千の雪が降る 4 |
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「エリゼ・シュナイダーよ、今の名は」 タワーブリッジの上、テムズからの河風に黄金の髪をなびかせて、彼女は立っていた。まるで昨日の続きのように。 「よくも生き延びたという顔ね」 「いいや生きていると思っていたよ。クーニゲン、君は強い女だ」 クーニゲン、ドイツ語で女王を意味するそれは彼女の綽名だった。何より傲慢、聡明で美しい彼女にはぴったりな綽名だったとディーターは今尚思っていた。 「君と僕は余程橋に縁があるようだね」 彼女との出会いもまた橋の上だった。 ベルンの橋の上で声を掛けてきた彼女を完璧なアーリア人種の標本のようだと思い、つくづくと眺め入った記憶があった。 まるでラインの黄金を守る乙女のような、流れるような黄金巻毛、白磁の肌、緑の瞳。 「いつロンドンに?」 「先月の初め。貴方の居場所を突き止めるのに苦労したわ。英語はもう長い事使っていなかったから。おかしいわね、近頃はドイツ語よりもスペイン語の方が得意なほどなのよ」 瞬間、混乱した。自分が今何語を話しているのか判らなくなったからだ。数多の国に住み、数多の言語を操っていると、稀にそんな現象が起きる事がある。 「光栄の至りだね、女王にそこまで求められるとは」 「混乱の中で別れたきりね。あれから何をされていたのかしら」 「無為に過ごしたように思うよ、君と別れてから」 「私は無為には過ごさなかったつもり。ずっと探し続けていたわ。けれどまだ見つからないの」 昂然と顔を上げると、彼女はゆっくりと唇を開いた。 恐らくこの言葉を自分に投げかけるただそれだけのために、彼女は遥か南米から大西洋を越え、欧州に戻って来たのだろう。危険を、冒してまで。 「ディーター、お願いしてよ。これで最後。最後の機会を私に与えて」 ――この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ。 何故か。 ダンテの神曲の一節が耳に甦った。 「それで、どうされて? その警察の殿方を」 ハイドパーク、サーペンタイン池。 ボートから身を乗り出し、池の水を掌で掬おうとしながら、女は尋ねた。 自慢の流れるような黄金の髪は今は黒く染められ、高々と結い上げられている。 冬の最中、当然のことながら池の水は身を切るように冷たい。冷たいわ、女はすぐに手を引いた。 「物にしたよ。意外に簡単だった」 「まあ」 女は手の甲を唇に押し当ててくすくすと笑い、そして感に堪えかねたように言った。流石ね、ディーター。 「だが幾ら身体を屈服させても心は簡単には手に入らない。そしてこちら側に寝返る事は万に一つもないだろう。傍に置いておくには危険すぎる駒だ」 「だからこそ手に入れたいのでしょう。悪い方ね」 ディーターは答えず、池の中心部に向かってオールを漕いだ。 「クーニゲン、君は早く逃げた方がいい。CIDはそんなに甘くないよ」 「ロンドンが良いのよ、ディーター。ここが駄目ならパリね。人が消えても不審に思われない大都会でないと」 「君はまだ続ける気なのか。CIDに目を付けられているというのに?」 「ディーター、貴方はこれを私のゲームだと思ってるの? 確かにこのゲームを持ちかけたのは私、けれど貴方は引き受けた。貴方がこの街を離れるおつもりがないというのなら、この街でやるしかないわ」 ディーターはオールを漕ぐ暫し手を休めた。既に池の中心部に達していた。周囲に他のボートはない。話を聞かれる恐れはもうなかった。 「――貴方はいつもそうね。肝心なことは、貝のように口を閉ざして何も話さない。私は貴方の考えていることを知りたくていつも必死だった。もう遠い昔のことだけれど」 さわさわさわ、水面を風が渡り、女はトレンチコートの襟を立てた。両の腕を自ら抱き、ディーターを静かに見据える。 「ディーター、貴方――、死にたいの?」 ディーターは答えず、緩く首を振った。 「あのエリートの警部が言っていたんだよ。マザー・テレサの言葉を引用してね。大海の水をバケツで汲み上げると」 女はいぶかしげに碧眼を細めた。 「僕は知っている。大海の水は決して汲み上げられないし、僕の手に付いた血は大海の水を持ってしても決して洗い流せない。そう、この世に……、神なんかいないんだ」 冬の最中にボートを漕ぎ出そうという物好きな人間が他にもいたらしい。 近付いて来たボートに気付き、ディーターはオールを手に取った。そして言った。 「やるがいいよ、クーニゲン。僕は止めない」 溺れている自覚はあった。あの男に。 わかっていた。 この街にこれ以上留まるのは危険。 ヤードの若き警部との火遊びもそれ以上に危険だと。 ――ディーター、本当にわかっているのかい? 君はもう、若くない。 |
つづく |
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