千の雪が降る 3




 
「ハードカースル警部」
 にわかに大きくなったその声にアルは咄嗟に顔を上げた。見るとランツベルク部長刑事が心配そうに自分を見詰めていた。
 いつから呼びかけられていたのだろうか、見当も付かなかった。
「ああ、すまない。ぼんやりしていた」
「体調でも優れませんか。顔色が悪い」
 いいや、と答えて、資料に目を通す。
 あれから三日。男からの連絡はなく、捜査もまた行き詰まっていた。男の同僚から裏を取り、クレアと名乗る女性があの男、ディーター・クラインを訪ねて来たことが確かめられた。二時間ほど話し込み帰っていったという。その後の足取りは杳として知れない。
 けれども女がその会社を訪れた日と、西ドイツ連邦警察の部長刑事が彼女を目撃した日付は違っていた。女はまだいるのだ、恐らく、このロンドンに。稀代の連続女性殺人犯、その血縁とも目されるその存在は。
「被害者から血を絞り取っていたそうだね、彼女は。首を落とし、切り口を下にして樽に血を溜めていたと、その血は何に使っていたんだろう」
 資料に漫然と目を通す内に湧き起こった素朴な疑問。ランツベルク部長刑事は手に持っていた事件調書を急ぎ繰り。
「納屋に吊るされていた遺体は四体だったそうです。残りの十二体は既に血を抜き取られ、農地の一角に埋められていました。そうですね……」
 調書を読み進めていき、該当の個所を見つけるや、ぱん、と調書を手で叩き。
「抜き取った十二体分の血は結局見つからなかったようです。彼女は逮捕後、完全黙秘を決め込んでいたそうですから。かのハンガリーのエリザベート・バートリの如く、肌に塗りでもしていたのでしょうか。飲んでいたのなら、それこそ吸血鬼ですね」
「四体を吊るし、十二体を埋めた? 果てして、女の細腕でそれが出来得るものだろうか。――共犯の線は洗ったのか?」
「男の出入りはあったようですね、近隣の住人に目撃されています。見掛けぬ男が深夜遅く納屋に出入りしていたと。当局はその男を捜していたようですが、やはり見つからなかったようです」
「共犯の疑いのあった男は掴まえられず、一度捕縛した女もまた取り逃がしたと。時代もあるんだろう、それでも……、何と言う体たらくだろうね」
「だからこそ後ろ髪を引かれる思いなのでしょう、かの部長刑事は。長きに渡る刑事生活の、恐らく、唯一にして無比の心残り」
 一度は信じた西ドイツ連邦警察の部長刑事の言葉も、今では不確かな物に感じられていた。それは、そうであって欲しいと願った定年間近の刑事が生み出した幻ではないかと。
 部長刑事が目撃したその女は確かに実在した。だが金髪碧眼の美人という存在は世の女性がこぞって目指す偶像(アイドル)。髪は誰しも染められる。ましてや若い魅力的な女性という存在は皆似通っている。
 アルが密やかに息を付いたその時、デスクの上の電話が鳴った。
 受話器を耳に押し当てる、流れ出したのは、落ち着いたアルトの声。
「やあ、警部。彼女の名刺が見つかった。取りに来るかい、それとも僕が届けに行こうか」
 あの男だった。





 短い押し問答があった。CIDの警部という職は決して閑職ではない。結局、ロンドン警視庁近くのパブで落ち合うことで話は決まった。
 既に男は来ていた。通りを見下ろすような形で作られたカウンターに腰を掛ける。
 外で目にして改めて美しい男だと思う。知性の煌きが表に表われてでもいるのだろうか、けれどその黒い瞳からは何らの感情の色も読み取れない、その瞳だけはやはり異質だった。
 カップを手に男の隣に腰を降ろすや否や、すっ、ビニール袋に入れられたビジネスカードが差し出される。
「証拠品になるんだろう、これは。手袋を装着けてから袋に入れた。もっともその前には平気で触っていたからね、僕の指紋も付いてるだろうが」
「感謝します。どこにありました?」
「机の引出しの隙間から下に落としてしまっていたようだ。今日机を整理して気付いた」
 早速ビジネスカードに視線を落とす。クレア・マスターソン、よくある姓、肩書きはマネージャー、会社名と電話番号の記載がある。
 早速裏を、と思い、腰を浮かせかけたアルを、男は手を上げて制止する。
「コーヒーの一杯すら付き合う暇もないのかい、君の職場は」
「私を何だと思っていらっしゃるのですが、研究員? とんでもない、私は警察官ですよ」
「それじゃ、君は僕の仕事が暇だとでも?」
 返す言葉もなかった。言葉に詰まったアルを席に引き戻すと、男は。
「君の方から連絡があるかと思ってた」
 証拠品の入ったビニール袋の上に重ねていたアルの手の甲に、男の手が触れる。びくん、と身体が震えた。
「君に連絡を取りたくて必死になってカードを探したよ。ビジネスカードは口実、僕は君にもう一度逢いたかったんだ」
 ここは警視庁のお膝元、誰かに見られたら、という思いがあった。けれど、どうしても身体を動かすことが出来ない。男の細く白い指はアルの指と指との間に入り込み、さながら愛撫をするかのように動かされた。いや、実際に愛撫であったのだろう。
「張り詰めた糸は切れやすいというよ。弛ませることも時には必要だろう。僕は、君と一晩を過ごせて楽しかったよ。君は?」
 顔を上げて尋ねてくる。およそ無邪気なその問い掛けに、アルは面食らった。
 男にはそんな無邪気な一面があるのだ。タワーブリッジの跳ね橋が上がるのを見るのを楽しみにし、本物の警部に会えたと喜び――。
 引き込まれそうになってしまった自分に気付き、アルは自分の内なる怒りを掻き立てようと躍起になった。
「楽しい訳がないでしょう、あんな……」
「あんな? 僕が無理やり抱いたことを怒っているのかい。だが君は僕を喜んで迎え入れこそしなかったが、抵抗もしなかった」
「先程も申し上げましたね、私を何だと思っているのかと。私はCIDの警部、プロですよ。貴方が私を意のままにする為に何を使ったか判らないとでもお思いですか」
「君は私を訴えなかった。それが何よりの証拠じゃないんだろうか」
 そこで男は初めてその名を口にした。
「アル、君は疲れているんだろう。周囲の期待に応えよう、死者に報いよう、立派なお父上に、王の名に恥じぬようにあり続けて今日まで来た。それから解放される術を僕は知ってる」
 重なっていた手がゆっくりと外され、男が羽織るコートのポケットに伸びる。カウンターの上にそれが置かれた。
 小さな真鍮の鍵。
「外扉も部屋の扉もこれで開く。いつでも来るがいい、歓迎するよ」
 真近で囁き、男は素早く席を立つ。
 その場で突き返すべきだとは承知していた。だが、一瞬の判断の遅れが命取りとなった。アルは鍵を手にしたまま、男の後姿を見送ることとなった。
 鍵を握るその手は蒼白となり、小刻みに震えていた。





 犯罪捜査課を出たところで、アルはランツベルク部長刑事と鉢合わせをすることと相成った。
「他人の空似だと思いたかったんだが、どうやら彼女は不審人物だよ。会社名は架空、電話番号も存在しない」
 どちらへ、尋ねられて鑑識課と答える。ランツベルク部長刑事は笑い、資料の入ったファイルを差し出した。
「鑑識課から警部に渡してくれと頼まれました、そして回答も。検出された指紋は二つ、一つはその研究員のものでしょう。リーゼル・ミュラーの物とも合致しませんでした。指紋は遺伝しませんからね、当然のことですが」
「例の研究員の指紋も取って絞り込んだ方が良いだろうね」
 アルの瞳に落ちた暗い翳りを見、ランツベルク部長刑事は誤解したようだった。
「お疲れでいらっしゃるのでは? 先日からそう感じていますよ、ご無理は禁物です」
 即座に否定しようとして思い留まる。頑なに拒否し続けるのも問題だろうと。決して疲れてはいない、気が散っているだけのことだと自覚していたが。
「そうだね、適度に休養した方がいいんだろう。忠告を感謝する」
――張り詰めた糸は切れやすいというよ。
 そんな男の言葉が耳に蘇り、アルは苦笑混じりに答えた。
「ディーター・クライン、以前に警部は私にお尋ねになりましたね。名から何がわかると。この研究員のことだったのですね」
「ああ、そうだ。だが、彼は恐らく何の関わりもないと思うよ。彼女は何に興味を覚えたんだろう、業界機関紙を読んで、とのことだったから、そこから手繰れるかもしれない。とても魅力的な男だから、彼女が個人的に興味を抱いて再度の接触でもしてくれれば有り難いんだが……」
 差した一筋の光明。CIDの警部職は決して閑職ではない。他の事件の片手間に、起こるかもしれない未曾有の事件にいつまでも時間は裂けない。杞憂であって欲しいという願いとは裏腹に、刑事特有のそうであって欲しいという思いもあった。
 そろそろ本腰を入れるべきなのだろう。あの男にもまた接触の必要性が出てくるに違いない。
 決して私情は挟むまい、そう心に誓う。
「思い出したよ。前に言っていたね、彼の姓が特殊だと。姓が、何だと?」
 ランツベルク部長刑事はほんの少しだけ押し黙った。一瞬の沈黙、欧州の人間に特有な、けれど教育水準の高い人間であれば決して口には出さない想いがそこにはあったのだろう。
 ゆっくりと口を開き、部長刑事は言った。
「クラインはユダヤ系の姓ですよ、ハードカースル警部」



――小さいという意味ですよ、クラインは。
 長い間ドイツのユダヤ人は姓を持つ事が許されず、解禁となった時、裕福なユダヤ人は領主から姓を買い取りました。
 しかしすぐにユダヤ人と判る特徴的な物しか許されませんでした、例えば黄金、例えば植物。ゴールデンバーグが典型的なユダヤ人の姓である事はご存知ですね?
 そして裕福でないユダヤ人は往々にして侮蔑的な意味合いを含む姓を受け入れざるを得なかったのです。ですから恐らく……。

 それを聞いて、アルが思うところは特になかった。
 虐げられ差別され続けたユダヤの民、けれど今は暗黒の中世ではない、まして自分はホロコースト教育も受けた戦後世代。
 ただ、あの男の異国風な黒髪はそれ故かと思った、それだけの事で。



「私の父はミュンヘンのユダヤ人居住区(ゲットー)の生まれだった。第二次大戦中にナチスドイツの迫害から逃れる為、アメリカに亡命した。着の身着のまま、大事にしていたスタンウェイのピアノ以外何も持ち出せなかったが、それでも逃げ損なった多くの同胞に比べれば遥かに幸運だったろう」
 アルは鑑識官と共に男のアパートメントを訪れていた。警戒心を露わにしコーヒーにさえも口を付けないアルの様子を、男は薄っすらと含み笑いを浮かべて見ていた。
 指紋採取の後、男はアルを引き止めた。それに承諾したのは、ひとえに決着をつけたかっだ。  気まずい沈黙が流れる中、先日訪れた際には気付かなかったヘブライ語で書かれた経典の壁飾りについてアルが言及すると、話は男の父親に及んだ。
「父はとても綺麗な手をしていた。こんな風に」
 言って、男はやはり美しく白い手を打ち振い、膝の上に置いた本に何かを掛ける手真似をした。
「手を振って、本に蜂蜜を掛けた事をよく覚えている」
「蜂蜜?」
「そう、ユダヤ人が行なっている独得の教育法だ。本は甘いのだと言う事を知らしめる為に。そして言った。『ディーター、人から決して奪えないものは何だか知っているかい』」
 男は人差し指の先で頭を指し示した後で、掌で腕を叩いた。
「頭と腕、これだけは誰も奪えない。人は金も物もお前から容赦なく奪っていくだろう。だが、この二つだけは誰もお前から奪えない。父は私に医者になれと言ったんだ」
「けれど貴方はならなかった」
 男は一瞬言葉に詰まったように見えた。いぶかしげに目を細めるアルの前で首を振り。
「ああ、ならなかった。そんな私は今やただの研究員だ」
「お父様はご健在で?」
「いや死んだよ。もう随分前の事になるね」
 さらりと語る男の手はしかし小刻みな震えを見せていた。無理もない。肉親の死で受けた痛手というものは何年、いや何十年経っても癒えぬ物だ。
「……! 」
 男は突然アルの手を掴むと自分の膝の上へと乗せた、びくりと身を固くするアルを背後から腕の中へと抱き込み。
「警部、そんなに怯えられると虐めたくなるよ」
「そして次にはこう言うつもりなのでしょう。君もそのつもりで来たんだろうと」
 アルは片頬を歪めて笑うと、男の手を乱暴に振りほどいた。
「クラインさん、先日はとても楽しかった。けれどあれで最後にしましょう」
 一語一語をハッキリと区切るようにして言う。
 ゆすられて言いなりになるとでも思っているのか。処女を奪われた女でもあるまいに!
「警察官はこうあるべきだ、だからこうしよう。君はいつもそれだ。常識に囚われていては前に進めない。行き着く先は袋小路だ」
「貴方は何か勘違いをされている。私の性趣向は異性に限られますし、たとえ同性愛者だったとしても貴方が私の好みとは限らない」
「いや君は僕を気に入っている筈だよ。何故なら僕が君を気に入っているんだから」
 ぎり、両手を後ろ手で捻り上げられ、アルは呻いた。
――一体、どこにそんな力が!
 肩の関節が外されるのではと危惧したその瞬間、突然突き飛ばされ、床に投げ出された。瞬時に立ち上がると、目に付いた受話器を手にする。回すは緊急通報先、999番(トリプルナイン)
 機先を制し、男は言った。
「強姦されそうだと通報するつもりかい。警察官ともあろう者が」
「目先の恥に囚われて本質を見誤るほど愚かではないつもりです。貴方もつい先程言われたばかり、警察官はこうあるべきだ。だからこうしよう。警察官なら通報はしないでしょうね。同性に強姦されそうだなんてまさに噴飯物。けれど私は通報します」
「切れ!」
 恫喝に怖じず、アルは最後のナンバーに指をかけた。男が突進する。アルはキャビネットの上の電話機ごと床に投げ飛ばされた。
「力ずくは僕の趣味じゃない。だが無理やりされたいというならしてやろう」
 男はサムソンの如き怪力を発揮し、アルの上に馬乗りになると、後ろ手で両の手首を一纏めにし、荒々しく引き抜いた電話線で縛り上げた。
「……く……っ」
 声を上げられぬよう、解かれたネクタイで猿轡をされる。
「一度目は薬、二度目は無理やり。袋小路の君に僕は逃げ道を作ってあげた」
 男は歌うように言った。
「楽しもうじゃないか、警部」



「良い眺めだね」
 アルの両手首は電話線で一纏めにされ、後ろ手で縛り上げられていた。脚は大きく開かれ、両の足首はそれぞれベッドの支柱に括り付けられている。
 ネクタイを食まされている為、言葉を発する事は出来ない。激しい憎しみを込めた視線で男を睨み付ける事がせめてもの抵抗だった。
「君は何をそんなに恐れているんだ。快楽が、自分を見失う事がそんなにも怖いのかい」
 男は青色ガラスのクリーム瓶の蓋を開けると、指の腹で一掬いした。掌の上で広げて温めるとそれを指にたっぷりと塗しつけ、尻の奥の窄まりを探った。男の中指は肉を割り開き、根元まで埋まった。
「……っ!」
「一度でいい。狂ってしまえば見えてくるかもしれない、道が」
 指が足された。二本に増やされた指が狭い内壁の中でばらばらに動かされる。アルは観念したかのように瞳を閉じ、その感覚に耐えた。
 男は喉奥で満足気な笑いを漏らすと、アルの両足首の戒めを解くと、うつ伏せにさせた。両手首を縛り上げる電話線の結び目を上へぎりぎりと引き上げると。
「抵抗するなら腕を折るよ。構わない、と言われそうだが」
 残酷な囁きがアルの耳にねっとりと流し込まれる。
――この男は……
「捜査に支障が出やしないかい」
 何と正確に人の急所を突く事だろう。
 男はアルの腰を掴むと尻を高く上げさせた。肛孔へ屹立を押し当てて、一息に貫く。
 ぎしぎしとベッドのスプリングが軋む。アルは身体を海老のように反らせ、白い喉を露わにした。
 ネクタイが外される。しかしアルの口から飛び出したのは罵声ではなく、まごうことなき嬌声であった。
「あっあっあ……っ……ぁあ!」
 背後から容赦なく力強く突き上げられ、突き上げられる度にアルは喘いだ。その喘ぎ声が男の嗜虐心に更なる油を注ぐ結果となった。
 突き上げながら、男はアルの昂ぶりを掴んで擦り上げた。
「あッ、ああッ……!」
 アルは震えながら達し、それと同時に男を強く締め付けた。

 堕とされた、と痛感した瞬間だった――。






つづく
Novel