薔薇の冠 5





 国王ジキスムントは現王妃マリア・カタリーナとの間に二人の子供を持っていた。王女マリア・ルイーゼと世継ぎの王子、ジークヴァルトである。
 ゲルマンの法においては、女子と庶子は王位を継げない。世継ぎの王子に万一の事があれば、王位継承権第一位となるのはラインスター公爵。結婚の解釈によっては、ルドルフがその座に就く可能性もあった。
 扇の下でジークヴァルト王子の病状が囁かれる中、ちらちらと黒衣と十字架とが見え隠れしていた。
 あの男が抹香くさいのは常のことだが、近頃はそれがとみに顕著だ。

――教皇庁を味方につけたか。

 今や新教の波は欧州全土を覆い尽くそうとしていた。教皇庁は新教の国がこれ以上増える事を危惧している。
 イスラム式の四阿を建てたことでわかるように、今の王は中道路線の旧教徒。世継ぎのジークヴァルト王子も又。
 だが、カッツェンエルンボーゲンの母の薫陶を受けたルドルフ王子は新教徒。教皇庁が苛烈な旧教徒であるラインスター公爵に肩入れするのは道理だろう。
 ラインスター公爵は適齢期の王族であるにも関わらず、未だ独身だった。
 表向きは宗教上の理由。神のために童貞を守るとは笑わせる、ラインスター公爵の情事はその多様さ、その数多さでとみに有名だった。牽制しつつ、自分を高く売りつける相手を物色していたと解釈すべきだろう。
 教皇庁の長女たるフランスの王女と婚姻し、フランス王家の後ろ盾を得つつ戴冠する。
 その動きこそが、カッツェンエルンボーゲンの目には黒衣と十字架として映っていたのだ。
「今宵もお美しいですな、伯爵」
「大使」
 国王夫妻主催の舞踏会の最中、声をかけてきたのは、オーギュスト=エマニュエル・デュヴァリエ、フランスの伯爵にして大使だった。世継ぎのジークヴァルト王子を見限ってラインスター公爵派に鞍替えしたという噂は耳新しいが、それ以前は無類の漁色家として名を馳せていた。
 カッツェンエルンボーゲンは会話をフランス語に切り替えると言った。
「お忙しいようですね」
「何が、でございますか」

――狐が。

 心の中で呟く。
 だが、そうでなければフランス大使という要職は務まるまい。
「どうやら人に酔ったようです。よろしければ少々お付き合い頂けませんか」
 デュヴァリエ伯はやれやれといった表情を浮かべてクラヴァットを緩めると、フランス扉を開けて、広いバルコニーに出た。カッツェンエルンボーゲンはその後に続いてバルコニーに出ると、後ろ手で扉を閉ざした。
「閣下はこんな言葉をご存知でしょうか。およそ人の行いには潮時というものがある、うまく満潮に乗りさえすれば運は開ける」
 それがシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の一節だと気付いたカッツェンエルンボーゲンはその台詞の続きを口にした。
「一方それに乗り損なったら、人の世の船旅は災厄続き、浅瀬に乗り上げて身動きが取れぬ。――ジュリアス・シーザーですね」
「貴方は頭の良い方だ。端的に申し上げましょう。フランス王とラインスター公爵閣下との同盟は整いました。この状況下において閣下がファルケンシュタイン伯に肩入れされるのは得策とは思えません」
「浅瀬に乗り上げて身動きが取れなくなると?」
 デュヴァリエ伯は無言で頷いた。
「私はむしろ満潮の海に浮かんでいると思っておりましたよ。せっかくの潮時に流れに乗らねば、賭荷も何も失うばかり」
「教皇猊下がお味方と聞けば如何でしょうか」
「大使、私は新教徒ですよ」
「むろん存じております」
 それがどうしたと言わんばかりの態度であった。
「大使のお国では聖パルテルミーの日に三千人の新教徒が殺されたと聞いています。お隣の英国には国会議事堂を爆破しようとして車裂きにされた旧教の狂信者がおりましたね。けれど新教徒を何千人殺そうとも議事堂を爆破しようとも、一度回り始めた歯車を止めることは誰にもできない」
「閣下にひとつご忠告を」
 大使はカッツェンエルンボーゲンの首筋を撫でるように手で触れた。
「闇夜に注意をなされるよう」
 デュヴァリエ伯と入れ替えにルドルフ王子がバルコニーに現れた。
 伸ばした鳶色の巻毛が頬の辺りに垂れかかり、何とも言えぬ風情があった。

――お美しくなられた。

 こうして公式の場で見て改めて思う。元々良い物を持っていた王子だったが、内なる自信が生まれたことにより活き活きとした生気が生まれ、輝くばかりのオーラを放つようになった。
「カッツェンエルンボーゲン、デュヴァリエ殿は何と?」
「釘を刺しに。流れによっては私を懐柔するつもりだったのかもしれません。その前に交渉は決裂致しましたが」
 まるで月にむら雲がかかるように、ルドルフの顔が僅かに曇った。
「大丈夫ですよ、殿下。私は注意深いのです」
 ルドルフ王子のクラヴァットが少し曲がっていた。手を伸ばしてそれを直すついでに乱れた髪を整えてやり。
「今夜の夜会には陛下がいらっしゃいます。貴方の存在を陛下に知らしめる良い機会です。ジークヴァルト王子殿下の手前、決して笑顔は見せず、けれど堂々とお振る舞いなされるとよろしいかと」
「判った。貴公の言う通りにしよう」
 踵を返すその後姿が寂しげだった。その背中に向けて声を掛ける。
「殿下、明日私の屋敷にいらっしゃいませんか」
 その言葉を聞くや、ルドルフ王子は顔を輝かせた。軽く頷き、家名の如くの仔犬のような弾んだ足取りで広間に戻って行く。
 広かれた扉の向こう、ラインスター公爵に何事かを囁いているフランス大使の姿が見えた。
 カッツェンエルンボーゲンは浅く、けれど長い息を吐いた。





 カッツェンエルンボーゲンは夜会の途中で席を辞した。自信を持ち、垢抜けたルドルフ王子を取り巻く人々は今や多い。自分が側におらずとも大丈夫だろうと判断したのだ。
 そして一人になって考えたいこともあった。
 ルドルフ王子を正当なる王位継承者として、貴族たちに印象付けることには成功した。次の一手として、新教徒の有力な貴族を味方につける必要があった。新教趣味を持つ貴族は多いが、有力な、との呼称が付くとその数は限られる。
 夜の王宮の庭にはひそかなアヴァンチュールを愉しむ男女の姿があった。
 カッツェンエルンボーゲンは完全に一人になれる場所を求めて、庭園の奥深く入り込んでいった。 
 ネプチューンの噴水を過ぎ、手入れの行き届いた花壇と大理石の彫刻の間を進んで行くと、幾何学模様に背の低い潅木が植えられた場所へ出た。目を愉しませる花もないこの場所ならば、完全に一人になれると思ったのだ。

――ああ、彼がいたな。

 大理石造りのベンチに腰を掛けたその時にある人物の名が浮かんだ。
 大蔵卿レオンハルト・フォン・エッシェンバッハ。 
 どう渡りをつけようか。
 唇に指を当て思案に耽り始めると、背後から芝を踏む音が響き、カッツェンエルンボーゲンは振り向いた。
「閣下……」
 驚いたのは相手も同様だったらしい。ラインスター公爵はその黒曜石の瞳を見開いて、カッツェンエルンボーゲンを見ていた。
 一番会いたくない男に会ってしまったと思った。
 その思いは恐らく公爵も同じであったろう。会いたくないと逃れ逃れて来たその場所で会ってしまうとはなんという皮肉か。
 それも互いが似ているそれ故の現象か。
「大使の誘いを断ったそうだな」
「あれはお誘いでございましたか。私はシェイクスピアのお話だとばかり」
「何故貴公があの小僧を助けたのか。繋ぐ糸がようやく見えた気がする。貴公は異端者だ。王にはやはり異端の新教の王を望むが当然か」
「お言葉ながら閣下、新教は異端ではございません。旧教の形式主義を廃し、信仰をあるべき形に戻しただけの物。聖職者は妻帯するべきであるし、離婚も許すべきでございましょう。人は弱く、そして変わっていく生き物。杓子定規で決め付けて締め上げてはいけないのです」
「あの女と同じ顔で、同じ事を言うのだな」
「左様でございましょう。私の母の薫陶を受け、新教徒にならなかった人間は閣下、貴方だけだ」
「薫陶だと? 笑わせるな、カッツェンエルンボーゲン」
「鋼の意志をお持ちだとお褒め致しましょう」
 ふいに胸倉を掴み上げられ、潅木に叩きつけられた。衝撃に息が詰まる。
「私がいつでも貴方に辱められるがままになっていると思うのなら大きな間違いです、閣下。貴方のような方が何と呼ばれているかご存知ですか。――貴方は、狂信者だ」
 腕を突き出し、公爵の胸元の十字架に手をかける。勢い良く引き、鎖を引き千切った。引き千切られた鎖と十字架が地面へと転がり落ちる。
 ラインスター公爵は激しい憎しみを込めた黒曜石の双眸でカッツェンエルンボーゲンを見た。
 もしも視線で人を射殺すことが出来るのなら、間違いなく自分は殺されていたことだろう。それはそれほどまでに強い視線だった。
「猫が、どの唇を持って神を語る」
 容赦のない力で頬を打たれた。二度、三度、続けざまに打たれ、唇の端が切れ血が流れ落ちた。
 長靴の踵で鳩尾を蹴られ、カッツェンエルンボーゲンは激しく咳き込んだ。脇腹を蹴られ地面に転がされる。再び鳩尾を蹴られた。
 カッツェンエルンボーゲンは堪らず身をくの字に曲げると嘔吐した。喉に吐瀉物が詰まって呼吸が困難となる。
 荒い息を繰り返すカッツェンエルンボーゲンの上に馬乗りになると、公爵はショースごと下衣をひき剥がした。その意図を悟り、カッツェンエルンボーゲンは狼狽した。
「気でも狂われたのですか、閣下」
 公爵は背後からカッツェンエルンボーゲンの腰を抱え上げると、脚間に身体を入れた。
「世界で一番嫌いな男を抱こうなど閣下も酔狂な方だ」
「それで貴公の自尊心が地に落ちるのならば、試す価値はあろう」
「ご存知でございましよう。私に自尊心などないという事は」
 決して有り得ぬ話ですが、と前置きしてその可能性を語ったことがあった。その決して有り得ぬことが今まさに現実に起ころうとしていた。
「貴方に抱かれたいと思う人間は宮中に星の数ほどいらっしゃる。私を辱めるただそれだけのために、その一物を使われるつもりですか」
 公爵は答えず、荒々しく前だけを寛げた。
 熱い怒張が押し当てられたかと思うと一息に貫かれた。
 脳天まで達するような激痛が走った。
 公爵は野獣めいた激しさで腰を打ち付け、カッツェンエルンボーゲンを苦しめた。背後から乱暴に突かれて引かれると、内臓までもが引き抜かれる思いがした。
 まるで内臓をかき回されるような性交だった。カッツェンエルンボーゲンの脚間のそれは萎えきり、全く反応を見せない。
 かつて、幼き日に同じ苦しみに耐えた事があった。苦しみに耐えるためにただひたすらにこの男を憎んだ。王国の末の王子、母の最後の愛人となったこの男を。
 息子ほど歳の離れたこの男に母は執心した。そしてこの男もまた母に夢中であったと聞いた。その母の死後、この男は愛したのと同じだけの激しさで母を憎みだした。
 見切っているつもりだった。母亡き後、この男が世界で一番憎んでいる男である自分を抱く訳がないと。
 世界で一番憎んでいる男を抱いてまでして貶めたいというこの憎しみの深さまで見切れなかった。
「……く……っ」
 やがて無理な抽送に耐えられず内壁が切れて血が流れ出した。それが潤滑油の役目を果たし、カッツェンエルンボーゲンはより深く突かれる事となった。
「足りぬ」
 公爵は言って、カッツェンエルンボーゲンの臀部を平手打ちした。赤痣が残るほど何度も繰り返し打擲し、締め付けを強要する。
 髪結び用のリボンを引いて顔を上げさせると、公爵は喉奥で楽しげな笑い声を上げた。
「良い顔だな、カッツェンエルンボーゲン」
 引き上げたばかりのその顔を地面に押し付け、公爵はカッツェンエルンボーゲンに覆い被さった。土が口の中にまで入り込み、カッツェンエルンボーゲンは喘いだ。
 限界まで大きくなった屹立が心臓の鼓動に合わせて脈動しているのが判った。 逃れようと腕を伸ばし上体を上げる。が、強い力で腰を引き上げられ、更に深い結合を強いられた。
 痛み故とはいえ、この男に声を聞かれたくなかった。カッツェンエルンボーゲンは血が滲むほど強く唇を噛んで声を殺した。その唇に指が挿し入れられ、無理やり口を開かされる。
 時に浅く、時に深く、角度を変え、緩急を付けて犯された。
 実感してしまうのが堪らなかった。この男の容(かたち)を、その熱さを。
 狭い内壁の中で、ビク、と公爵の屹立が跳ね、火傷しそうなほど熱い白濁が注ぎ込まれる。
 カッツェンエルンボーゲンは歯を食い縛り、ひたすらに言い聞かせた。

 大丈夫だ、大丈夫……。
 大したことはない、いつもと同じ。いつもと同じ。



 気が付くと、既に公爵の姿はなかった。
 大丈夫だ、大丈夫。
 いつもと同じ。身体はただの肉。
 吐瀉物と泥で汚れた顔を袖で拭い、震える手で身支度を整えた。
 まるで強姦された女のようだと他人事のように思う。
 立ち上がった途端、生暖かい液体が腿を伝って流れ落ちた。あの男の子種かと思うと全身が総毛立った。
 身を折り、嘔吐する。胃の中の物をあらかた吐き出してしまってもいっかな嘔吐は収まらなかった。胃液までも吐いた。
 誰であれ、感じる身体なのだと思い込んでいた。誰であれ、大丈夫なのだと。だが、この身体もあの男にだけは抱かれたくなかったのだろう。
 抱かれて達しなかったのは初めての経験だった。
 ただの肉の、何と正直な事。 
 腕を抱えてその場に蹲った。整えられた潅木の間から満月が霞んで見えた。
「母上、貴女はあの男に」

――何をしたのですか。

 言葉にならないその問いは夜気にまぎれて消えた。





つづく
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