千の雪が降る 7 |
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無理やり押し込まれた夕食に薬が仕込まれていたのだろうか。冬の夜気の寒さに目覚めると、寝室の扉が開いていた。 開かれた扉の向こうに男が立っていた。廊下より差し込む月の光が逆光となり、顔の分別を難しくさせる。 「まさか彼女が君に手を出すとは思わなかった」 男はゆっくりと歩いて来ると、ベッドの傍らに腰を下ろした。 「彼女の必死さを甘く見ていた。僕の誤算だ」 確めるまでもなかった。あの男だった。 「全部終わった。彼女の望みは叶えた」 窓の外では梟が鳴いていた。夜のしじまを縫って、男の声が静かに響く。 「遊びは終わり。ゲームオーバーだ。夜明けと共に彼女は英国を去るだろう。そして僕も二度と君の前に現れない」 或いは、と思っていた。蜘蛛の巣のような疑惑が胸に広がるたび、懸命にその可能性を打ち消していた。 けれどこれが世にも残酷な真実だった。 「言い訳でもいい。聞きたいと思う私はおかしいですか」 「聞くべきでないと僕は思う」 「ならば私を今、この場所で殺して下さい」 「甘ったれるな!」 男は語気を荒げた。 「君は甘いんだよ、警部。アングロサクソン、英国国教徒、パブリックスクールからオックスフォード、お父上は警視総監? 一点の曇りもない出自、非の打ち所のない経歴。その甘さが憎かった。憎いと思う反面で、堪らなく愛おしかった……」 両の掌に顔を埋め、男は長い間俯いていた。やがて静かに面を上げると。 「僕の言い訳を聞いたら、きっと君は君の信じる正義を貫けなくなるだろう。それでも真実を知りたいと君は言うのかい」 「答えの出ない問いを永遠に抱え続けて生きろと言うのですか。甘いと言われても構いません。真実を知らされないままなら、いっそ殺された方が良い。どうして、どうして貴方が!?」 「それで君が正義を貫けなくなったとしても?」 「何を聞かされようとも、私は私の信じる正義を貫くだけです」 男は当惑したように首を振った。 「教えて下さい。あの女は貴方の何なのですか。リーゼル・ミュラーの娘ではないのですか」 ゆっくりと唇を開き、男は言った。 「娘ではないよ。あれは本人だ」 その瞬間、男が何と口にしたのか判らなかった。 男の驚くべき告白はさらに続いた。 「彼女は五十九歳。そして僕は――、今年で六十五になるんだよ、警部」 男はポケットから鍵を取り出すと、ベッドの上に膝を付いた。 「彼女の気が変わらぬうちにここを出よう。手錠を外す代わりに縛らせてもらうよ」 かちゃり、アルの右手首を戒めている手錠に鍵を差し入れる。 「最初に会った時にはイルゼ・シュミット、次に会った時にはリーゼル・ミュラーと名乗っていた。そして今はエリゼ・シュナイダーだ。イルゼ、リーゼル、エリゼ、全部エリザベートという名から派生する愛称だ。そしてシュミットは鍛冶屋、ミュラーは粉屋、シュナイダーは仕立て屋の意味がある。恐らく本名ではないんだと思う」 鍵を回すと、長い間アルを苦しめていた手錠は呆気なく外れた。 「僕の父がアメリカに亡命したという話は、そうであればよかったのにという、ただの願望だ。僕は1916年にミュンヘンのゲットーで生まれた。父の言い付けに従い、医学博士の学位を取った僕は、その後スイスの大学から招聘を受けた」 開放されたアルの手首を容赦のない力で押さえつけ、右手の手錠を外しにかかる。 「イルゼ・シュミット、彼女はレーベンスボルン計画の中核を担うナチの工作員で、僕は彼女に見出された。当時の僕はベルン大学で教鞭を取っていて、日々苛烈になっていくナチの弾圧の中、アメリカへの亡命を検討中だった」 「レーベンスボルン……?」 「その意味は『生命の泉』だ。ナチスドイツの占領下の国々から金髪碧眼のアーリア人種の特性を持つ子供達を攫い、ドイツ人として育てる。交配によってアーリア人種の特性を持つ子供達を作り出し、ナチの親衛隊員の養子とする。それらが大戦後に発表された計画の概要だった。それだけでも戦慄すべき内容だが、彼らがしようとしていた事はそれだけじゃない」 まるで悪い夢の中にいるようだった。 ナチス、レーベンスボルン、親衛隊、大戦……。 「計画に参加するなら、ナチスは僕と僕の一族の安全を保障すると聞かされ、僕は従った。後になってどんなにこの決断を悔やんだことだろう。僕はナチを甘く見ていた。いや誰しもそうだったろう。なぜなら僕達ユダヤ人は慣れていた、神の試練に」 左手首の手錠を外してしまうと、男はアルを後ろ手に縛り上げた。 「僕は強制収容所内に作られた秘密機関で、来る日も来る日もその研究に従事した。――『虫』と僕は呼んでいた。狂犬病のワクチンと同じ原理だ。人工的に造り出したウィルスで被験者を感染させ、その血液から取り出す『虫』 それを作り出すには少なくとも八人の血液が必要とした」 アルは息を大きく吐くと男を見た。 しかし男はアルの足首の手錠を外す行為に没頭しており、その表情を見る事は叶わなかった。 「『虫』は適合すると、被験者の染色体の鎖に新しい情報を嵌め込んでいく。老化を止め、免疫システムを増大させ、身体能力を驚異的に向上させる効果がある。だがこのウィルスには一つの、そして致命的とも言える問題があった。適合確率は数千人に一人。適合しなければ百パーセント死ぬんだ」 足の手錠が外された。男はさらにもう一つの手錠の鍵穴に鍵を差し込み。 「適性検査の上での実験を提案したが却下された。実験体は毎日毎日貨物列車で届けられる。僕は確率論で投与せざるを得なかった。まさに悪魔の研究だ。一人用の『虫』を作るのに少なくとも八人の血液が必要で、ようやくの事で作り出したそれも適合するのは数千人に一人。それを完全な物にするため、確実に適合させるため、僕は日夜研究を続けた。1944年の成功例はたったの一人。だがナチの上層部に弄繰られた結果、永遠に失ってしまった。1945年に入り、二人の適合者が出た。一人は民族断絶のために収容所入りとなったロマの娘、終戦の直前までは確かに生きていた。その後の足取りは不明だ。もう一人は……」 「私よ」 男が最後の手錠を外したその時、女が足音も立てず戸口に現れた。 「1945年の二月の事よ。おかしいわね、私は自殺するつもりだったのよ。何千人もの実験体が死んでいくのを傍で見ていた私にとって『虫』はごく身近にある毒薬に過ぎなかった。けれど何ていう運命の皮肉かしら。適合してしまったの」 女は笑って言った。 「これを貴方に話すのは初めてね、ディーター。私は貴方に嘘をつくつもりも、騙すつもりもなかったわ。けれども私が思うほどナチは寛容ではなかった……」 「君のせいだとは思っていないよ、クーニゲン。僕の父を強制収容所で灰にしたのは君じゃない、ナチだ」 クー二ゲン、聞いた事のない単語だった。恐らくは仇名だろう。 ふいにアルは思い出した。父親の死をさらりと語った男の手が、しかし小刻みな震えを見せていたことを。 「ドイツが敗北し、収容所からの撤退が決まった時、僕は残る『虫』を全て破棄し、最後の一つを自分に投与した。彼女と同じく自殺を図ったんだ。まさか彼女と同じ轍を踏むとは夢にも思わなかった。だが、これは悪魔的な偶然ではなかった。その事実を知ったのは、それから何十年も経ってから。科学が更に進み、遺伝子情報を把握出来るようになってから」 男はベッドの前に立ち塞がるようにして立った。アルをその背に庇うように。 女は片眉を跳ね上げて男を見た。 「僕と彼女の遺伝子情報は一部が一致していた。遠い先祖がどこかで同じだったんだろう。二人とも『虫』が利く体質だったんだ。だが、きっと君は認めないね、クー二ゲン」 女は冷笑をもってそれに答えた。 「『虫』に関わった人間は何故か罪に問われず、私もまた追われなかった。上層部が研究実験データの一部を用いて連合軍と取引を行ったのだと後に聞いた。そして僕らは西ドイツに潜伏した。十五年の歳月が流れ、そこでようやく気付いたんだ。『虫』の効果は永続的な物ではないと言う事に」 男は皆まで語らなかったが、言外の意味を汲み取るのは容易だった。 『虫』を作り出すには八人の血液が必要。そして、それを必要とする人間は二人。……十六人。 それはカルデンシュタインの女吸血鬼の被害者数と等しく一致する。 それが、真実――。 「僕達は伝説の吸血鬼なんかじゃない。死体の犠牲の元に作られたおぞましい肉体、フランケンシュタイン博士の怪物だ」 「だから殺したのですか。生き長らえるために。十六人もの人間を再び」 「人を殺せば殺人犯と君は言う。だが、六百万人のユダヤ人を殺したナチスは? 五百万人のドイツ人を殺した連合軍は? 大量殺人者の僕の逃亡を許したのは自由の国アメリカで、ナチスの暴挙を見逃したのはヴァチカンだ。僕の最愛の父は強制収容所で灰にされた。狂ったナチスドイツ政権下ではそれは正義だった。正義は、国によって時代によって変わる。そんなあやふやな物を振り翳して、君は一体何をしようというんだ」 「いいえ、違うわ、コンスタブル」 ツイードのジャケットを開くと、女は肩から下げたホルスターからリボルバーを取り出した。室内にさっと緊張が走る。 「生き延びたかったのは私よ。私が彼をこの計画に引き込んだの。乗り気でなかったのは最初から承知、私の我侭を聞いてもらうために貴方を誘拐したの。なのに――、ディーター、どうして貴方は使われなかったの?」 「八人で良かったんだよ、クー二ゲン。君の分だけあれば……、それで良かったんだ。残ったそれは次周期に使うと良い。君の望みは恐らくは神の領域。後二十年の歳月を費やしても、結実しないかもしれない」 「私は貴方に言っておいたわ。後一回で構わないと。それで駄目ならば、潔く諦めましょう」 女は胸の前でリボルバーを構えたまま、ポケットからガラス製のアンプルを取り出した。 聞かずとも判った。あれこそが『虫』なのだろう。 「どうかお使いになって? でなければ、私はこちらの殿方を撃つわ」 「本気かい」 女は無言で撃鉄を起こした。 「それともここで二人一緒にお死にになる? ロミオとジュリエットの」 女は皆まで言うことはできなかった。アルがふっと上体を沈め、同時に前のめりになってベッドから飛び出したのだ。後ろ手に縛られているため、バランスが取り難い。 足がもつれたのがむしろ幸いしたか、アルは肩口から女を巻き込んで倒れた。 「……!」 暴発した銃弾が天井の羽目板にめり込んだ。鼻を付く硝煙の匂いが部屋に漂い――。 零コンマ数秒の早業で、男はアルの手首の結び目を引いて立ち上がらせた。アルが寝室を出ると男がそれに続いた。 廊下を駆け、飛び込んだその先は居間。玄関は右だ! 背後から男が叫ぶ。 その時、車のエンジン音が聞こえた。窓ガラスに当たったヘッドライトが家の中を明るく照らしだす。 玄関の前で急停止したのはパトカーだった。恐らく銃声が聞こえたために動いたのだろう。 手が自由にならぬアルに代わって、男が玄関の扉を開ける。 「警部!」 パトカーのドアを開けたのは、ランツベルク部長刑事だった。運転席に制服警官を伴っている。 玄関から飛び出して来た二人を見、一瞬判断に迷ったか、ドアを開けたまま、凍りつく。 アルの背後で再び扉の開く音がした。 「止まれ! でないと――」 警告と共にランツベルク部長刑事は銃を構えた。銃を扱う事に慣れているヤードの警察官は稀。けれどランツベルク部長刑事はその稀なる警官の一人だった。 が、驚いた事に、女の動きがそれに遥かに勝った。 女がグリップを手で払いのけ、部長刑事の拳銃を弾き飛ばしたのだ。 制服警官が女に背後から飛びかかる。 女は羽交い絞めにしようとする制服警官の腕を引き剥がした。 その細腕で警官を頭より高く差し上げ、勢い良く投げ飛ばした。大柄な警官の身体は弧を描いて宙を飛び、白樺の木立に当たって落下した。 脳震盪でも起こしたのだろうか。警官はぴくりとも動かない。 「見下げたわ、ディーター。犬達を引き連れていらっしゃるなんて」 「尾行を撒くのが面倒だっただけだ。それに奇しくも君が言っていた、保険は必要だとね」 女はジャケットを開き、肩から吊るしたホルスターからリボルバーを取り出した。 「警部の頭を吹き飛ばされたくなかったら動かないことね」 女に弾き飛ばされ、牧草地に転がった拳銃との距離を目測していたランツベルクに女の鋭い声が飛ぶ。 アルの頭に照準を合わせたまま、女はじりじりと後退りを始めた。家の裏手に回り込もうとしているのだろう。そこには二台の車が停められている。 まさに三竦みだった。三人が三人ともそれぞれの思惑を抱えたまま――。 「ディーター、やはり一緒には逃げて下さらないのね」 女の緑玉の瞳に悲しげな光が宿る、けれどもそれも一瞬の事。 「ランツベルク!」 叫んだが、間に合わなかった。女が銃口の向きを変えるなり、ランツベルク部長刑事を撃ったのだ。 致命傷こそ免れたものの、そこには手の甲を抑え、激しい痛みに耐えるランツベルク部長刑事の姿があった。 ランツベルク部長刑事は何事か囁いた。アルにはわからない言葉。けれど女と男が等しく反応を見せたところを見ると恐らくドイツ語なのだろう。 「耳の痛い事を口にされるわね。ランツベルクですって? ランツベルクはご出身地? 同名の戦犯にされた伯爵がいらっしゃったと記憶しているけれど」 「……それは私の祖父でしょう。二ュルンベルク裁判で死刑を宣告されて、刑の執行を待たず獄死したと聞いています」 「おじい様と同じ時代に生まれていたら、同じ事をしないと貴方は言えて?」 整った美しい唇に微笑が掠める。 「でも貴方は無理ね。ナチの高官にはなれない。黒髪は……雑種よ」 ゾッとするような侮蔑を含んだその言葉に、アルはナチスの狂気を知った。 「そして英国は敵性国」 再び銃口がアルに向けられる。 目にも止まらぬ早さで、男がアルに覆い被さった。それと同時、リボルバーの弾丸が銃口から飛び出す。 男は牧草地に崩れ落ちるようにして蹲った。 「いやっ……!」 女は半狂乱で男に近付くと、その膝の上に男を抱き抱えた。白い頬に止め処なく涙が伝って流れ落ちる。 「良いんだ……。良いんだよ、クー二ゲン。どうか、どうかこのまま……」 「馬鹿よ、貴方は大馬鹿だわ。もう、もう寿命は尽きかけているというのに」 「警部、ご無事で――」 アルは急ぎ駆け寄って来たランツベルクの前に、後ろ向きで膝を付いて叫んだ。 「外してくれ!」 ランツベルクは撃たれた傷の痛みに耐えながら、片手で苦労してロープを外しにかかった。結び目が緩むと、アルは自らも加わって縄を解き始めた。 その間、男はずっと光の失いかけた瞳で自分を見ていた。 「そう、それでいいんだ……」 「…………」 「君のような人間が居なければ、……この世……は」 怒れる雌虎を思わせる形相で、女は叫んだ。 「嫌よ! ディーター! たとえ神が私達を許さなくても――」 凄まじいばかりの身体能力を発揮して、女は男を両腕で抱え上げた。そのまま農家の裏手へと向かう。 「私は生き抜いてみせるわ!」 「撃ちます」 警告と共にランツベルクは発砲した。激しい痛みに耐えつつ、しかし狙いは正確の一語。肩を射抜かれ、女の動きが一瞬止まった。だが、次の瞬間、何事もなかったように裏手へと回り込み――。 「馬鹿な……!」 やがてエンジンの掛かる音がしたかと思うと、一台の車が猛然と走り去っていった……。 |
つづく |
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