千の雪が降る 6





 英国では連続殺人事件が起きると、必ずと言っていいほど見出しに躍る名がある。
 ヴィクトリア時代からの伝統あるその名、それはジャック・ザ・リパー(切り裂きジャック)
 しかしながら今回はその名は使用されなかった。
 切り裂きジャックは女しか襲わなかったという話は有名であったし、悲しいかな、浮浪者殺しというのはマスコミの好みとする題材ではない。
 ただ、その殺し方の残忍さ、その猟奇さ故に、世にも古典的なもう一つの名が採用された。
 新聞の片隅に小さく載ったその名は――。
 イーストエンドの吸血鬼であった。



「たまには家に帰ったらどうだ。もう三日になる」
 庁舎に向けて警察車輌を発進させたランツベルクに向かい、アルは言った。
「特捜所属ですからね、こういう事態には慣れています。特捜は私生活を犠牲にしないと務まりません。そう仰る警部こそお帰りになられないのですか」
 アルはバックミラーに写るランツベルクに首を振って見せると、後部座席のシートに深々とその身を沈めた。
「遺留品なし。第三者の指紋なし。結局のところ得られたのは目撃情報だけか」
 本格的な捜査が開始され、警察関係者には大々的にリーゼル・ミュラーの写真が出回ったが、未だ女の足取りは掴めなかった。
「辛いですね、シリアルキラーを相手の捜査は。待ちの捜査だけはしたくないのですが」
 アルにはランツベルク部長刑事の言葉の意味が痛いほどにわかった。そう、このまま手をこまねいて次の被害者が出るのを待ちたくはない。
 バックミラーにランツベルク部長刑事の琥珀の瞳が写っている。漆黒の髪に琥珀の瞳という取り合わせはいささか奇妙ではあったが、その貴族めいた端正な顔立ちとあいまって、ゾッとするほどに美しかった。
 アルはかねてから抱いていた疑問をランツベルク部長刑事にぶつけてみた。
「君はなぜ警察官に?」
「それを聞いたら、警部はきっと私を絞め殺したくなりますよ」
 ランツベルク部長刑事は言って、考え込むかのように車のスピードを落とした。
「警部はジェントリー(郷士)階級出身でいらっしゃいましたね。ならば、少しは理解して頂けるかもしれません」
 やがて再びアクセルを踏む込むと。
「社会を見たかったんです、それも底辺から」
 嫌な人間ですね? バックミラー越しに同意を求められる。否定は出来なかった。
「今となっては思い出せないほど些細な理由から私は大学を中途退学しました。別れて暮らす父が私を西ドイツに呼び戻そうとしましたが、断りました。誰しも自分の苗字と同じ名の土地になど住みたくないでしょう。息が詰まる」
 自分の苗字と同じ名の土地、それが意味する物は明らかだ。……貴族。
「それに英国で暮らす母が私を手放したがらなかった。――市内で警察官募集のポスターを見たのがきっかけです。英国籍、18歳6ヶ月以上、身長172センチ以上、品行方正。幸い、私はその条件を満たしていました」
「それが理由?」
 我ながら安易ですね、ランツベルクは笑って言った。
「一、二年見たら満足するだろうと思っていました。けれど周囲の人間は私を腫れ物に触るように扱う。それを厭って、仕事に注力したら思いもかけず巡査部長に昇格しました。刑事になると同時、特捜機動課に。貴方もご存知でしょう、あそこは特殊です。当初は不思議で仕方がありませんでしたよ。皆どうしてそんなに必死なのだろうと。どうして見ず知らずの人々のためにそこまで自分を犠牲に出来るのか。けれど気付くと私はその熱に飲み込まれていた……」
 唐突に車が止まる。
「貴方もまた熱持つ人の一人です、ハードカースル警部」
 アルは車の外の景色を見て、驚いて顔を上げた。
 車はニュー・スコットランド・ヤード庁舎ではなく、アルの自宅の前に到着していた。送られたのだとようやく気付く。
「焦る気持ちはよくわかります。けれど身体を壊しては始まらない」
 ランツベルクは運転席を出ると回り込み、後部座席のドアを開けた。
「どうかお休み下さい。私も交代で休ませて頂きます」
 アルは複雑な思いで車を降り立った。恐らく部長刑事の言葉は正しいのだろう。わかっていても、一分一秒を惜しむその気持ちをどうする事も出来ない。
「部長刑事、いつになったらこの世から悪はなくなるのだろう」
「私は自分は道具だと思っています。そう、警棒や拳銃のような物ですね。道具は考えません。この世から悪を一掃できると思う人間に付いていくだけです」
 突き放されたように思える発言だが、アルはむしろ肩を押されたように感じた。大丈夫、貴方ならやれますよ、と。
「イーストエンドの吸血鬼。ふふ、白木の杭が必要かな」
「銀の銃弾もご用意いたしましょうか」
 冗談めかしたアルの言葉に、しかしランツベルクは大真面目に返した。

 遠ざかる車を眺めていた、長い事。
 出来るか、ではなく、出来ると信じてやるしかないのだろう。今までがそうであったように、これからも。
 決意を新たに踵を返す。
 その瞬間、頭に激しい衝撃が走り、アルの意識は闇に飲み込まれた――。





 どこか遠くで、楽しげな女の歌声がしていた。
 聞き覚えのあるメロディなのだが、なぜ歌詞の内容が頭に入ってこない。何故だろう。
 暫くしてその理由に気付いた。外国語……。
 見覚えのない寝室のベッドにアルはいた。撲たれた後頭部はズキズキと痛む。横目でそっと歌声のする方角を伺う。
 女が一人、椅子に腰を掛け、歌いながら何かをしていた。自分に注がれる視線に気付いたのか、ゆっくりと振り返る。
 女が手にしているのはぺティナイフと馬鈴薯。皮を剥いた馬鈴薯で一杯のボウルを床に直に置くと、皮剥きの作業を中断して立ち上がった。
「気が付いたようね」
 コツコツコツ、板張りの床に女の靴音が反響する。
 間近で顔を覗き込まれ、アルは絶句した。過去に何百回、何千回と見、尋ね回った顔がそこにはあった。
――リーゼル・ミュラー……。
「このまま意識が戻らなかったらどうしようかと思っていたわ。少し強く叩きすぎたかしら」
 アルはびくりと身を震わせた。女がふいに手を伸ばしてきたためである。女の整った美しい唇に、揶揄するような笑みが掠める。
 女はアルの後頭部に触れ、打撲の具合を確めた。アルはその時初めて、自分の両の手首に掛けられた手錠の存在に気付いた。アルの両手首は二つの手錠でベッドポストに括りつけられていた。両足首も同様にベッドの両端に固定されていた。動かせるのは、掛けられた手錠の鎖の長さの範囲だけ。
「君は……」
 到底自分の物とは思えない、しわがれた声でアルは尋ねた。
「君はリーゼル・ミュラーの娘なのか?」
 女はきっぱりと答えた。
「いいえ、違うわ」
 これは誘拐なのだろうか。
 この女は自分が浮浪者殺しの捜査主任である事を知っているのか。
 知っていたから誘拐した?
 だが、捜査主任一人を誘拐したところで、捜査の進捗に大きな差が出るとは思えない。
 自宅前で警察官を拉致するとは、何という豪胆さか。
「夕食はアイリッシュシチューの予定なの。お好きだと良いのだけど」
 夕食。すっかり時間の概念を失っていたアルにとって、その言葉は貴重な手掛かりだった。
 自分がどれほど意識を失っていたかは判らないが、一日目にしろ、もはや夕刻。自分の失踪は既に騒ぎになっている筈だ。二日目の夜なら尚の事。そしてもう一つ。こちらの方がむしろ大事かもしれない。
 夕食までは生かされる。
「もしもバスルームを使いたくなったら仰って下さる?」
 バスルーム、尿意を催したらの意味か。
 手錠が外されるならチャンスだ。相手は非力な女性。一対一なら、警察官たる自分が負ける筈もない。
 たとえ外されずとも寝室から出られる。家の外の様子もひょっとしたら伺えるかもしれない。
「恥ずかしがる事はなくてよ。私には看護婦経験があるの」
 言外の意味を悟り、アルは戦慄した。





――……怖いわ。怒ってらっしゃるの?

 板張りの薄い壁の向こうで、女が電話を使っていた。
 女は外国人だ。外国人なのに英語を使うのは、電話の相手が英国人だからか、それとも自分に聞かせるためか。

――保険は必要なのよ。だから。

 一体何の保険だというのだろう。

――傷一つ付けずにお返しすると約束するわ。

 仲間割れか。強硬派と穏健派。しかし女が顔を見せたその時から、アルはもはや死を覚悟していた。
 顔を見せた相手(しかも警察官)を黙って帰すとは信じがたい。穏健派の仲間を丸め込むための嘘と考えるのが妥当だろう。
 鎖が許す限り伸び上がったところ、ようやく窓の外を見る事が出来た。見渡す限りの広い牧草地の中に、樫や白樺の林が点在している。
 ロンドン郊外、恐らくは農家。女が自分に猿轡を食まさないところを見ると、近くに民家はないのだろう。農家、……納屋。カルデンシュタインと同じだ。どうしても悪い連想が浮かんでしまう。
 電話を切る音がしたかと思うと、女がいそいそと寝室に戻ってきた。その顔に浮かんでいる表情を見てハッとする。女の顔には不可解な歓喜の色が現われていたのだ。
「ご不便をお詫びするわ。でもその不自由に耐えるのも、少しだけよ」
「それは殺す、という意味だろうか」
 女は手の甲を唇に当てると、高らかに笑った。まるで世にも面白い冗談を聞いた、とでもいうように。
「怖がっていらっしゃるのね。でも大丈夫、貴方は無事に帰してあげる」
「は、と言うのが気にかかるね。その他の人間は?」
「ごめんなさい、コンスタブル。もう手遅れだわ」
 女はやや古風な英語を使った。コンスタブルは城守を意味する警察官の丁寧な呼び名であった。
 アルの瞳から期せずして涙が溢れた。涙を見られぬよう、女から顔を背けた。
 いつも自分はそうだ。いつも――間に合わない。
 やがて女の方を向き。
「君はどうしてそんな恐ろしい事を平気で行えるんだ。君が攫った人々に一体何の罪があるというんだ」
 女の猫を思わせるエメラルドの瞳に見る間に剣呑な光が宿った。きりきりと柳眉を逆立てて。
「貴方は英国人でしょう。私は英国人が大嫌いなの。それ以上不快なお喋りをなさるというのなら、貴方の舌を切り取ってさしあげるわ!」
 アルは臆することなく女を睨めつけた。






つづく
Novel