薔薇の冠 14





 その姿を見て、手を打ってあざ笑うような真似はすまいと心に決めていた。
 だが、搭の地下室に降りて行き、憔悴しきった公爵の姿を見た途端、カッツェンエルンボーゲンは自分の決意が徒労であったことに気付いた。
 この男はもう充分罰を受けているのだ。命がけで手に入れようとしていた王冠を失ったのだから。
 公爵は両手で頭を抱え込み、椅子に腰掛けていた。足音に気付いて顔を上げたが、すぐに足元に視線を戻し。
「――身体はもう良いのか」
「生憎と。けれど最初に受けた拷問で腕の腱を切ったようです。ひょっとしたら今後生活に支障が出るかもしれないと医者には言われています」
「我は謝らぬ」
「元より謝って欲しいとは思ってはおりません」
 爪を剥がされた指先には変わらず包帯が巻かれていたが、顔の腫れは引いていた。裂傷や切り傷は未だ残っているが、それもいずれ時間が治す事だろう。
「拷問はいつから行われるのだ」
「貴方から引き出さなくてはならない情報があるのなら必要でしょう。けれど真実はすべて明るみに出ている。判らないことは一つだけ」
 公爵は目を伏せたままだった。
「――なぜ母の遺体を傷つける必要があったのですか」
「貴公はあの女を偶像視しているな。母親であれば当然か。成る程、美しくはあった。美しくて聡明、そして世にも残酷な、ある意味常軌を逸したとさえ言える女だった」
 公爵はテーブルの上の酒壜に手を伸ばし、震える手でグラスにワインを注いだ。一息に煽ると、手の甲で唇を拭い。
「ふふ、乳香か。まさか気付かれるとは夢にも思わなかった。確かにあれは我の決意の表われ。あの日我はあの女に求婚するつもりでいた。婿である夫君との間は既に冷め切っていると聞いていたからだ。だが我の求婚を受け、あの女は言ったのだ。貴方を愛してはいるけれど、貴方とは結婚はできない。これまで通りの関係を続けましょうと」
「それは、王国の王子である貴方の将来を慮ったからではございませんか」
「そう思うか? いや違うな。我は尚も言いつのった。王位継承権など要らない。周囲の非難の目が気になるのなら共に逃げようと。我の覚悟を聞いたあの女は態度を急変させた」
 公爵はテーブルを拳で強く叩きつけた。叩いた衝動でテーブルの上の瓶が倒れた。瓶は石造りの床に落ち、無残にも砕け散った。
「あの女は冷たく、私は貴方の恋人である前に母親だと言ったのだ。その瞬間、我は悟ったのだ。あの女が我と付き合ったのも、小僧の教師を買って出たのも、すべてはあの女の息子、貴公のため。次の国王の御世に貴公にとって居心地の良い場所を作るためだったのだと」
「まさか」
「そう思いたければ思うが良い。そう思った方が楽であろ。だが我の言葉は真実だ」
 公爵は床に散らばったガラスの破片を踏んで立ち上がった。 
「聡明なあの女が見せた唯一の失策、あの女は恋に盲目となった恋人の役を最後まで演じきれなかった。我に、王位継承権のない我に意味はないという態度を露骨に見せてしまった。一度気付いてしまえば、どんな言葉ももはや言い訳にしか聞こえない。我らは口論となり、激しく醜く言い争った。あの女は弁が立つ。言い負かされそうになり我はいきり立った。その時だ、あの女が胸を押さえてうずくまったのは――」
 閣下、貴方は心臓が弱くありませんか。
 カッツェンエルンボーゲンはひどく唐突なように聞こえた聴罪神父の質問を思い出していた。聴罪神父は続けてこうも尋ねていた。お身内に心臓の弱い方は? と。
 恐らく聴罪神父はラインスター公爵の言葉の裏付けを取りたかったのだろう。
「死ねば良いと思った。その次の瞬間には死んでいた。殺す事さえも許さぬとは、何と傲慢な女なのかと思った。だから」 
 公爵は瞳を閉ざし、言葉を切った。だから――。
 その続きはどれほど待っても聞けなかった。 
 カッツェンエルンボーゲンは地下室を後にした。





 王は殿医が声をひそめて告げた命の刻限を越えてもまだ生きていた。
 後になって、ルドルフは思うことになる。この期間こそが父である国王の一番近くで過ごした日々ではなかったかと。
 王と枢密院の判断により、王は急な病を得たこととされ、王妃に咎めはなかった。
 王妃はジークヴァルト王子の葬儀の後、かつてルドルフが幽閉されていた王領地の屋敷に移送された。実家である帝国皇室より再三再四、身柄の受け渡しを乞われていたが、その判断は未だ保留となっていた。
 もしも――、と夢想することさえおこがましく恐れ多いことだったが、もしも王冠を頂いたのなら、王妃を帰そうとルドルフは考えていた。
 王は重症の床にいたが、意識はハッキリしていた。
「ルドルフ……」
「ここに控えております、陛下」
「……余は、良い王では……なかったな」
 肯定することもさりとて否定することもできず、ルドルフは沈黙した。
「だから……か」
 だからこんなことになったのか、と苦しい息の下、皮肉らしく唇を歪め。
「王妃を許そう。すべて私が……次の……」
 そして王は決定的な一言を口にした。
「次の王は、そなた……だ」
「陛下」 
「許して欲しい。……今までの仕打ち……そして……エリサ……にも」
 エリサ、それはルドルフの母の愛称であった。王はふいに咳き込むと、口から血を吐いた。 
 殿医と看護人たちは色めきたって寝台を囲み、ルドルフは病室から追い出された。病室の外ではカッツェンエルンボーゲンが待っていた。
「陛下に――、直々に指名された」
 ルドルフと肩を並べて歩きながら、カッツェンエルンボーゲンは言った。
「左様でございますか。おめでとうございます」
「嬉しいが、手放しには喜べない。人の死が前提の王冠はあまりにも……重い」
「いずれ王になられるであろう殿下にお願いがあります」
 いつになく性急に切り出したカッツェンエルンボーゲンに、ルドルフは驚いた。
 らしくない、と思った。
「何なりと」
「ラインスター公爵閣下に恩赦を賜りたく存じます」
「なぜ……」
 かすれたような呟きが、ルドルフの唇から漏れた。
「なぜだ、カッツェンエルンボーゲン。あの男は私とそなたの死を画策した男だぞ!」
 ルドルフは立ち止まり、激しく地団駄を踏んだ。
 憎まず、許そうと思っていた。国王を王妃を、今まで自分に白い目を向けていた貴族たちを。母の遺言通りに。
 けれどあの男は違う、あの男だけは別だ。あの男だけは絶対に許さないと心に決めていた。
「そなたを痛めつけ、そなたの爪を剥いだ男だ。他の誰を許しても、私はあの男だけは絶対に許さない!」
「もちろん今すぐにとは申しません。貴方様が王となられ、ほとぼりが冷めましたらその時に」
「嫌だ。そなたが公爵を許しても、私は許さない。いや許せない!」
「公爵を処刑なされば、決定的な王位継承権を持つ者がいなくなります。そうなれば、貴方様の異母妹、マリア・ルイーゼ王女殿下を担ぎだそうとする動きが出て参ります。マリア・ルイーゼ王女殿下は血友病の因子を持つ帝妃の血を引く、その御子は長く生きられず、国は荒れる。そればかりでなく帝国からの専横も必ずや起こりましょう」
 ルドルフは拳を握りしめた。
 今までは王冠を手に入れること、ただそればかりを考えていた。だが戴冠は終わりではなく始まりにすぎないのだ。
 カッツェンエルンボーゲンの言葉はいちいちが正論で、しかしそれだけにルドルフは反発を覚えずにはいられなかった。
「殿下、ラインスター公爵閣下を処刑なさっても、マリア・ルイーゼ王女殿下が脅威にならない方法がたった一つだけございます」
 ルドルフは即座にその提案に飛びついた。
「その方法とは?」
「殿下が然るべき家の然るべき子女と一日も早く婚姻なさり、一日も早くお世継ぎを作られるのです」
 ルドルフは全身の血が凍りつくような感覚を覚えた。幾度も唾を飲み込み、深呼吸を繰り返し、ようやく声が出た。
「貴公はずるい。私にそれが出来ぬことを知っていて――」
「憎しみはあらたな憎しみを生み、復讐はさらなる復讐を生むばかりと私は考えます。子を思う母の気持ちは恐ろしいほど。殿下がラインスター公爵閣下を処刑なされば、王大后アレクサンドラ殿下は貴方の恐ろしい敵となりましょう」
「今後あの男が我らを脅かさぬという保障があるのか」
「今のあの男はただの抜け殻に過ぎません」
 ルドルフは肩を落とした。
「王になったからといって、何もかも好きにできる訳ではないのだな」
「好きにされれば言われましょう、暴君と」
「判った、貴公の好きにすると良い。――国務大臣」
「かしこまりました、殿……下?」
 琥珀の瞳に驚きの色を浮かべて、カッツェンエルンボーゲンはルドルフを見た。
「聞こえなかったか。私とて貴公をだしぬきたい時もある。私が王になったら、貴公は国務大臣だ。辞退することは決して許さぬ」
 カッツェンエルンボーゲンは呆れたように笑い、そして言った。
「地獄の底までご一緒いたしましょう」





 王は死んだ。新国王万歳。
 フランスの伝統的歓声にあるように、国王の喪も明けぬうちから、ラインラント国内は祝賀に浮き立った。
 戴冠式の準備に忙殺されるカッツェンエルンボーゲンの前に、ラインスター公爵に先駆けて釈放されたクロイツェル聴罪神父が現れた。
 同様にカッツェンエルンボーゲンの虜囚に関わったデュヴァリエ伯はその証言と引き換えに罪を許され、既にフランスに帰国していた。
「助命をして頂いたそうですね」
「もしも礼を述べるならば、私ではなく寛容なる新国王陛下に」
 聴罪神父はその言葉を否定するように小さく首を振った。
「そして私も貴殿に礼を述べねばならない。あの時貴殿が公爵の秘密を打ち明けてくれなければ、私は恐らく公爵を殺してしまっていただろう」
「聴罪神父としては、たとえ貴方に公爵閣下が殺されてしまったとしても、私は公爵閣下の秘密を守るべきだったのでしょう。告解の内容を他者に漏らすなど聴罪神父にあるまじき背信」
 胸の十字架を握りしめ語る聴罪神父の言葉は苦渋に満ちていた。
「けれど私は閣下の魂をお救いしたかった。日々自らの罪を悔い、懺悔するあの方を見守り続けてきました。あの方は犯した罪以上の報いを既に受けていた。それに飽き足らず、さらなる赦しを求めた。それこそが茨冠。あの方は自身の戴冠、それこそが神の赦しだと信じて止まなかった……」
「いや、貴殿は正しい。もしも私が貴殿の立場だったとしても、きっと同じ事をしただろう」
「私は教皇庁に戻ります。もうお会いすることもないと思いますが、どうかお元気で」
 聴罪神父は思いきった様子で手を伸ばすと、カッツェンエルンボーゲンの黄金の髪に触れた。
「後悔が、たった一つだけあるのです。貴方を抱いておけば良かった」
 黒絹のリボンで一つに束ねたカッツェンエルンボーゲンの黄金の髪、それを目の高さにまで持ち上げて口付ける。
「神のために大事に守り続けた純潔を捨てる勇気が持てなかった」
「私は貴殿にひどいことを言ったな。まさか――と」
「図星を突かれました」 
「聖職者は妻帯してはいけない。母の言葉の意味が今こそ真に迫った。あの母をして、自分の子供を大事に思うその気持ちには勝てなかった。恐ろしいな、他人を犠牲にしても、踏みつけにしても構わないと思えるほどの大事な物が存在するというのは」
「けれど他人を犠牲にしても、踏みつけにしても構わないと思えるほどの大事な物がない。そんな人生などつまらないとはお思いにはなりませんか」
 お元気で。
 最後にもう一度告げて、聴罪神父は去った。
 カッツェンエルンボーゲンは瞳を閉じて思った。
 他人を犠牲にしても、踏みつけにしても構わないと思えるほどの大事な物。自分にとってそれはルドルフだろう。
 そしてカッツェンエルンボーゲンは自分の内に母と同じ種類の冷血が流れている自覚があった。
 ああ、どうか。どうか母と同じ徹を踏まないように。自分の大事な物のために、他の者を足蹴にしないように。
 母と同じ過ちを繰り返さないように。
 それは祈りにも似た、カッツェンエルンボーゲンの切なる願いだった。





つづく
Novel