薔薇の冠 2






――ルディ、すべての人々に優しく公平にお振舞いなさい。そうすれば貴方は人々に好かれ、公平に扱われることでしょう。

 それがルドルフの母の最期の言葉だった。
 恐らく母は予期していたのであろう。自分亡き後の、我が子の立場を、その不安定さを。
 国王の后が変わり、王女が、王子が生まれるそのたびに、ルドルフの立場はめまぐるしく変わった。
 王太子、庶子、私生児、まるでライン河に浮かぶ小さな葡萄の葉のようにくるくると、ルドルフの立場は流転した。
 ルドルフは母の遺言を信じ、その遺志に背くまいと努力した。努力し続けた。
 しかしその結果は――。



 処刑を公開にしなかったのは、国王のせめてもの親心だったのかもしれない。たとえその処刑方法が貴族にあるまじき絞首刑であったとしても。
 ソーセージを片手に死刑を愉しむ物見高い民衆はむろんのことだが、自分の死を心持ちにし、その死を手を打って喜ぶ貴族たちの顔を見ずに済むのは有り難い。
 非公式の処刑場にいるのは限られた一握りの人々。すなわち一人の刑吏と五人の衛士、一人の聴罪神父と処刑を見届ける役目を担う司法職にある二人の貴族だけであった。
 赦しの秘跡も終わり、沈黙の中、人々は今や絞首台に上がらんとするルドルフを見守っていた。
 王家の血を引く者らしく最後まで気高く、そう自分に言い聞かせても、震える足はどうすることも出来ない。堪らず絞首台より視線を逸らす。
 するとある貴族と目が合った。
「まさかこのような場所で再会することになるとは思いませんでした」
 それは司法副長官、カッツェンエルンボーゲン伯であった。
「墓地以来でございますな、閣下」
 その声を聞いた途端、驚くほど滑らかにルドルフの唇から言葉が迸り出た。
「最後に会う者が貴公で良かった。死の間際にはせめて美しい物を見たい」
 カッツェンエルンボーゲン伯は仄かな微笑を持ってそれに応えた。
 カッツェンエルンボーゲン伯は宮廷きっての美丈夫として知られていた。肩甲骨の辺りで波打ち輝く黄金の髪、巴旦杏(アーモンド)の形をした琥珀色の瞳。そこに前女伯爵ゆかりの美貌を加味すれば、まさに獅子に翼を与えるが如しである。
「司法副長官になられたとのことだが、祝いを言うのが遅れたな」
「我が母が――」
 カッツェンエルンボーゲン伯の薔薇の花弁を思わせる唇がゆっくりと開かれた。
「亡くなって良かったと思ったことは今までに一度たりともございません。けれど今日は、今日ばかりは思いました。我が母に閣下の最期を見せずに済んで良かったと」
 カッツェンエルンボーゲン伯の母、カッツェンエルンボーゲンの女伯爵はルドルフの家庭教師であった。カッツェンエルンボーゲン伯は逆説的にこう言っていたのだ。我が母が生きていたら、どんなに悲しんだことか、と。
「あの方は私が生まれてからこれまで出会った貴婦人の中で最も美しく、最も優秀な方であった。王国一の頭脳を持っておられたように思う。けれどその頭脳は教え子の私には受け継がれなかったようだ」
 カッツェンエルンボーゲン伯は首を振り。
「いいえ閣下、実の息子の私にも、でございます」
 二人声を揃えて笑った。
 知己の貴族と話すうち、ルドルフの神経症的な足の震えは収まっていた。

――そうだ、最後の時まで気高く、私はあの方の教え子であったのだから。

「皮肉なことでございます。私の初めての仕事が閣下の処刑の立会いとは」
 カッツェンエルンボーゲン伯はにこりともせずに、次に酷薄とも思える忠告を口にした。
「閣下、刑吏が足台を引き抜いたと同時に思いきり体重をお掛け下さいませ。頸椎を瞬時に折れば、お苦しみが少なくて済みます」
 カッツェンエルンボーゲン伯の琥珀の色をした瞳には曖昧な光がたゆたい、いかなる感情の色も読み取ることが出来ない。
 カッツェンエルンボーゲン、それは「猫の肘」という意味を持つ。
 世にも風変わりな家名を持つカッツェンエルンボーゲン伯爵家はライン河畔に自城を持つという類まれなる幸運に恵まれた。
 ライン河の通行料は諸侯にとって富への近道。一度その利権に預かったならば、生かさず殺さず搾り取り続ける。それが当時の通行税の考えであった。
 しかしカッツェンエルンボーゲン伯爵家は持って生まれたその幸運だけで決して満足してはいなかった。
 カッツェンエルンボーゲン伯爵は巨大な富を費やし自城を拡張すると、難攻不落のラインフェルス城塞を作り上げた。
 城塞の完成後、カッツェンエルンボーゲン伯は通行税の一方的、かつ急激な増額を行った。ラインの諸都市は一斉に蜂起、一年を費やしてラインフェルス城を包囲したが落ちず、又税も決して下がらなかった。
 八つの都市、27名の侯爵、40名の伯爵、その他45人の自由身分の者が挑戦状を突き付けたが、城主は涼しい顔でその爪を研ぎ続けた。城の天守閣は身代金の到着を待つ人々で常にごった返していたという。
 その中にはルドルフの母方の先祖であるヴェルフ伯も含まれていた。そしてカッツェンエルンボーゲン伯爵家は巨万の富を手に入れ、塔を金貨で満たしたのだ。

――皇帝にあらず王にあらず公爵にあらず、我はカッツェンエルンボーゲン伯爵なり。

 ラインラント王国のみならず帝国にまであまねく知れ渡るその家訓の通り、歴代の当主は風変わりな気性の持ち主が多いことでも又有名だった。
 端的に言えば、独善排他的な気性とでも表現するべきか。現当主もその例外ではなく、宮廷で起こした舌禍事件は枚挙にいとまがないだろう。
 されども思ったことは周囲におもねることなく迷わず口にする、その気性を国王に買われ、司法副長官に抜擢されたと聞く。
「忠告に感謝を。その通りにしよう」
 ルドルフは絞首台に向かった。
 刑吏の差し出す手を断り、絞首台の真下の足台に足を掛ける。即座に黒布が首に巻き付けられ、その上から太い麻縄が掛けられた。死の恐怖を和らげる為に使用される頭巾が差し出されたが、ルドルフは首を振ってそれを拒否した。
 人は死に際し、これまでの人生が脳裏に走馬灯のように巡ると聞く。
 ルドルフの身の上にそれは起こらなかった。ルドルフの胸にひっそりと浮かんだのは、七歳で死に別れた母の面影。

――母上、私はあなたの遺言を守り抜きました。あなたのお考えはきっと間違ってはいなかったのでしょう。けれど私がただ息をすることさえも許さぬ人間が宮廷にはいたのです。

 ルドルフの乗る足台に刑吏が手を掛ける、伺うようにルドルフを見た。
 しきたりに則り、ルドルフは刑吏に向かい、こう公言した。
「汝の罪を許そう。……やってくれ」

――ただ母上、次に生まれ変わったならば、私はもっと自由に……。

 刑吏の手により引き抜かれる足台、ルドルフはそれに合わせて勢いよく足台を蹴った。
 衝撃はしかし頚椎の存在する首ではなく腹部に来た。
 瞬間、何が起こったか判らなかった。
 息が、息が苦しい。新鮮な空気を求めて息を吸い込んだ途端、激しく咳き込んだ。
 酸欠の為に狭まった視界にぼんやりと絞首台が映っている。
 自分が絞首台より落下したのだということに気付くまで、かなりの時間を必要とした。
 ルドルフは懸命に手を伸ばし、首の黒布の上に巻き付けられた荒縄を手繰った。荒縄は途中でぷっつりと途切れていた。
 思いもよらぬ事態に皆、凍りついたように動けなくなった。息詰るような沈黙が流れる。
「処刑は――」
 長い沈黙を破ったのは、カッツェンエルンボーゲン伯であった。
「処刑は古代ゲルマンの時代より神明裁判とされております。処刑の失敗は神の意志に拠る物。絞首の縄が切れたということは、神がこの処刑を望んでおられないと解釈する他はありますまい」
「左様、カッツェンエルンボーゲン伯の言う通り」
 聴罪神父が同意を示す。通常、処刑の失敗は神の意思に拠る物と考えられていた為、二度目の執行は行われないというのが原則であった。
「しかし」
 異論を唱えたのは他ならぬ司法長官であった。
「それは刑を執行した後に罪人が蘇生した場合ではないのか、カッツェンエルンボーゲン伯」
「絞首用の縄が切れるとは到底考えられない事態。これを神の啓示以外に何と解釈できましょう」
「しかし、ラインスター公爵閣下は黙ってはおられまい」
 思わず漏らされた司法長官の本音、カッツェンエルンボーゲン伯の琥珀の瞳がきらりと輝いた。
「長官、この国の王は一体どなたでいらっしゃるのですか」
 ラインスター公爵、国王の弟にしてラインラント王国随一の大貴族、国王以上の権勢を誇るラインスター公爵の意向に背く事を恐れての司法長官の発言を、カッツェンエルンボーゲン伯は聞き逃さなかった。
「では、この処刑は一時預かりと致しましょう。陛下にお伺いを立てた後、王命あれば再び執行を」
 司法長官は唇を噛んだ。
 否、国王は二度と許可を出されまい。 
 ラインスター公爵を筆頭とする王太子派の重臣達が渋る国王を取り囲み、半ば無理やり署名させた死刑執行令状。
 王は畏れるだろう。神の意志を感じるだろう。そして気付くに違いない。自分の血を引く息子を処刑するという、この異常事態に。
 司法長官を除いた人々は既に得心し始めていた。聴罪神父は神の啓示を信じ、刑吏は処刑の不首尾を咎められなかった事を安堵し、衛士たちは納得した。
 司法長官は事を荒立てるのは得策でないと判断したらしい。
 これ以上の反論を試み、痛くもない腹を探られては堪らぬ。宮廷貴族は何もラインスター公爵だけではないのだ。
「ファルケンシュタイン伯爵閣下を牢へ戻されよ」
 衛士たちは直ちに行動に移った。
 両腕のそれぞれを掴まれ立ち上がらされながら、それでもルドルフは自分の身に起こった僥倖を未だ信じられずにいた。
 牢へと引き立てられながら、ルドルフは振り返り、そこにカッツェンエルンボーゲン伯の姿を見た。
 カッツェンエルンボーゲン伯は朱唇にうっすらと皮肉がちな笑みを浮かべて言った。
「命拾いをなさいましたな、……殿下」
 その時感じた違和感の理由をルドルフは長い間気付かなかった。
 ある時気付いた、それから何ヶ月も経ってから、ひどく唐突に。
 カッツェンエルンボーゲン伯はあの時、自分を「閣下」ではなく「殿下」と呼んだのだという事に。



 処刑中止の報を聞き、国王は瞠目したという。そして長い沈黙の後、侍従にこう漏らしたと伝えられる。
 左様か、いや良い。カッツェンエルンボーゲンがそう言うのなら、そうなのであろう。



 ラインスター公爵はカッツェンエルンボーゲン伯の発言を伝え聞くや、気に入りの扇を折ったという。そしてこう呟いたと盛んに喧伝された。
「猫が、どの唇を持って神を語る」





 ラインラント王国。
 それはライン河中流域を支配するライン宮中伯が中心となり、その他のライン河流域の領邦国家が寄り集まり成立した王国である。
 現国王はジキスムント・フォン・ラインラント。
 国王の息子を処刑するという異常事態が発生した背景には、ルドルフの特異な出自があった。
 ルドルフは国王ジキスムントが正式に妃を迎える前の恋人、エリザベート・フォン・ヴェルフェンに生ませた子供だった。
 正式な結婚が出来なかったのは、当時のジキスムントが主家である皇帝家の人質の身の上であったからである。
 ジキスムントは王族とは言えども未だ領地も持たぬ三男坊であり、名門ヴェルフ伯爵家の令嬢であるエリザベート・フォン・ヴェルフェンに取ってそぐわぬ相手であった。
 人質先である帝宮で出会いロマンスを育んだ二人は秘密裏に結婚式を挙げ、人目を憚り暮らしていた。二人の婚姻関係はラインラント国王より爵位と領地を賜った暁に正式に発表される筈であった。その目論見は相次ぐ兄王子達の死により大きく狂った。
 人質暮らしの三男坊は晴れてラインラント王国の世継ぎとなったのである。
 エリザベート・フォン・ヴェルフェンはラインラント王国の三男坊にとってはおよそ不釣合いな相手であったが、ラインラント国王にとっては不足の相手であった。
 当時存命だった国王はエリザベート・フォン・ヴェルフェンとの婚姻無効をジキスムントの王位継承の条件に出した。
 ジキスムントは悩んだ、その妻もまた。エリザベート・フォン・ヴェルフェンは悩み苦しんだ挙句、病の床に就き、やがて死去した。王はその真意はともかく、前妃のぬくもりが未だ残る閨に新たな妃を迎える事となったのだ。
 最初の婚姻が無効か否か、そこが後々まで尾を引く争点となった。
 王は後添えに迎えた若く美しい妃、マリア・カタリーナの懇願に屈し、教皇庁と掛け合い婚姻無効の手続きを取り、ルドルフの嫡子としての身分を剥奪、私生児とした。
 その処遇に異を唱えたのはヴェルフ伯爵家である。かつてその血筋より皇帝を輩出した事もある名門ヴェルフ家。目に入れても痛くないほど可愛がっていた愛娘を強奪(老ヴェルフ伯の目にはこう映った)されたのみならず、孫を私生児扱いされては堪らない。
 祖父であるヴェルフ伯がルドルフに肩入れすればするほど、皮肉なことに父である国王の気持ちはルドルフから離れていった。
 ルドルフの身体に流れるヴェルフの血はやはり周囲の人間に取って脅威だったに違いない。新しい妃との間に王太子が生まれると、その脅威は収まるどころか、もはや看過出来ぬまでに膨れ上がった。
 そしてルドルフが祖父であるラインハルト・フォン・ヴェルフェンに送った手紙の一文――私は王宮で微妙な立場にいます――に端を発し、またたく間にルドルフの反逆罪がでっちあげられ、異例の早さで死刑が実行された。される筈だった……。



 ルドルフの軟禁生活はその後半年の長きに及んだ。
 縛首台から奇跡の生還を果たしたものの、ルドルフは王都から遠く離れた湖を望む王領地の屋敷に軟禁された。侍従は遠ざけられ、貴族との面会は一切許されなかった。
 日々兵の足音に怯える日々。けれど王が二枚目の死刑執行令状にサインをする事は決してなかった。
 そしてその軟禁は、世継ぎの王子ジークヴァルトが五歳の誕生日を迎えるのを機に唐突に解かれた。
 可能ならばこのまま田舎に引き篭ったまま、その生涯を終えたいと思っていた。
 だが王太子の誕生祝への招待という体裁を取っていた書簡は、日を追うごとに王の苛立ちが混じり、最後は召還命令に等しい物となった。 
 そこでルドルフは重い腰を上げ、異母弟であるジークヴァルト王太子に祝辞を述べる為、ニンフェンベルク宮殿を訪れる事となったのだ。



 半年振りに多くの人々と会った疲労は想像以上であった。
 ルドルフは人目を盗んで宮殿の中庭へ出た。
 幸いなことに今宵は満月、カンテラを手にせずとも散策は容易。
 当て所なくさ迷い歩くうち、ルドルフはムーア式の四阿(あずまや)の前に立っていた。
 黄金に塗られた玉葱型のドーム天井を持つそれは、国王の東洋趣味が高じて造られた物であった。
 イスラムの教会の形を取ってはいるが、むろん宗教上の物ではない。あくまでもお遊びの域を出ぬ。
 ルドルフはまるで吸い寄せられるようにして四阿に入った。
 四阿の中には青い東洋風のタイルが敷き詰められている。真っ直ぐ歩んでいき、寝椅子に腰を下ろした。思わずため息が漏れる。

――いつまで続くのだろうか、カーテンの陰に短剣が潜むような、こんな日々が。

 いつになれば終わったと実感出来るのか、危険が。

「この建物は神への冒涜とは思わぬか」
 辺りを払うような威容を持つその声には聞き覚えがあった。……王弟ラインスター公爵。
「幾度全きキリスト教徒が血を流したと思う、ムーア人どもを相手に」
 声は徐々に近付いてくる。ルドルフが座す寝椅子は丁度外から死角になる位置にあった。急ぎ立ち上がり、中庭とは反対の方向に抜け、建物の陰に身を潜めた。
 鮮やかな黄金の髪が視界を過ったような気がして、ルドルフは耳を澄ませる。
 誰だろうか、公爵の相手は。
「サラディンの時代からグラナダ陥落まで」
 涼やかな声がそれに答える。
「長ごうございましたな」
 それは、ルドルフがもしや……と思った相手、カッツェンエルンボーゲン伯であった。
 珍しい取り合わせだと思った。
 どちらも宮廷きっての美丈夫、ご婦人を誘惑し乙女の心をときめかす存在だ。
 カッツェンエルンボーゲン伯を御伽噺の白馬の王子とすれば、さしずめラインスター公爵は伝説の黒衣の騎士か。
 腰の辺りで切り揃えられた漆黒の長い髪、黒曜石の瞳。熱心な旧教徒である事から黒装束以外は身に着けないと聞いているが、その衣は常に豪奢な宝石と金糸の刺繍とで埋め尽くされている。
 国王の歳の離れた弟。前王妃アレクサンドラが遅くに生んだ末子であり、前王妃の秘蔵子とされていた。そして反ルドルフ派とも言い代えられるであろう、宮廷の王太子派の第一筆頭。
 ルドルフは二人に見咎められずこの場から逃れる方法を懸命に模索していた。意図した物ではないとしても、立ち聞きは貴族の作法に反する。
「――なぜ絞首刑なのだ」
 内容もさることながら、公爵の苛烈な物言いにルドルフは息を飲んだ。心臓の鼓動がとくとくと早鐘を打つ。
「何と? 閣下」
「貴族の処刑法は斬首と決まっている。ましてあの小僧は王の息子だ。なぜあの小僧を絞首と定めた」
「これは意外な事をお聞き致しました、閣下はあの方を陛下の御子とお認めになっておられるのですか。あの方は王家の血脈に繋がる方ではございません、エリザベート・フォン・ヴェルフェン殿の私生児。それにあの方の罪名は反逆罪。反逆罪はこの国で行われる全ての罪の中でもっとも重い罪でございます」
「その顰みになぞらえば、反逆者には車裂の刑を負わせねばなるまい」
「国王の御子を車裂きに?」
「堂々巡りであるな。なれば同じ言葉を返そう、国王の子を絞首か」
「閣下」
「我が答えを提示しようか。斬首ならば決してし損じる事はない、だから、だ」
 ルドルフの全身にどっと汗が噴き出す。そうだ、確かに――。
「つけ加えれば、貴公が何万分の一かの偶然に縋る者とは到底思えぬ。細工を弄したのであろ」
 何故。
 何故今までその可能性に考えが及ばなかったのか。
 刑吏が足台を引き抜いたと同時に思いきり体重を。掛ければ? 
 一息に体重を掛ければ重みが掛かる。その縄にもしも細工をしていたとしたら?
 彼ならば出来ただろう、国王に絞首を提案する事も、その縄に予め細工をする事さえも。
 だが何故?
 判らないのはその理由。
「閣下の推理には見落としがお一つございます。何故私があの方をお救いしなければならないのです。国王陛下の命に逆らってまで」
「それは我が聞きたい事でもあるな。事実を鑑みれば、貴公が黒幕である事は確か。だがその動機が皆目見えぬ。だからこそ誰も貴公に疑いの目を向けぬのであろ。そう、点と線が繋がらぬ。或いはあの小僧が教え子であったからか? あの小賢しい女教師の」
「小賢しい女教師が誰であるかは言及しない事に致しましょう。けれど私は身贔屓は致しません。信じるのは、自分の目と耳のみ。身内の誰それが可愛がっていたものだから尊敬する、愛情を注ぐという事は……」
「ふふ、貴公はやはりあの女狐の血を引くだけの事はある。食えぬ男よ」
「閣下、誰であれその者自身ではなくその者の身内の悪口は言うべきではございません。それは貴族の作法にございます」
「は、我に忠告をするというのか。流石は名にし負う猫伯爵であるな。だが我は恐れぬ、何度でも言ってやろうではないか。あの小賢しい女教師は女狐にして魔女、稀代の淫乱――」
「閣下」
 カッツェンエルンボーゲン伯は公爵の声に自分の声を重ねかけた。
「やはり初めての女性というものは忘れられぬものでございますか」
 ぱん、乾いた音が上がった。
 建物の陰に身を潜めるルドルフは音でそれを伺い知るのみ。恐らくは打ったのであろう。公爵がカッツェンエルンボーゲン伯の頬を。
「忘れるな、カッツェンエルンボーゲン。我は、ラインスター公爵だ!」
 タイルの床に長靴の音を響かせ、ラインスター公爵が四阿より歩み去る気配がした。長靴の音は徐々に小さくなり、やがて完全に消えた。四阿は水を打ったように静まり返る。
「おられるのですか、――殿下?」
 ルドルフは息を飲み、カッツェンエルンボーゲン伯の次の言葉を待った。
「菫の香水、いつも付けておられますね」
 ルドルフは諦めて、カッツェンエルンボーゲン伯の前に姿を現わした。半年前と何一つ変わらぬ艶やかな姿がそこにはあった。先程打たれたと思しき左頬が僅かに赤い。
「どう取られても致し方ないが、立ち聞くつもりはなかった」
「気付いておりました、この建物に入った時から。この香水を付けられているのは宮廷広しと言えども殿下お一人。むしろ我々が殿下の休憩の邪魔をしたのでございましょう」
「カッツェンエルンボーゲン、あれは本当の話なのか」
「どちらのお話の事を尋ねておられるのですか、殿下?」
 指摘されて口篭もる。どちらの話も刺激的、かつ真偽を問い質したい内容であった。あえて問われれば前者か。しかし性急に問う事は憚られて、ルドルフは話題を変えた。
「初めて見たような気がする。貴公が感情を昂ぶらせた場面を」
「お見苦しい場面をお見せ致しました」
 四阿の窓から差し込む月光がカッツェンエルンボーゲン伯の顔に斜めに光を落とす。眩しげに目を瞬かせ、カッツェンエルンボーゲン伯は一歩後ろへと下がった。
「祝宴の折に遠目にお目に掛かりましたが、お変わりなく何よりでございます」
「貴公には一度会って礼を述べねばと思っていた。貴公の口添えがなければ、私は今生きてここに立ってはいなかったろう」
「礼を述べられるのならば、どうか私ではなく古代ゲルマンの法に」

――違う。

 ルドルフは唇を強く噛み締めた。
 半年もの間ずっと考え続けていた。再会出来たら彼に何を問おう、何を話そう。幾度も脳裏で行った会話はこんな形骸だけの物では決してなかった。
「しかしゲルマンの法は私を最後まで守ってくれるだろうか」
 自嘲を含んだ言葉がルドルフの唇から迸り出た。
「一枚目の死刑執行令状が反故にされたとしても、二枚目の令状が作成されぬとは決して言い切れぬ」
 先を促すように、カッツェンエルンボーゲン伯の片眉が上がる。
「何故だ、カッツェンエルンボーゲン。私はただ平穏に生きたいだけなのだ。けれど私がただ息をすることさえもラインスター公爵は許さぬ」
「そうして亀のようにひたすらその身を甲羅の中に潜め、嵐が吹き去るのを待たれるのでございますか」
 ぐっと拳を握り締める。

――すべての人々に優しく公平にお振舞いなさい。そうすれば貴方は人々に好かれ、公平に扱われる事でしょう。

 突出すれば憎まれると母は言っていた。だがたとえ動かずにいても、自分の存在その物が憎まれるのだ。
「王妃様がお産みになられる男子はどの方も天寿を真っ当する事は出来ません」
 ルドルフは弾かれたように顔を上げた。
「王妃様は血友病の保因者でございます。いえ、正確には王妃様の母君である神聖ローマ帝国皇妃が保因者。皇帝の婚姻政策により欧州のほとんどの王室に血友病の因子が流れ込んだのです」
 血友病、それは出血が止まらなくなる奇病である。王族の発症率が非常に高いことから王族特有の病気と噂され、発症者はごく一部の例外を除き男子に限られる。そして二十歳まで生きられない病気として非常に恐れられていた。
「アキテインの王太子殿下が幼くしてお亡くなりになられたのは記憶に新しいところでございますが、残念ながら十になるかならずかして我らが王太子殿下もお亡くなりになられることでしょう。既にその兆しは出ておられるようでございますが」
 否、王族特有の病気ではなかったのだ。保因者が女帝とすれば全ての辻褄が合う。
 惑乱するルドルフを前に、カッツェンエルンボーゲン伯は淡々と言葉を継いだ。
「この事実を知るのはごく少数の人間、恐らくラインスター公爵閣下もその数少ない人間の一人でございましょう。最初に気付いたのは私の母でした。だからこそ貴方の養育に心血を注いだ。或いは王になられる御方かもしれないと」
 自身が王に? それは想像だにしたことのない可能性だった。
 物心ついた時から命の危険に脅かされ続けてきた。まさしくカッツェンエルンボーゲン伯の指摘通り、亀のようにその身を縮め込め、嵐が吹き去るのをひたすらに待ち続けて来た。その自分が――。
「ラインスター公爵閣下の真の望みは王太子の後見人などではありません。王杓を持ち、長く裾引くローブを纏い、あの方が敬愛する大司教猊下より聖油を注がれ戴冠すること。その為とあらば、立ち塞がる者全てを排除する」
 極度の緊張から、まるでひび割れたような気のする唇をこじ開け、ルドルフは懸命に言葉を絞り出した。
「貴公は私を王にしたいのか」
「いいえ、殿下。私は貴方の教師ではございません。たとえ教師であったとしても、殿下の生き方を決めるのは殿下ご自身でございます」
「ならば何故私を救った、カッツェンエルンボーゲン!」
 それはルドルフが堪えに堪えた感情を爆発させた瞬間であった。
 生まれた時から何一つ思い通りになることはなかった。幼くして母を失い、唯一の後ろ盾であった王から疎まれ遠ざけられて育った。教育に心血を注いでくれた家庭教師さえも自分を置いて先に逝った。いつもいつも自分はライン河に浮かぶ葡萄の葉のように他人に翻弄され――。
 しかしカッツェンエルンボーゲン伯は冷たく肩を竦めた。
「王家の血を引く方々は皆勝手だ。皆手前勝手に私を責める。死刑に追い込んだことに満足し詰めを欠いた公爵閣下然り。貴方然り。……殿下」
 甘く妖しい蜂蜜色の瞳が真っ直ぐにルドルフを捉える。
「貴方は死にたかったのですか」
 カッツェンエルンボーゲン伯はルドルフに背を向けた。再び四阿に長靴の音が響く。夜風に乗って伯の言葉のみが届いた。
「それが私の答えになりましょう」
 そう、私は死にたくなかった。石に齧りついても生き残りたかった。
 そして思った。もしも次に生まれ変わったなら、生き残ったなら、もっと……。
 気付くと頬が温かく濡れていた。ルドルフは滂沱と涙を流しながら、人気のない四阿にいつまでも立ち続けていた。





つづく
Novel