薔薇の冠 12





 夜半過ぎ、痛みと熱に目覚めると、寝台脇の椅子に聴罪神父が腰かけていた。カッツェンエルンボーゲンが起きたことに気付くと、祈祷書を閉ざして立ち上がり。
「痛み止めです、お飲み下さい」
 聴罪神父はカッツェンエルンボーゲンの背中に手を添えて起き上がらせると、口内に丸薬を挿し入れた。水差しから器に水を注ぐと、器の縁を唇に宛がう。
 乾いた喉に染み込む水はまさしく甘露だった。
「食事になさいますか?」
 食欲はまったくと言っていいほどなかったが、食を断つ事は許されていなかった。かすかに頷きを返すと、聴罪神父は母屋へと走った。
「デュヴァリエ殿が――」
 料理人を叩き起こして作らせたのだろうスープは熱く、吹いて冷ます必要があった。
 適温にしたスープを匙で掬い、カッツェンエルンボーゲンの口に注ぎ入れながら、聴罪神父は言った。カッツェンエルンボーゲンの指にはすべて包帯が巻かれ、治療を施されてはいたが、匙を取るのは未だ困難だった。
「貴方の面倒を看たがっておりましたが、私が断りました。あの方は揺れていらっしゃいます。貴方に取り込まれるといけません」
 悲鳴が漏れぬよう猿轡を食まされた上で、手の爪を全て剥がされた。
 爪は公爵の公言通りルドルフ王子の元に送り届けられたという。王子の反応については、未だ聞かされてはいなかった。
 それは銀輪を嵌められた際の痛みと比較するのさえおこがましいと思えるほどの苦痛だった。
 泣き、嘔吐し失禁し、自尊心をかなぐり捨てて懇願した。それでも最後の一枚が剥がされるまで決して許される事はなかった。
 けれど激昴した公爵に殺されなかっただけでもむしろ幸運と言えただろう。
「私もお止めはしたのですが、公爵閣下が聞き入れて下さらなかった。言い訳をするあたり、私も又貴方に取り込まれかけているのかもしれません」
 唇に零れたスープをナフキンで拭う。
「泣きながら私にしがみついて来た貴方は本当に素敵だった。手の爪が十本しか存在しないのが残念に思われたほど。足の爪はどうなさいますか、と閣下にお尋ねしなかった事を感謝して頂けますでしょうか。もっともあれが貴方の演技である事を見抜けぬほど私は未熟ではありません。私は大使や公爵閣下とは違います」
 神父は視線を上げて微笑んだ。
「貴殿とてそろそろ私を持て余し始めているのだろう。――砒素が良い。あれは遅効性の上、死因の特定が難しい」
「ならば、貴方様が死ぬ前に味見をさせて頂かなくては。いつも諸卿(かたがた)が愉しまれるのを傍で見ているだけでは」
「人が犯した罪を聴く神父が何を。だが用意してくれるというのなら、その好意に応えよう」
「では、貴方様のその怪我が完全に治った時に」
「その時にはまた新たな傷が出来ている」 
「舌を噛み切っても人は死にません。ご存知かと思っていましたが」
「噛み千切った舌が喉に詰まれば窒息するな。残念だ、あの男は私の手で殺したかったのに」
「貴方は実はとても男性的な方なのだという事を私は既に知っています。貴方が新教徒でさえなければ、と私は時々思いますよ」
 吹いては冷ましていたスープ。神父は何を思ったか、スープ皿に匙を入れるなり、そのままそれをカッツェンエルンボーゲンの口に入れた。熱さに顔を顰めるカッツェンエルンボーゲンを見て笑う。
「火傷をされましたね。舐めて差し上げましょう」
 聴罪神父の舌がカッツェンエルンボーゲンの唇をこじ開けた。火傷したその部位をちろりと舐めてから、名残り惜しげに唇を離す。
「乳香の話をしていらっしゃいましたね」
 再び匙を取り、今度はきちんと冷ましてから口に運んだ。
「元々激しやすい御方でしたが、あれほどまでに激昴された公爵閣下を見たのは初めてです。乳香が――どうされたのですか?」
「あの男はここぞという局面で乳香を衣類に焚き染める。白鳥の庭園の小礼拝堂に一歩足を踏み入れた時、嫌な予感がした。予感は的中、私はあの男の虜囚となり、今ここでこうしている」
「それが三度目。二度目は貴方様の母上の十周忌の墓前、でございましたね」
「よく覚えているな、あの騒ぎの中で」
「記憶力は良い方でございますので」
「長い間忘れていた。乳香の匂いだけでは私はきっと一生涯思い出さぬままだったろう。墓前で、薔薇と入り混じった乳香の匂いを嗅いで思い出した。この匂いが母が殺された場所に漂っていた匂いと同じだと」
「殺されたのですか、貴方のお母上は」
「私の母は我が家の庭の温室で死体で発見された。頭は陥没し、美しかったその顔はめちゃくちゃに叩き潰されていた。そして温室の中には、薔薇と乳香とが入り混じった匂いが漂っていた」
「貴方は公爵閣下が貴方の母上を殺したと思っておられるのですか」
「判らない。けれどそれを思い出した私は司法職を手に入れるべく腐心した。公文書保存室にある筈の事件の調書を見たかったのだ。しかし苦労して入室を果たしたその公文書保存室に事件の調書は存在しなかった。あるべき筈の調書がないのはおかしい。誰かが抹消したのだろう」
「貴方の母上と公爵閣下の関係は」
「あの男は私の母と関係を持っていた。人の口に戸は立てられない。私は聞かずとも良い事を方々から聞かされた。あの男の初めての相手だったそうだ」
「もし閣下が貴方の母上を手に掛けたのだとしたらその理由は?」
「それも――判らない。あの男が私を憎むその理由と同様に」
「閣下、貴方は心臓が弱くありませんか」
「いや……何故だ」
「お身内に心臓の弱い方は」
「私の祖父はある日突然胸を押さえて倒れ、亡くなったそうだ」
「もし閣下の心臓が弱ければ、あまり苛烈な事は行えませんね」
「何を今更」
 聴罪神父はあらかた飲み終えたスープ皿を盆の上に載せると、紐帯に結び付けた巾着袋の中から紙に包まれた粉末を取り出した。
「カンタリス、ご存知でしょうか」
「ボルジアの毒薬だろう」
 まさかこんなに早く――。
 驚きに双眸を見開くカッツェンエルンボーゲンに対し、聴罪神父は何の感情の篭もらぬ声で。
「多量ならば。けれどご存知でしょうか。カンタリスは少量用いると異なる効果があります。だからこそお聞きした。心臓はお強いですかと」
 聴罪神父は包み紙を広げ、その粉末を見せながら言った。 
「催淫剤です」




 王宮は暗く沈んでいた。世継ぎの王子が重篤との知らせが宮廷を駆け巡ったからである。
 舞踏会も園遊会も夜会も催されなくなってから久しく、王子は未だ健在であるのにも関わらず、既に喪に服しているような状態であった。
 ルドルフはその沈みきった王宮の外れ、今は使われていない続き部屋の一つをラインスター公爵との密会の場所に選んだ。部屋は薄暗く埃っぽい。室内の調度品は一箇所に集められ、埃よけの布が被されていてた。
「何用だ、小僧」
 暫くして現れた公爵は常の如く不遜だった。
 荒れた様子の室内の様子を見て眉を潜め、勧められぬうちから手前の椅子に腰を下ろした。
「お呼び立ての理由には見当がついているのではないかと存じますが。――先日は結構な贈り物を頂戴致しました」
「気に入ったであろか」
 ルドルフは答えず唇を固く引き結んだ。
「閣下のご友人のフランス大使とお話しを致しました。流石は美の国のフランス大使、興味深い話を数多く聞かせて下さいました」
 公爵は一瞬、その黒曜石の瞳を大きく見開いたが、すぐに面白がるような表情を浮かべ。
「面白い。貴公の口からどのような作り話が飛び出すのか興味がある」
「両天秤にかけられましたね、閣下。フランス女は気位が高い。袖にされて黙って引き下がりは致しませぬ」
 公爵の顔に驚愕の色が浮かび、やがてそれは大きく広がった。
 老ヴェルフ伯は帝国の筆頭家臣、帝国の内情に通じていた。ルドルフがワインスベルクに滞在していたその僅かの間にもたらされたその情報はまさに値千金であった。
 ラインスター公爵は皇帝の孫娘との婚約をひそかに画策していた。あろう事かフランス王女と帝国皇孫女を天秤にかけていたのである。そしてその天秤は帝国皇孫女の方に大きく傾いていた。
 その事実をルドルフから知らされた大使は公爵を裏切る決意を固めたのだ。
 二百年に渡ってのフランスの宿敵である帝国と同盟を結ばれる位ならば、王にはさせぬ、と。
 否、裏切ったという表現は正しくないだろう。先に大使を裏切ったのは公爵の方なのだから。
「あの者を返して貰えるのなら、私はこれ以上事を荒立てるつもりはありません。どうかお引き下さい、閣下。潮時です」
「戯言はそれで仕舞いか、小僧」
 ラインスター公爵は椅子を蹴って立ち上がった。肩をそびやかし、続き部屋を出て行こうとする。その背中に向けてルドルフは言った。
「大使は閣下と王后陛下の関係についてもお話しなさいました。必要であれば、国王陛下の前でお話しをされても構わないと仰っておられます」
 賽は投げられた。ルビコン川は渡ってしまった。もう後戻りは出来ない。しかし、とルドルフは思った。
 私を後戻り出来なくさせたのは、他ならぬ公爵、貴方だ。
 貴方は引き際を誤ったのだ。
「貴方は王后陛下と道ならぬ関係に陥っていた。王后陛下と結託し、ジークヴァルト王子殿下の戴冠を脅かす私を亡き者にしようと考えた。その為にまず私と親しいカッツェンエルンボーゲン伯を罠に嵌めた。人を使ってカッツェンエルンボーゲン伯を小礼拝堂に呼び出し、その場所に王后陛下を待たせた」
「気の触れた大使の戯言を誰が信じる」
「そう仰られると思っておりました。閣下、証拠はここに存在します」
 ルドルフは上衣の下から手紙の束を取り出した。それは、出来る事なら最後まで使いたくなかった切り札であった。
「王后陛下からの返書です」
 それを目にするなり、ラインスター公爵はルドルフに躍りかかった。ルドルフの咽喉に絡みついたその手は、埃よけの布を跳ね上げて飛び出して来た衛士に阻まれた。
 衛士に羽交い絞めにされながら、公爵は激昴し、叫んだ。
「謀ったな、小僧!」
「私は申し上げました、閣下。潮時だと。貴方は引くべきだった」
 なぜルドルフが薄暗い部屋の中に居ながら灯りを用いなかったのか、その理由をラインスター公爵は知る事となった。続き部屋の暗がりから国王その人が現れたのである。
「馬鹿な――」
 ラインスター公爵は顔面蒼白となった。
「陛下、そこで何をなさっておいでですか」
 突然戸口から人の声がした。奇妙に安定さを欠いた声。
 王妃であった。
 一目で何かあったと判るような姿であった。
 着衣は乱れ、焦点の合わぬ瞳を彷徨わせている。ぼんやりとしたその瞳は兵に捕らわれている公爵の姿を見て、ようやく焦点を結んだ。
「何をしているのですか、公爵閣下に。王弟を拘束するとは何事です」
「妃よ」
 話しかけようとする国王を遮り、王妃は言った。
「ヴァルトが」 
 言って、王妃はヒステリックな笑い声を上げた。
「私達のジークヴァルトがたった今、天に召されたのです。なのに貴方は――」  礼拝堂の方角から鐘の音がしていた。定時課以外の時間に鳴らされる鐘は非常事態を意味する。ルドルフはこの鐘が弔鐘だということを知った。
「そう、貴方はいつもそうなのだわ……」
 王妃はよろめき、不自然に国王の背中にぶつかった。
 反動で前に倒れかかった国王をルドルフが抱き止める。
 ルドルフの腕の中で国王がずり下がった。抱き直し、国王の背中に奇妙な物が生えている事に気付いた。
 それが何であるかに気付いたルドルフは絶句した。
 国王の背には細身のナイフが深々と埋め込まれていたのだった――。





つづく
Novel