千の雪が降る 1





 1816年、スイスのレマン湖畔の別荘に数人の男女が集った。
 バイロンとシェリー、イギリスを代表する二大詩人。シェリーの愛人で後に妻となるメアリー。バイロンの愛人であったメアリーの義理の妹クレア。そしてバイロンの侍医であったポリドリ。
 ある嵐の晩、バイロンの怖い話を書こうとの提案は皆の喝采の元に迎えられる。
 けれどバイロンとシェリーは物語を書き上げることが出来ず、無名の二人が書いた二つの小説こそが、皮肉なことに怪奇小説史上に燦然と輝く不朽の名作となった。
 すなわちバイロンの主治医であるポリドリが書いた「吸血鬼」
 メアリーの手による「フランケンシュタイン」
 ポリドリの書いた吸血鬼ルスビン卿のモデルはバイロンだったと言われ、青白い肌の美青年という吸血鬼像はこの小説で広く流布されることになる。また、僅か8年余で関係者全てが不可解な死を遂げたことでも知られている。

 すべてはレマン湖畔の一夜、稀代の天才詩人バイロンが発した気まぐれの一言から。
 二つの怪物は世に放たれたのである……。





 ロンドン、1980年。

 どこかで一度会っただろうか、アルは思った。
 早朝のロンドン塔。コートのポケットに両手を入れ、その男はタワーブリッジの方角を眺めていた。
 漆黒の巻毛、瞳と瞳孔の区別が付かぬほど真っ黒なその瞳。顔色は青白く、物憂げながら眼光は鋭い。美青年と断言して何らの差し支えもないことだろう。観光客でないことはすぐに分かった。何より時間、そしてカメラの類を一切持ち合わせていないその事で。
 刑事の勘が疼いたと言うのは言いすぎか。けれども何かが引っ掛かる、それは確かなことであった。
 自分に注がれる視線に気付いたのか、男がゆっくりと振り返る。
「……何か?」
「いえ、何をそんなに真剣に見ておられるのだろうと。観光ではないのでしょう」
 「ああ」
 男は微かに声を上げて笑った。
「一度も上がるところが見たことがないんだ」
 あれ、と男が指差す先にはタワーブリッジ。テムズ河を大型船が行き来するその度に上がるタワーブリッジの跳ね橋。容貌とはおよそ似つかわしからぬ無邪気な答えに、知らず笑みが浮かんだ。
「見られるのは稀だそうですね。週に一、二度は上がると聞くのですが、私もまだ」
「一度だけでもね、見られたら、と思ってるんだよ」
 そう言うと、男はタワーブリッジの方角に向けて歩き出した。
「それじゃあ、警部」
 自分の役職名をさらりと口に出され、アルが弾かれたように顔を上げる。
「ふふ、何故わかったのかって顔だね。書いてあるよ、君の顔にね」
 心臓の鼓動がにわかに早鐘を打ち始める。思わず手で顔を触れてしまう。勿論そこに回答がある筈もなく。アルは動揺した。
「……冗談。シンプソンズで声高に喋るのは止めたがいい。誰が聞いているとも知れないから。もっともあの店は席の間隔が少し狭いね」
 シンプソンズ・イン・ザ・ストランド。
 サボイホテルの斜め向かいに位置する老舗レストランにはつい先週行ったばかりだった。父親と共に。浮かんだ疑念は直ちに霧散する、ああ、あの時に、と。
 男はアルとすれ違いざまに囁いた、そこに皮肉の刺が塗されているような気がしたのは、被害妄想の一種だろうか。
「警視総監のお父上によろしく」

 それが、出会いだった。





「ハードカースル警部」
 二十階建てのロンドン警視庁庁舎(ニュー・スコットランド・ヤード)CID(犯罪捜査局)犯罪捜査課に颯爽と入って来たのはランツベルク部長刑事だった。荒っぽい捜査が多いことで知られる特捜機動課の美貌の刑事。彼の直属上司もまた噂の多い男で、ヤード内ではこう噂されていた、マスコミ対策だよ、と。
「お時間を割かせて頂いて申し訳ありません。今、よろしいですか」
「ああ、勿論」
 ロンドン警視庁犯罪捜査課の警部、アルフレッド・ハードカースル・ジュニアはランツベルク部長刑事に椅子を勧めた。
「西ドイツ連邦警察の部長刑事からの照会と聞きましたが」
「ええ、庁内をさんざんたらい回しにされた後、私のところに。極めて微妙な問題なのだと繰り返し仰っていましたよ。言葉の壁による齟齬を恐れたのでしょうね、ドイツ語を母国語なみに理解できる人間を、との事でしたから」
 ランツベルク部長刑事の父親はドイツ人だった。嘘か真か爵位を持つとも噂されていた。名前と苗字の間には貴族を意味するフォンが入るらしい、そしてベルクはドイツ語で城砦を意味するのだとも。けれどもそれは彼自身の立場には何ら関わりのない事であった。警察組織は公平、貴族でも警視総監の子息でもそれは同じ。全ては肩書きだけが物を言う世界。
 ランツベルク部長刑事は封筒から書類を取り出した。日付の古いドイツ語の新聞がテレックスで送られてきていた。新聞の一面には粒子の粗い若い女の写真が掲載されている。
「リーゼル・ミュラー、かつてカルデンシュタインの女吸血鬼と呼ばれた存在です。ご存知でしたか?」
「殺しも殺したり、16人だったかな」
「そう、平和な農村だったカルデンシュタインを一夜のうちに恐怖の坩堝に陥れた稀代の女性犯罪者ですよ」
 渡された資料を広げる。ドイツ語の新聞、ドイツ語の調書、そして資料写真。納屋から運び出される白い布に包まれた遺体と思しき物。彼女が借りていた古い農家、その納屋から運び出された遺体は実に16を数え、現在に蘇ったエリザベート・バートリと噂された。
「1960年の秋の話です。アメリカを震撼させた連続殺人鬼テッド・バンディより十年も前の話ですね。もっともテッド・バンディは確定しているだけでも36人ですが。とはいえ女の身でありながら、といったところでしょうか」
「西ドイツ連邦警察の最大の失策だったと聞いているよ。脱獄を許した、よりにもよって更生が極めて稀と言われる連続快楽殺人犯を」
「女性だからと甘く見ていたのでしょうね、恐らく」
 渡された資料にざっと目を通しながらアルは尋ねた。
「ところで、この二十年以上も前に起きたこの事件と西ドイツ連邦警察の現役の部長刑事に何の関わりが?」
「実に奇妙な話なんですよ、ハードカースル警部。だからこそドイツ語が母国語なみに理解出来る人間を指定してきたのです、彼は何度も前置きをしていましたよ、信じてもらえるかどうかわからないが、とね。見たのだそうですよ、彼女を、このロンドンで。それも1960年の逃走時と同じ姿で」
「まさか、嘘だろう?」
「現役の部長刑事です。失礼ながら警部のような、資格任用制で登用された高級公務員とは違います。平刑事からこつこつと、彼女の逮捕にも立ち会っていたそうです。その部長刑事が仰るのですよ、間違いないと。生き写しだったそうです。恐らく娘だろう、是非確認を取ってもらいたいと」
「二十年前……、西ドイツ連邦警察には時効制度が存在しなかったろうか」
「よく存知てらっしゃいますね。確かに連邦警察には時効が存在し、このカルデンシュタイン連続殺人事件においても時効が成立しました。けれど快楽殺人犯の更正は極めて稀なこと。その稀代の女犯罪者にもしも娘がいたとしたら……」
 皆まで言わず、ランツベルク部長刑事は立ち上がった。
「皆、噂をしているのですよ。我々の世代の警視総監はどちらになるのだろう。ブラックロックかハードカースル・ジュニアか。お手並み拝見と言ったら失礼になりますかね」
「ブラックロックは君の上司じゃないか。ヤード最短で主任警部昇進を果たした男だ。良きライバルと思っているのは確かだけれどね」
「お伝えしておきましょう。詳しい資料は後ほどお持ちします、それでは」
 まさしく雲を掴むような話だった。優先順位は極めて低く見積もられることは必至。だが、現役の部長刑事が信用してもらいたいただその一心で、ドイツ語の話せる人間を、と。
 アルは暫く考えた挙句、受話器を取り上げた。西ドイツ連邦警察の部長刑事へ国際電話をかける、ただその為に。





――笑っていましたよ、彼女は。連行されるその時に。
 納屋に踏み込んだ警察官達は一斉に嘔吐しました。むろん私もその一人でした。地獄絵図とはまさにあのことでしょう、死体は全て逆さに吊られ首を落とされていました。血を抜き取るためにそうしたのですよ、受け皿とされたワイン樽には血がなみなみと満たされていました。

 見かけたのはロンドン塔、トレイターズ・ゲート(逆賊門)の前です。観光だったのですよ、結婚三十周年の祝いに妻と。私は彼女に声を掛けることすら出来ませんでした。あまりのことに私は凍りついたように動けなくなったのです。
 天使の顔を持つ悪魔。忘れられませんね、二十年以上たった今もなお。間違いありません、警部、あれは彼女です。





 齟齬を恐れたという前置きから抱いていた印象とは裏腹に西ドイツ連邦警察の部長刑事の英語はまずまずのものだった。口調は揺ぎなく、アルは部長刑事の言葉が真実であるとの確信を強めた。

 アルは直属上司であるバスティン主任警視に相談を持ちかける前に現場へと急いだ。
 トレイターズ・ゲート(逆賊門)はロンドン塔に入るテムズ河からのルート。一度この門からロンドン塔に入った者は二度と戻って来られないと言われていた。処女女王エリザベスはこの門を潜りながら生還を果たした数少ない人間の一人だった。
 トレイターズ・ゲートの前に立ち、アルはコートのポケットから煙草を取り出した。悪癖とは知りつつもなかなか止めることの出来ないその習慣。煙草を口に咥えてライターで火を点ける。
 トレイターズ・ゲートの前からはタワーブリッジがよく見える。そこは観光客の絶好の撮影スポットとなっていた。次から次へと現れては写真を撮り合う観光客を横目に見ながら、アルは思った。そういえば、あの奇妙な男に会ったのもここだったな、と。
 視界の隅に見覚えのある姿が過ぎったような気がして、アルは瞳を瞬かせた。まさかそんな偶然が……。アルが身を乗り出したその時、男はゆっくりと振り返った。初めて会った時と同じように。
「やあ、警部」
 整った唇を笑みの形に歪め、その男は言った。タワーブリッジを背にして。
「奇遇ですね」
 あまりの偶然に、ともすれば上擦りそうになる声を抑え、アルは言った。
「君はよくここに来ているようだね、何か捜査中なのかい」
「いえ、ただの偶然ですよ。そういう貴方こそ」
 ああ、男は再び笑い、そして指差した。タワーブリッジを渡った向こうにあるビル群を。
「あそこの会社に勤めているんだ。研究に煮詰まると気分転換に橋を渡ってここに来る」
 ひどく雰囲気のある男だった。仕事に没頭しているというその発言を裏付けるが如く、やや伸び加減の漆黒の巻毛は肩に掛かるほど、瞳と瞳孔の区別が付かぬほど真っ黒なその瞳には奇妙な光がある。
「あの」
「そう」
 同時に言葉を発してしまい、どうぞどうぞと互いに譲り合う。
「まだ名を聞いていなかったね、警部」
「ええ、警部は私の名ではありませんから。私はアルフレッド、アルフレッド・ハードカースル・ジュニアです」
「アルフレッド、サクソン風の良い名だね。同名なのは父上、それともお爺様かい」
 アルフレッド大王と同名、そしてジュニアの冠せられたその名を口にする度に、何百、何千となく言われ続けたその言葉。アルは気にすることなく笑って。
「父ですよ」
「僕はディーター・クライン。父がドイツ系でね、子にもドイツ風の名を付けた」
 ドイツ、奇妙な符丁にアルはふと弓なりの眉を上げた。
「研究、と仰っていましたね。一体何を?」
「育種学、と言えば響きは良いけどね。実際は農作物の品種改良だ」
 男が指差したそのビルを特定するまでは至らなかった。後で裏を取ろう、刑事らしくそう思う。
「あれから見ることは出来ましたか、橋が上がるところは」
「いや、まだだ。ひょっとしたらこのまま一生見られないんじゃないかと不安でね」
「ビルの窓からは?」
「ちょうどデスクの位置が逆なんだ。それに僕はいつも研究室に篭りきりときてるから」
 そこで男は言葉を切り、さながら値踏みするようにアルを見た。男はさほど大柄ではない。身長六フィートのアルを前にすれば、しぜん見上げる形となる。
「何です?」
「いや、本物の警部を見たのは初めてだから。申し訳ない。シンプソンズで隣り合った時、僕は聞き耳を立ててしまったよ。警部も勿論だが、警視総監なんて滅多にお目にかかれる代物じゃないからね。僕は刑事小説が好きなんだ」
「現実は小説のように格好の良いものではないですよ」
「そんな物言いもお約束だね。学校はイートン、それともハローかい。その若さで警部だ。君がエリートだということは容易に想像が出来るけれど」
 男が挙げたのは、中高一環教育、貴族の子弟が多く入学することで知られる私立校の名である。アルは首を振り。
「ウィンチェスターです。けれどエリートである事に代わりはないでしょうね、私はきっと」
「あそこはイギリス一授業料の高い学校だろう。偏差値も高いと聞いたよ。ハローよりも余程」
「貴方は――、ご出身校は?」
 二言、三言、言葉を交わしただけ、それだけでも相手がひどく頭が良い男だということは判った。打てば響くとでも言うべきか。出身校を問いた後で自分はどこだと口にしないところを見るとグラマー・スクール出身者か。それは現英国首相サッチャーが出たことで知られる選抜制の公立進学校。アルの目下のライバルとも言えるブラックロック主任警部もまたグラマー・スクール出身者であった。
「さて、どこだったかな。あんまり昔のことだからもう忘れたよ」
「忘れたって――、貴方は私とそう変わらぬ年でしょう」
 眼前の男は同い年、或いは一つ二つ年下の可能性もあればこそ、三十を越えているようには決して見えなかった。
「歳月は誰しも同様に流れる訳ではないよ、警部。私にとって学生時代は遠い昔のことのように感じられる」
 そして男は踵を返した。初めて会った時と同様、ひどく唐突に。
「バイ、警部」
 掠れたような男の囁きがいつまでもアルの耳に残った。






つづく
Novel