薔薇の冠 3 |
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公文書保存室に入りたいと思ったのは、ある事件の調書を見たかったからだった。 多大な犠牲を払って入室したその部屋にその事件の調書は存在しなかった。 徒労であったとは思わなかった。あるべき筈の調書がないのはおかしい。 大きな力が働いたに違いない。 王国で働く大きな力といえば、それは王家に他ならないだろう。 それが知れただけでも大きな収穫だと、カッツェンエルンボーゲンは思っていた。 無意識のうちに身体を押しのけようとしていたらしい。 明らかに気分を害した様子の王に不機嫌に呼びかけられて、カッツェンエルンボーゲンは我に返った。 「心ここにあらずのようだな。譫言を口にしていた」 「私は何と口にしておりましたか」 「ファ……後は聞き取れなかった」 ――父上(ファーター)か。 自分が何を口にしようとしていたかに気付き、カッツェンエルンボーゲンは唇を噛んだ。 極みにあっても決して意識を飛ばさないようにしよう。 心に強く誓う。 「誘いに応えてくれた時には天にも昇る心持ちだったが、変わらずつれないな、貴公は。まるで氷細工だ」 「陛下の心が移ろってしまっても耐えられるよう、今から心がけているのですよ」 「我はこれほどまでに貴公に夢中だというのに」 「では陛下、もう一度」 裸の背に腕を回し、二度目を強請(ねだ)る。 達したばかりの身体は熱く火照っていたが、カッツェンエルンボーゲンの心は冷たく醒めていた。 身体はただの肉だ。誰であれ、好きに使うがいい。だがどうせ売るのなら、より高く売りつけられる相手に。 それがカッツェンエルンボーゲンの考え方だった。 初めての相手は実の父だったと。そして貴方の父親とも寝台を共にしているのだと聞いたら、あの王子は何と言うだろうか。 まったき犬なら忠義でなくてなんとしよう。 それが古く由緒正しい家柄、ヴェルフ伯爵家の家訓だった。 純粋で穢れのない、まさしくヴェルフの典型のような王子。 貴方は何もご存じないのだ。 女伯爵にして女学者、そしてこの国に新教を導入した革新派の一人、イルゼ・フォン・カッツェンエルンボーゲン。カッツェンエルンボーゲンの母は家庭を顧みなかった。 ある意味この上なく貴族らしい女だったのかもしれない。 そしてカッツェンエルンボーゲンの父はおよそ貴族らしくない男だった。何と言っても、妻を愛していたのだから。 あまたの男たちと浮名を流した挙句、カッツェンエルンボーゲンの母が手を伸ばしたのは、王国の末の王子だった。 アレクサンドラ前王妃は王子たちを諸邦に人質として容赦なく送り込んだが、遅くに生み落とした末の王子だけは決して手元から離さなかった。アレクサンドラ前王妃の秘蔵子、掌中の珠とされた王子、後のラインスター公爵である。 筆下ろしを頼まれたとは考えにくいだろう。 カッツェンエルンボーゲンの母は世にも変わった女だった。 二人の関係は火遊びの期間を遥かに越えて続き、アレクサンドラ前王妃は気を揉み、父は苦悩した。そして父はその捌け口を幼いカッツェンエルンボーゲンに求めたのだ。 誰であれ感じてしまう身体。挿れられて突かれれば、常に演技ではない極みが訪れる。それは父との禁忌の日々の中で得た唯一の功罪だった。 王の膝を跨ぐようにして脚を開く。 黒絹のリボンで束ねる黄金の髪を今は編まずに垂らしていた。こうしていると父は母のようだといつも喜んだものだった。 「まだ足りぬか、カッツェンエルンボーゲン」 「は、っ……あ……」 二人の関係はイルゼ・フォン・カッツェンエルンボーゲンの唐突な死によって幕を閉じた。 物盗り、王子ののめり込みを厭ったアレクサンドラ前王妃が放った刺客、嫉妬に狂った夫の犯行。様々な憶測が乱れ飛んだが、結局、犯人は見付からず仕舞いだった。 イルゼ・フォン・カッツェンエルンボーゲンの死後、ラインスター公爵の態度は硬化した。誰も公爵の前ではその名を口に出来なくなったという。 そして母の死から僅か一年後、父もまた亡くなった。 後に残ったのは、疑惑と寝室での禁忌の思い出だけ。 ――犯人は、誰だったのか。 「っ……、ああ……陛下……陛下」 一晩、少なくとも数週間寝台を共にするだけで手に入ると思っていた司法職の代価は思いもかけず高くついた。 王のこの頻繁な呼び出しがこれからも続くようなら、いずれこの関係は人に知れることだろう。それこそを狙いとする者は多かったが、カッツェンエルンボーゲンはそれを良しとしなかった。 だが、この地位のお陰であの可愛らしい王子殿下を救えた。 そう思えば安いものか。 カッツェンエルンボーゲンは腰を小刻みに揺すり、ひたすらに肉の愉悦を貪った。 王の寝室から続く隠し階段を下り、扉を開けて出た先は王専用の図書室だった。 たった今開けて出て来たばかりの扉を顧みれば、そこには騙し絵の手法で書棚が描かれている。一見しただけでは扉とは判断がつかない。 乱れた髪を直し、居ずまいを正すと廊下に出た。 「これはこれは、意外な所で意外な男に会うものだ」 そこにはラインスター公爵が立っていた。黒衣に十字架という常の装いだが、その胸に真紅の薔薇の花束を抱いている。 カッツェンエルンボーゲンは一歩下がり、うやうやしく頭を垂れた。 「陛下に図書室使用の許可を賜りましたので」 「そうであろう。たった今貴公が泥棒猫よろしくこそこそ出て来たその図書室は陛下専用。我が知らない事は何もない。精液の匂いを纏わり付かせて図書室の使用許可とは笑止千万。身体で買ったその地位の居心地はどうだ、司法副長官殿」 「そう仰る閣下はなぜここに」 「決まっておろう。不遇をかこつ王妃殿下をお慰めに」 平然と会話を続けられるのが自分でも不思議なほどだった。これほどまでに憎んでいるというのに。 「薔薇で。それとも閣下のお身体で? でございますか」 ラインスター公爵は吐き捨てるように言った。 「男妾が」 判っていた。 結局のところ、自分とこの男は似ているのだ。冷静さを装う仮面の下、心の中では溶岩のように熱く、昏い情念が渦巻いている。目的のためには手段を選ばぬ所も、又。 互いに次に打つ手が手に取るようにわかってしまうのは、果たして良いのか悪いのか。 ラインスター公爵は薔薇の花束の中から一本を抜き取ると、それをカッツェンエルンボーゲンに差し出した。 反射的にそれを手にするカッツェンエルンボーゲン。 ラインスター公爵は薔薇の茎を握るカッツェンエルンボーゲンの手に自分の手を重ねると、ゆっくりと握った。薔薇の棘はカッツェンエルンボーゲンの皮膚に食い込み、鋭い痛みを与える。 やがて棘はカッツェンエルンボーゲンの皮膚をぷつりと食い破った。それでも公爵は手の力を緩めない。 腕を伝って流れ落ちる生暖かい血がシャツの袖を朱に染めた。 「カッツェンエルンボーゲン、貴公はきっと後悔する」 ――この痛みを覚えておこう。 カッツェンエルンボーゲンは公爵を真っ直ぐに見据えると言った。 「いいえ閣下、私は決して後悔しないと決めたのです」 ――貴方だけは王にはさせない、絶対に。 |
つづく |
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