマ帝国皇帝の娘である。皇帝は欧州の主だった王家に娘たちを送り込んだ。やがて各々の王室に生まれ来るであろう子は全て皇帝の孫となる。
 書物から目を上げると、図書室の奥、重厚な彫りを施された大扉が視界に入った。その部屋は公文書保存室である。
 人目がないのを幸い、大扉に歩み寄る。
 大扉には閂が差され、固く錠前が下ろされていた。
 判っていたことだった。然るべき職に就く者以外は何人たりともこの部屋の中には入れない。故有って暫く遠ざかっていた図書室に足を向けたのは、その事実を確かめたかったからだ。
 その職を手に入れるべく努力すれば、いつの日か必ずや手に入るだろう。私には頭がある。
 だが、それには時間が掛かる。
 私は今、欲しいのだ。
 気付いたのは、その香り故だった。馴染みのある麝香の香りに顔を上げると、本棚の間より現れた人影があった。
 成程、だから写本係は席を外したのか。
 得心し、一歩下がる。跪き、恭しく頭を垂れた。
「陛下」
 それは国王ジキスムント・フォン・ラインラント、その人であった。
「珍しいな、貴公とこの場所で遭おうとは。少し前までは毎日のように出遭ったものだが」
 避けていたのだからむしろ当然なのだが、そんな心の声はむろんおくびにも出さず、カッツェンエルンボーゲンは穏やかに言った。
「少々調べたき儀がございました。申し訳ございません、陛下の読書の邪魔を」
 再び恭しく一礼し、踵を返す。そのまま足早に図書室を出ようとしたところ、ふいに手首を掴まれた。
「カッツェンエルンボーゲン」
 無下に振り払うことは出来ず、足を止める。
「余の気持ちは知っておろう」
 王が自分に寄せる秋波にはとうの昔に気付いていた。だからこそ避けていた。
 神の地上の代弁者である王といえども全きキリスト教徒である以上、密かな同性愛趣味は表に出せぬ。公式な寵姫と違い、祈りや狩猟、舞踏等を共にせずとも良いその代わり、王の居室で共に摂るこってりした料理とワイン、そして寝台が待っている。
 そんな存在に誰が好き好んでなるというのだろう。

――私はカッツェンエルンボーゲン伯爵だ。

 そう、女はこんな時に使う良い言葉を持っている。
「お戯れを、陛下」
 国王はゆっくりとカッツェンエルンボーゲンの手首を引くと、そのまま唇を近づけていき、指に口を付けた。
 情の薄い男。大恋愛の末結ばれた最初の妻を捨て、愛の結晶として生まれた王子を庶子とし一顧だにしない。王冠を授かる見返りに娶った皇女に世継ぎの王子を産ませれば、義理を果たしたとばかり、今日もまた新たな愛人を物色する。
 それも国王故か。
 苦々しく思ったその瞬間、閂の掛けられた大扉が目に入った。

――その手は何の為にあるの。

 ふいに懐かしい、それでいて艶かしい女の声が脳裏に蘇った。ドレスの衣擦れの音さえも聞こえたような気がした。

――手は欲しいものを取る為に存在するの。口は欲しいものを手に入れる為に動く。手を伸ばせないのは、口を動かせないのは、本当に欲しい物ではないからよ。

 国王の寵姫の座は長い間空位であった。王の火遊びは早ければ一晩、長くとも数週間で終わりを迎えるともっぱらの評判。
 そう、この男は飽きやすい。一度使った玩具を捨てる侘びとして様々な物をばら撒く。女にくれる宝石の代わり、くれるだろう、官位の一つや二つ。司法職の一つや二つ。
「陛下」
 カッツェンエルンボーゲンは国王の手の甲にゆっくりと己の掌を重ねた。
 王都きっての繁華街、つぐみ横丁の高級娼館の娼婦は一晩で八ペニヒを稼ぐと云う。庶民にしてみれば大金、けれど貴族にしてみればたったそれだけとも思えるほどの対価。
 高級娼婦でもない自分が短くて一晩、長くて数週間寝台を共にするだけで、官位が手に入るのならそれは安い買い物である。
 カッツェンエルンボーゲンの唇から驚くほど滑らかに言葉が滑り出た。
「私は陛下の僕でございます」
 早く済ませてしまおう。
 いや、今でも構わない。
 写本係が戻らぬそのうちに。





つづく
Novel