薔薇の冠 11 |
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不眠不休で馬を走らせ、ルドルフは約束の三日でラインラントに戻ってきた。 人目につかぬ用心の為、ヴェルフ伯の手の者とは城門前で別れると、城下の旅籠に潜伏させた。 その日の深夜遅く、エッシェンバッハが人目を忍び、ファルケンシュタイン伯爵邸を訪れた。 ルドルフが公言通り三日で戻ってきたことに驚くと同時に非常に喜び、すぐに自身の手柄を披露した。 「デュヴァリエ大使は三日後に大聖堂にて行われるミサに出席の予定でございます」 「三日後、確かな情報だな」 エッシェンバッハは頷き。 「しかしながら妙な動きがございます。殿下が留守の間、大使がラインスター公爵閣下の屋敷を出られたのです。今は大使公邸に」 「屋敷を出た? 何故であろうな」 唇に指を当てて考え込んだが、思い当たるような理由はなかった。ルドルフは首を振り。 「では、大使公邸から大聖堂までの行程を下見しよう。むろん帰路が望ましいだろう。来る筈の大使が来ないとなれば司祭たちが騒ぎ出す。司教の名を騙り、大使を留め置く手紙を捏造しよう。それで一晩、騒ぎになるのを遅らせられる」 次々と策が浮かんでくるのが、ルドルフ自身不思議だった。 全くと言っていいほど恐れはなかった。 必ずやり遂げるという強い意志と身内から沸き起こる闘志が彼を動かしていた。 身体を動かし、策を練る。その間だけは忘れられる。カッツェンエルンボーゲンを、カッツェンエルンボーゲンが受けているであろう苛烈な拷問を。 「監禁場所は?」 「申し訳ないが、牧師館を使わせて貰おう。室内装飾、調度品、全て外し、自分達がどこにいるかわからないようにする」 「すぐに口を割るでしょうか。監禁が長引けばラインスター公爵が、下手をすればフランス本国が動き出すやもしれません」 「私は大使は想像よりも遥かに早く口を割るような気がする。ひょっとしたら拳で訴えずとも済むかもしれない」 「それはいかなる理由からでございましょう」 ルドルフが説明しようと口を開いたその時、扉が控えめに叩かれた。エッシェンバッハは反射的に立ち上がった。 二人はルドルフの寝室で声を潜めて語り合っていた。 エッシェンバッハは平服、しかも徒歩(かち)でルドルフの屋敷を訪れていた。元より使用人は少なく、隠者のような暮らしをしていた為、来客を隠すのはさほど難しいことではなかった。 「大丈夫、爺だ」 エッシェンバッハに断ってから扉を開ける。 それはルドルフが幼い頃から付き従う老侍従だった。元は国王付きの侍従であったが、今は老侍従が手ずから育てたと公言してはばからないルドルフの身内同然。惜しむらくは、信頼は置けるが力はない。 ルドルフはこの老侍従にだけは、自分を絞首台から救ったのはカッツェンエルンボーゲンだということを明かしていた。 「若様」 老侍従は手に小さな木箱を持っていた。 「若様に直接お渡しするようにと」 「誰からだ?」 「わかりません。門の前で馬丁が預かったようでございます。若様は今床に伏せっていると伝えたのですが、一刻も早く、直接渡すようにと言い残し、逃げるように去って行ったと。ただならぬ雰囲気を感じましたので、お話し中と存じましたが、お持ちを致しました」 侍従はコーヒーテーブルの上にその小箱を置いた。ルドルフは立ち上がると、紐を解き、木箱の蓋を開けた。 「……っ……」 思わず口を掌で覆う。 全身の血が音を立てて引いていくような気がした。 ルドルフの顔色を見て、尋常でない事態と悟ったか、エッシェンバッハが横から木箱を覗き込む。 「こ、これは!」 ぽた、コーヒーテーブルの上で握り締められた拳、その甲に涙が落ちる。 堪えようとしても堪えきれず、嗚咽がルドルフの喉より漏れた。歯を食い縛り、呟く。 「…許さない……絶対、に…」 小箱の中身は、血のこびりついた生爪、全部で十枚だった。 「流石は淫売の息子だ。早くも男を引きずり込んだか」 椅子の背に後ろ手に縛り上げられ、カッツェンエルンボーゲンはラインスター公爵の打擲を受けていた。 ある程度の想像はしていたものの、ラインスター公爵の怒りはカッツェンエルンボーゲンの予想を遥かに越えた凄まじいものだった。 だが、恐らく聴罪神父が事前に釘を刺していたのだろう。道具を使われない分だけ、まだ救われた。 「閣下、もうそこまでに。閣下のお手が痛みます」 穏やかに諭され、ラインスター公爵はそこでようやく打擲の手を止めた。 ――手が痛むまで打つとはご苦労なことだ。 カッツェンエルンボーゲンは皮肉らしく思うが、それを口に出すような馬鹿げた振る舞いには及ばなかった。 「それに大使が誘ったのかもしれません。あの方は漁色家でとみに知られております故」 公爵は震い付き、最後にもう一度とばかり、カッツェンエルンボーゲンを拳で殴った。殴られた衝撃で椅子ごと床に倒れる。鼓膜がどうかしたのかもしれない。激しい耳鳴りがした。 「閣下……」 カッツェンエルンボーゲンを助け起こす聴罪神父は明らかに引いていた。 精神を壊す、と公言してはばからぬ聴罪神父は、それ故に衝動的な暴力を嫌うのかもしれなかった。 ――そう、それがいけない、公爵。冷静さを装う仮面の下の、貴方のその短慮、その激しさを見せる度、周りの者は徐々に貴方から離れていく。 「薬を」 一言言い置いて、聴罪神父は小走りに部屋を出て行った。 公爵が発散する怒りの波動に、部屋に張り詰めたその空気に耐えられなくなったのだろう。海千山千の教皇庁の異端審問官にもやはり苦手な物はあるらしい。 顎を掴まれ、カッツェンエルンボーゲンは無理やり顔を上げさせられた。 思えば、この屋敷で公爵とカッツェンエルンボーゲンが二人きりになるのは初めてのことだった。 意図して二人きりになるのを避けていたのかも知れない、カッツェンエルンボーゲンは思った。 「どちらが女なのだ。小僧か、それとも貴公か」 カッツェンエルンボーゲンは薄っすらと唇に笑みを刷き。 「それは閣下のご想像にお任せ致しましょう」 「まるで教会の鼠のような、あの陰気な小僧のどこが良い」 「人が人を好きになるのに理由など必要ない。そうお思いにはなられませんか、ヴォルフィ」 「――どこで聞いた、その呼び名」 「我がカッツェンエルンボーゲン邸の庭外れの温室で、母が貴方をそう呼んでいるのを、聞きました」 城下にある屋敷にしては贅沢な、広い庭園の外れにその温室は存在した。 庭師以外は誰も足を踏み入れることのないその温室をカッツェンエルンボーゲンは煩い家庭教師から逃れる場所として使っていた。そしてある日それを目撃した。 幸福じみたくすくす笑いと口付け。母の口付けを受けるその相手はヴォルフガング・フォン・ラインラント、王国の末の王子だった。 隠れ場所であった薔薇の茂みから出る事が出来ず、息を詰めて愛し合う二人を見つめていたことを、カッツェンエルンボーゲンはまるで昨日の事のように思い出せた。 「あの温室は貴方と母の密会の場所だったのでしょう」 公爵はカッツェンエルンボーゲンに一歩近付いた。殴られるかと一瞬身構えたが、公爵は意外なことにその手を下げたままであった。 「私は今でもありありと思い出せます、あの、母の幸せそうなくすくす笑い。あの時、貴方は確かに母と愛し合っていた」 「……」 公爵は何か言いたげに唇を動かしたものの、何も言わなかった。 「ヴォルフィ、鈴を鳴らすような声で、母は貴方の名を呼んでいた」 自分が母より父により惹かれていたのは、自分が母に似ていたからだ。カッツェンエルンボーゲンは母の、その妖精じみた冷たさを厭いつつ、自分の内にもまたその萌芽がある事を知っていた。 人の手は欲しい物を取る為に存在すると母は常々言ってた。 そして口は欲しい物を手に入れる為に動く。 「貴方の腕に抱かれ口付けを受ける母を見て、私は思いました。ヴォルフィ、貴方の口付けはどんな味がするのだろうと」 ――決してやり損なうな。 耳の後ろがちりちりと痛んだ。恐らくそれは自分自身からの警告。 ――機会は一度だけ、たったの一度だけだ。 「貴方の腕はどれだけ逞しいのだろうと」 「カッツェンエルンボーゲン」 ラインスター公爵は声を荒げた、カッツェンエルンボーゲンの言葉を遮るように。その黒曜石の瞳には何故か怯えたような色が浮かんでいた。構わずカッツェンエルンボーゲンは言葉を紡いだ。 「私の殿下、それも貴方の呼び名の一つだった」 誘うように唇を開き、下方から掬い上げるようにして公爵を見る。 「教えて下さい、母はどんな風でしたか。母はどんな風に貴方と」 だしぬけに唇を奪われた。それは歯と歯がぶつかり合うような荒々しい口付けだった。 「殿下……」 ラインスター公爵を王子時代の敬称で呼びながら、カッツェンエルンボーゲンは琥珀の瞳を細めた。 公爵は角度を変え、再度カッツェンエルンボーゲンに口付けた。公爵の熱い舌は口内に滑り込み、まるで貪るように絡められた。 背に回された腕に力が篭もる。 母も、こんな風に抱かれたのだろうか、この逞しい腕に。こんな風に情熱的に口付けられたのだろうか。 ――そうだとしたら、どうして貴女が息子ほど歳の離れたこの男をあんなにも愛したのか、その理由も判ります。 母上、貴女は罪な方だ。 息子、愛人、教え子。誰よりも貴女と親しかった私たち三人を、こんなどうしようもない袋小路に追いつめるとは。だがそれでも、それでも私は……。 いつものように瞳を閉ざすのを忘れたことに気付いた時には、既に遅かった。 カッツェンエルンボーゲンの瞳の色を見、公爵の黒曜石の双眸が驚愕に見開かれる。 カッツェンエルンボーゲンは絡みあった公爵の舌を歯で噛んだ。噛み千切れるか、と思ったが、一瞬先にカッツェンエルンボーゲンの真意を見切った公爵の動きの方が早かった。肩を押されて突き飛ばされる。 ラインスター公爵は咄嗟に口を押さえた。抑えた掌からどろりとした赤黒い血が溢れる。 「貴様……ッ!」 やり損なったか! 怒りのために狂気のようになった公爵に激しく打ち据えられながら、しかしカッツェンエルンボーゲンに後悔はなかった。 フォルテュナ、運命の女神よ。運命の輪は廻る。捉えれば高きに昇り、捉え損ねれば落ちぶれ卑しめられる。それらはすべて時の運。捉え損ねたのなら潔く諦めよう。 騒ぎを聞きつけ戻って来た聴罪神父が、公爵をカッツェンエルンボーゲンから文字通り身体を張って引き剥がした。 神父の僧衣からは旧教特有の乳香の香りがした。 乳香、それは乳香の樹木から取れる樹脂。東方の三賢人がキリスト生誕のお祝いに持参した事で知られ、その乳香の樹脂より作られた没薬は旧教のミサでは必ず焚かれる物であった。 乳香は、その者が神から油を注がれた、聖別された者である事を表わすのだ。 「閣下」 カッツェンエルンボーゲンは肩で荒々しく息を付きながら、血塗れの唇で言葉を継いだ。 「――乳香を。肝心な時にこそ、お召し物に乳香を焚き染めるのは止めた方がよろしいでしょう。貴方の決意のほどが丸判り」 乳香の匂いのする神父に庇われながら、しかしカッツェンエルンボーゲンは公爵に向けて語っていた。 自分が公爵の目にどのように見えているか判っていた。まるで悪魔のように、悪鬼のように見えていることだろう。これこそがカッツェンエルンボーゲン伯爵家特有の妖精じみた冷たさである事も判っていた。けれどカッツェンエルンボーゲンは口にせずにはいられなかったのだ。 「私は過去に三度この匂いを嗅ぎました。二度目は母の十周忌の墓前、三度目は閣下の屋敷の庭園の小礼拝堂。そして一度目は――」 公爵は武者震いつきながら怒声を上げ、カッツェンエルンボーゲンの言葉を遮った。 「この者の爪を全部剥ぎ、あの小僧の元に送りつけろッ!」 |
つづく |
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