薔薇の冠 8





 ルドルフは国王に謁見を求めた。
 実父でありながらも常に遠い存在、一度は自分に死刑を求めたその男を前にして、けれどルドルフは怯まなかった。
「くどいぞ、ファルケンシュタイン伯」
「国王陛下、あの者はそのような男ではありません」
「下がれ、ファルケンシュタイン伯」
「父上!」
 ルドルフは生まれて初めてその呼び名を用いた。
「お疑いになるのも無理からぬことかもしれません。ならばせめて公式なお取調べの上、公式な裁判を!」
「今の取調べが公平でないとでも申すのか」
 ルドルフは深々と頷いた。
「あの者の身柄をラインスター公爵閣下に引き渡したとお聞きいたしました」
「そうだ」
「何故でございますか」
「そなたは我が妃が受けた恥辱の詳細を身内以外の者に聞かせるつもりか」
 ルドルフは唇を噛み締めた。
 何という巧妙な、何という悪辣な企みか。成程、それは王を納得させるに充分な理由になるだろう。
「何者かが仕組んだとは考えられませんか。ラインスター公爵閣下の公邸で起きた事件、そして第一発見者もまた公爵閣下」
「そなたは我が妃が虚偽の申し立てをしたとでもいうのか。下がれ、ファルケンシュタイン伯。これ以上まことしやかに嘘偽りを申し立てるつもりなら、謀反人として拘束するぞ。衛士!」
 ルドルフは引き下がるしかなかった。
 王宮の長い廊下を歩きながら、ルドルフは憤怒に燃えていた。
 あれが王か。
 重用していた臣下の言い分を端から聞こうともせず、普段は打ち捨てている王妃と野心家のラインスター公爵の言葉を鵜呑みにする。
 それが王か!
 それが王だと言うのなら、私は王そのものを変えてやる。
「小僧」
 柱の影から忽然と現れたのはラインスター公爵だった。恐らくは王への謁見の話を聞き、この場で待ち伏せていたのだろう。
「なぜ王があれほどまでに立腹か、その理由を知っておろうか」
 公爵は長靴の踵を鳴らして近付いて来ると、ルドルフの耳元で囁いた。
「そなたが大好きなあの猫は国王と同衾していたのだ」
 ルドルフは全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。

――今、何と言ったのだ。公爵は……。

「可愛がっていた猫に手を引っ掻かれた様な心持ちなのであろ、王は」
 瞳を閉ざす。無言のまま、一秒、二秒。
 やがてルドルフはゆっくりと目を開けた。
「あの者をお返し頂けませんか、閣下」
 恐らく公爵の予想とは違っていたであろうその言葉に、公爵は鼻白んだ。
「知っていたとは驚いた、それほどの仲か。……馬鹿な。取調べ中の者を釈放する事など出来ぬ」
「それが公式なお取調べなら、私もこの様な事は申し上げますまい」
 かつてこの男が恐ろしいと思った事があった。冷たく冴えたその眼差しで見つめられる度、恐怖に慄(おのの)いた。視線だけでいつも思い知らされた。そう、この男はいつも思っている。何故死なぬ。何故自分の邪魔をするのだと。
しかしルドルフは今、臆する事なく公爵を見返していた。ラインスター公爵は肩を竦めると踵を返した。
「あの者を取り戻す算段よりも、自分の未来を案じた方が良かろう、ファルケンシュタイン伯」
再び廊下を歩むルドルフの心は千々に乱れていた。踏みつけられるがままにはなるまいと決意し、カッツェンエルンボーゲンの助力によりいくばくかの自信を身につけた。すべてはこれからと思っていた矢先の事。
 拳を強く握り締める。
 国王とカッツェンエルンボーゲンの関係を聞かされ、衝撃を受けなかったと言えば嘘になるだろう。胸を焦がすこの感情は嫉妬。けれど、かつてカッツェンエルンボーゲンは言っていた。

――恐らく私は、私自身が穢れているからこそ、真っ直ぐで穢れのない殿下が眩し
く見えるのです。

 目的のためには手段を選ばぬとも言っていた。
 それがカッツェンエルンボーゲンなのだ。ならば、自分も受け止めよう。自分はもう怯えた子供ではない。
 廷臣の一人がルドルフの脇を足早に通り過ぎた。通り過ぎるその瞬間、四つ折りにされた紙片を握らされた。
「ルドルフ殿下、お話がございます」
 その後姿を見て確信を強める。それは大蔵卿レオンハルト・フォン・エッシェンバッハであった。
 王宮の礼拝堂の告解室にて、と紙片には記されていた。
 告解室に入ると、ややあってエッシェンバッハが現れた。新教徒同士が旧教の悪しき象徴の一つである告解室で密会するとは、何と言う皮肉であろうか。けれど人目を憚るには、これが最善の策である事はよく判っていた。
「ラインスター公爵邸にはかねてより配下の者を一人潜入させております。とは言えども、実態を把握している使用人はごく僅か。漏れ聞こえてくる情報に拠れば、酸鼻を極める拷問が行われているようでございます」
 エッシェンバッハは声を潜めて言った。
「カッツェンエルンボーゲン伯爵が監禁されている部屋より血に染まったシーツが運び出されたと」
「そうか」
 動揺すまいと自らに強く言い聞かせる。動揺したところで、泣いたところで、彼を取り返せる訳ではないのだから。
「拷問の目的は? 王后陛下への狼藉の事実を認めさせるためか」
「いいえ、殿下、私はそうは思いませぬ。王后陛下への狼藉云々は、いわば伯爵を拘束するための口実。ラインスター公の真の目的は、恐らく貴方様の謀反の証拠を手に入れる事でしょう」
「私は謀反など――」
 エッシェンバッハは頷いた。
「むろんそうでございましょう。けれどそれが事実が否かはどうでも良いことなのです。証拠という物は幾らでも捏造が可能。大事なのはその証拠を裏付ける証人の存在。それには貴方様と親しいカッツェンエルンボーゲン伯こそが適任なのでしょう」
「彼は恐らくそのような証言はしないであろう」
「でございましょうな。だからこそ責めたてられている。そしてその証人とならぬ限り、死ぬまで責め続けられる事でございましょう」
「どうしたら助けられる」
「陛下にお願いに行かれたのですね。王の反応は?」
 ルドルフは沈痛そうな顔つきで首を振った。
 沈黙が落ちる。
 その沈黙が意味する物は明らかだった。もはや手立てはない。
「私は」
 考え考え、ルドルフはゆっくりと口を開いた。
「王后陛下に直接お願いに伺おうかと思う」
「危険でございます、殿下。王后陛下にとって貴方様はジークヴァルト殿下の戴冠を脅かす大きな脅威なのですから」
「それはラインスター公爵も同じであろう。何故王妃はその事実に気付かぬのか」
「恋の熱病に冒されているのでございましょう」
 ルドルフとエッシェンバッハは意味ありげな目配せを送りあった。
「もとより危険は覚悟の上。一度は絞首台に上がった身の上だ。初めから無い命と思えば良い」
「判りました、殿下。けれどこれだけはお忘れなく。貴方様には我ら新教徒の貴族の命運が懸かっているということを」
 ルドルフは固い決意と共に頷いた。





「王后陛下、私は陛下のお話を嘘だと申し上げている訳ではございません」
 政略結婚とはいえ、母を死に追いやったも同然のその女性にルドルフは平身低頭し、懇願した。
「陛下が受けられた恥辱はいかほどのものであったかも存じているつもりです。けれどその上で、キリスト教徒たる慈愛の精神を発揮して頂き、かの伯爵をお許し頂きたいのです」
「許せとは」
 竪琴の弦を震わせるような、張り詰めた、けれど神経症的な声で王妃は答えた。
「わたくしは国王陛下に申し上げました。臣下にこのような恥辱を受け、陛下に会わせる顔がないと。ましてや我が子ジークヴァルトが重病の床にあるというこの時に、何を血迷ったか……あの者は……」
 嘘はあまりに重ね続けると、嘘を吐いている本人さえもそれが真実であると錯覚してしまうという。怒りにわなわなとその身を震わせる王妃は、まさにその典型的な症例を見せていた。
「お怒りはごもっともでございます、陛下。けれどどうか君主の寛恕を。このままでは恐らくあの者はラインスター公閣下に殺されてしまうでしょう」
「殺されて――? まさか」
 王妃は柳眉を潜めた。王妃が見せた一瞬の心の揺らぎ、それをルドルフは見逃さなかった。
「あの者は今、ラインスター公爵閣下の公邸にて取調べという名目の拷問を受けております。王后陛下への狼藉の事実を認めるまで責め苛まれることでございましょう。けれどあの者は決して王后陛下に働いた狼藉の事実を認めない事でしょう。あの者が黙しているのは、自らの罪を認めたくない為ではございません。認めれば、どうしてそれを妨げることが出来なかったのだと、王后陛下が責められずとも限りません。だからこそ認めようとしないのです」
 ルドルフは懸命に頭を働かせていた。
 王妃はカッツェンエルンボーゲンが狼藉の事実を認めぬその理由を誰よりもよく知っている筈であった。何故なら、王妃への狼藉自体が捏造であるのだから。
 それを、王妃にとって耳障りの良い理由に言い代えながら、ルドルフは遠回しに王妃を責め続けた。このまま認めなければ殺されてしまう。その原因は王妃、貴女にあるのだと。
 実直で誠実、愚鈍と揶揄されるほどに。そして腹芸は苦手とされるのがヴェルフ家の人間の特性であった。苦手であっても、良心が痛んでも、それでもルドルフはこの一世一代の大芝居を成し遂げるつもりでいた。
「伏してお願い申し上げます、陛下。どうか、どうかあの者をお救い下さいますよう!」
 王妃は薄い唇を開き、何事か言いかけた。神経症的に閉じたり開いたりを繰り返していた扇をその手から取り落とし――。
「公にお尋ね……しなくては……」
 ドレスの裾を翻し、王妃は大広間から逃れるようにして去った。
「陛下!」
 悲痛なルドルフの呼びかけが大広間に響き渡った。





つづく
Novel