千の雪が降る 5





「ハードカースル」
 珍しい男がいると思った瞬間、声をかけられてアルは心底から驚いた。
「ブラックロック」
 それはランツベルク部長刑事の直属上司、特捜機動課のブラックロック主任警部であった。コートを羽織ったまま、たった今外出から戻ったばかりという風情だ。
「イーストエンドで浮浪者ばかりが次々に消えてる」
 ヤードで最も危険とされる部署で、最短で主任警部昇進を果たしたというブラックロック。
 かたや警視総監の息子、かたやグラマー・スクールからの成り上がり。オックスフォード大卒とケンブリッジ大卒。年齢はこちらが一つ上だが、階級はあちらが一つ上。
 自分達よりもむしろ周囲がより強くそのライバル性を意識するという、世にも奇妙な関係にあるその相手は口早に告げた。
「浮浪者が何人、何十人消えようとも何とも思わない。それが世間だ。だが俺達にとってそいつは最重要人物だった。マークしてたんだ。薬の売人だったんでな。そいつが消えた。しかも周辺の奴らも次々に。役立つか?」
「直ぐに調査しよう。――ブラックロック」
 既に立ち去りかけていたブラックロックを手を挙げて押し止める。
「君はいつも急いでるな」
 ブラックロックは口角を上げて笑った。
「時間と競争の仕事だろう?」
「ありがとう、感謝する」
「俺は部下を早く返して欲しいだけだ」
 彼の話には前置きがなかったが、連続殺人鬼の娘と思われる人物を探しているとの情報を既に得ていたのだろう。出所はむろんランツベルク部長刑事と思われる。
 さっそく部長刑事をつかまえて尋ねてみると。
「あの方が他部署の仕事に口を出すなんて珍しいですね」
 つくづくと意外そうな口調で、ランツベルク部長刑事は言った。
「買っておられるのだろうと思いますよ、貴方を」
「いや、早く君を帰して欲しくてジリジリしてるんだろう。だがどう思う、この情報?」
「カルデンシュタインの吸血鬼は獲物を選ばなかったそうですからね。可能性はあります。当たってみましょう」

――ああ、そうでした、犯罪捜査課には専属運転手はいないのでしたね。

 そう言いながら、ランツベルクは運転席に着いた。
 荒っぽい捜査が多い事で名高い特捜機動課には専属の運転手が存在する。巡査の中から特に運転に秀でた者が選ばれ、その職に付いている間だけ役職にDetectiveが付く。平巡査にとっては名誉職である。
 ランツベルクは自分で運転をしなければならない事にあからさまな不満の声を漏らしながら、警察車輌をイーストエンド地区へと走らせた。
 イーストエンド。古き良きロンドンの下町の名残を残すと言えば聞こえは良いが、切り裂きジャックが出没した19世紀末から変わらず治安は悪く、実質はロンドンの掃き溜めである。
 凄まじい臭気に耐え、浮浪者を一人、二人つかまえて話を聞いてみる。すると意外な事実が浮かび上がった。
 それは救世軍だという。
 救世軍。
 それは積極的な社会奉仕活動を行う事でとみに有名な、プロテスタント教会の一派である。
 救世軍の女が浮浪者仲間に話しかけているのを目撃した。若い美人のため目立ち、気になっていた。その直後に仲間は失踪した。
 リーゼル・ミュラーの写真を見せると。非常によく似ている。だがその女はブルネットに黒眼鏡だったとの答えが返ってきた。
「金髪を黒髪に染める。眼鏡をかける。誰しも思いつきそうな変装ですね。浮浪者に施しをする救世軍というのは街でよく見かける光景で、普通なら誰も気にも止めない。しかしながら美女過ぎたが為に目立ちましたか」
「彼らが寝場所を変えたのでない限り、少なくとも五人が失踪……」
 浮浪者達は次は自分の番ではないかと一様に怯えていた。その救世軍の女を見かけたらすぐに通報を、と言い残しその場を去った。
 その後、救世軍の国際本部に向かう。イーストエンドでの活動の詳細を確認したところ、街頭給食を除いては現在浮浪者への奉仕は行っていないとの事であった。むろんその女に該当する隊員も存在しない。
 疑惑はいよいよ濃厚となった。
「誘拐されて既に餌食となっているんだろうか」
「だとしたらどちらが本星でしょうか。かの連続殺人鬼、それとも連続殺人鬼の遺伝子を受け継いだ娘」
「カルト集団の可能性も残っている。二十年の歳月を経た今も尚、存在するのかもしれない。かの連続殺人鬼を教祖として」
「どちらにせよ急がねばなりませんね」
「目撃証言に車はない。そう遠くには行けないだろう」
「個人向けの倉庫、空き部屋、空き家、……しらみ潰しに当たりましょうか」
 アルは無言で顎を引いた。





「疲れてるようだね、警部」
 旧式の猫脚バスタブには温かな湯が満たされている。男は木製の小さな丸椅子に腰かけ、湯に浸かるアルを静かに見下ろしていた。
 袖を肘の下まで捲り上げると、手を伸ばしてアルの髪に触れた。
「睡眠不足かな」
 アルは瞳を閉ざし、温かな湯と男の手にその身を委ねた。
 二人の関係は、一時休戦とも言うべき状態にあった。
 アルは拘りを捨てた。自らその身に縛り付けていた常識という名の鎖を緩めた。そうする事によって、生き方にも、捜査にも幅が生まれるのではないかと自らに言い聞かせた。
 或いはそれさえも、男に惹かれている自分を誤魔化すための言い訳だったのかもしれなかった。
「……少し伸びたね。どうやら仕事が忙しいらしい」
 ボトルから適量のシャンプーを取り、掌の上で軽く泡立てると、男はアルの髪を洗い始めた。
 あれ以来、男はアルを抱くことも、アルが男を求める事もなく、けれどアルは時折男のアパートメントを訪れるようになっていた。
「僕達が出会うきっかけになったあの女(ひと)は見つかったのかい」
 無言で首を振った。捜査の詳細は話さない。アルには分別があり、そして男も又、それを弁えている風であった。
「君の仕事は素晴らしくやりがいのある仕事だろうね」
 指の腹を使って柔らかく頭皮を揉み、毛先へ指を遊ばせるようにして、髪を柔らかな泡で包んで洗い上げる。
 シャボンの泡がひとつ、ふたつ、浴室の天井に浮かんで消える。それはとても心地良い時間だった。
「だがね、警部。もしもこの世に人を裁ける存在がいるとしたら、それは神だけだろう。そしてこの世に――」
 シャワーヘッドを手に持ち、ぬるめの湯でアルの髪を流していく。
「神なんているのかな」
 驚くほど冷たく、硬い声だった。咄嗟に身を起こしたアルの眼前で、シャワーの湯を止めた男が微笑んでいた。
「失言だったね。君は公僕。公僕が迷っていたら始まらないだろう。今の僕の言葉は忘れてくれ」
 洞察力に優れた存在とされる刑事であるアルをもってしても、男は未だとらえどころのない存在だった。誰よりも優しく微笑むが、その心の奥底には深い諦観のような物が存在する。
 体躯にそぐわぬ力も、時折暴発する性衝動も。
 ……理解できぬからこそ惹かれるのか。
 思い詰めたようなアルの表情を読んだのか、男はアルの耳朶にキスを落とした。ぞくり、と寒さからではなく身体を震わせたアルに、男は優しく。
「もう無理強いはしないよ。君が本当に僕の事を好きになってくれたら。その時にね」



 アパートメントを出ると既に深夜を回っていた。決して使う事はないだろうと思っていた男の部屋の鍵がアルの手中にはあった。
 後ろ髪を引かれる思いで、路上から男の部屋の灯りを見上げる。
 捜査の合間を縫っての一時間程の逢瀬。手の中の真鍮の鍵。それだけが今のアルを動かしていた。
 自宅に帰ると、待ち構えていたように電話が鳴る。そうである筈もないのに思ってしまう。今しがた別れたばかりの男からではないかと。
 馬鹿な……。
 緩く首を振り、受話器を取る。
「夜分遅く申し訳ありません。お休みでしたか?」
 深夜とは到底思えないほどの爽やかな声。ランツベルク部長刑事だった。
「ついに見つけましたよ、警部。五体です」
 Five Person でなく Five Body 
 Body(死体)という単語が耳に重く圧し掛かった――。





 それは、まさしく身の毛もよだつ光景だった。
「まったく同一ですね、手口が」
 イーストエンド地区の倉庫街の一角。西ドイツ連邦警察の警察官達が一斉に嘔吐したというその地獄絵図が、今まさにアルの眼前で再現されていた。
 首を落とされて吊るされた遺体は五体。失踪者の数と一致する。
「この仕事に就いていると、私は悪魔の実在を感じずにはおられませんよ」
「神に試されているんじゃないかとさえ思えるね」
 食肉処理場を思わせる凄惨な現場で、しかしランツベルク部長刑事は平然とアルを迎えた。
 そしてアルも又、かつて人であったその物体を瞬きすらせずじっと凝視していた。その傍らでは制服警官の一人が断続的な嘔吐を繰り返している。
 これは自分の罪。見届けなくてはならない。
 自分と同じ思いをする人間を少しでも減らせたら、という思いから身を投じた警察機構。けれど現実は毎日のように起きる事件を後追いするばかりの日々。その矛盾と折り合いをつけながら今日まで生きてきた。
 あの男の部屋で過ごした時間はたった一時間だった。けれども一時間。

――時間と競争の仕事だろう?

 ブラックロックの言葉が耳に蘇る。アルは恥じて唇を噛んだ。
 鑑識班にその場を任せ、二人は倉庫を出た。
「警部の睨んだ通りでした。女性名義の借主を調査したところ、すぐに見付かりましたよ」
 アルはコートのポケットから煙草を取り出すと、口に咥えて火を点けた。
「おかしいと思わないか、あまりに安直すぎる」
「隠すつもりさえなかったように思えますね」
「悪魔崇拝の儀式的な物は見つからなかったかい? 犯行声明文は?」
 ランツベルク部長刑事は無言で首を振った。
「そして落とされた首は――、一体どこにあるんだろう」
 謎は、深まるばかりであった。






つづく
Novel