千の雪が降る 8





 君がこの手紙を読むのは、きっとヤードの調査部やモサドの手によってさんざん手垢が付いた後の事だろう。
 直接渡す方法も考えたが、無事にその手に渡ったところで君は自ら手紙をヤードに提出するに決まっている。だから正攻法で送る事にした。
 いくつか君には判らないままの事があるのではないかと思った。
 答えの出ない問いを永遠に抱え続けて生きるのは辛いと君は言った、だから伝えておこう。

 クー二ゲン――リーゼル・ミュラーと名乗っていた女の仇名だ――について。
 僕は彼女が嫌いではなかった。出会った頃の彼女は美しくて聡明、人気も高かった。
 1960年、彼女が最初の犯行を行った時に彼女の身元が割れなかったのも無理はないだろう。彼女はナチスの優秀な工作員だった。僕が彼女に初めて出会ったその頃から、本名も、素性もすべて謎に包まれていた。
 唯一の手掛かりはドレスデン爆撃だ。彼女が自殺を図ったのは、ドレスデン爆撃の翌日。後年、彼女が自殺を図ったその理由を尋ねたところ、一族のすべてを失ったからと答えた。
 あの愚かしい戦争が終わった後で、皆口を揃えて言ったものだ。あれは美しい街だったのに、残念な事をしたと。彼女は恐らくあの街の生まれだったのだろう。
 それ故に、工作員になる前の彼女を知る人物、記録、その全てが霧散したんだ。
 彼女自身自殺を試みたという話をしていたね。一族を全て失った衝撃で発作的に自殺を図り、だが、生き残ってしまった。世にもおぞましい生体実験の産物として。
 彼女は何のために自分が生き残ったのかと自答したらしい。やがて一つの答えを出した。
「私の一族は全て死に絶えたの。だから残さなくてはならないわ」と彼女は言った。
 遺伝子(ゲノム)だ。
 僕達に子孫を残せるのか。それは僕にも判らない。受精それ自体が神の領域、万が一にも受精したとしても体内で癌化する可能性があるだろう。それを正直に伝えたところ、彼女は笑って言ったよ。
「でもゼロではないのでしょう。私達が数千分の一の確率で生き残ったように」
 それがカルデンシュタインの、イーストエンドの吸血鬼事件の真相だ。

 僕は生きることに飽いていた。彼女はきっと僕が死ぬ気だと見抜いていたんだろう。
 僕を生き長らえさせたくて、あんな暴挙に出たのだろう。
 彼女はひょっとしたら過去に僕を愛した事があるのかもしれない。あるいは彼女が決して認めぬ同じ血の為せる業か。
 だから君を誘拐した。

 自分が特別だったと自惚れないで欲しい。
 僕が好き好んで毎日毎晩同胞を刻み続けていたとでも思うのかい。
 千人は確実、その後は数えるのを止めてしまった。
 僕の手に付いた血は大海の水を持ってしても決して洗い流せないだろう。

 僕にも良心はある。
 だがその良心を殺さなければ生きていけない世界というのは、悲しいかな、やはり存在するんだ。
 願わくば、そんな世界がもう二度と生み出されない事を。

 警部、僕を思って悲しむなど愚の骨頂だ。

 僕は君に興味があった。

 それだけの事だ。





 空港と港は封鎖された。けれども二人は見つからなかった。
 アルとランツベルク部長刑事は正しく証言したが、上層部がそれを信じたかどうかは非常に疑わしかった。
 ランツベルク部長刑事は一ヶ月の入院を余儀なくされた。
「モサドにこってりと事情聴取を受けましたよ、イスラエル諜報特務局。私はあれは『ユダヤの陰謀』的、架空の機関位に思っていたのですが――」
 病院は偶然にもロンドン塔の近くにあった。見舞いに来たアルはランツベルクを誘い、外へと出た。タワーブリッジを見渡すそこは全ての始まりの場所でもあった。
 ややあって、アルは重い口を開いた。
「正式に捜査中止命令が出たよ」
「存じています」
 煙草を差し出すと、部長刑事は礼を言って受け取った。
「――圧力をかけられたのでしょうか。人は科学で説明出来ない事は見ない振りをする。もっとも私もこの目で見なければ到底信じなかった事でしょう。あの、驚異的な身体能力。ナチスが手に入れたがったのも道理ですね」
 アルが口に銜える煙草に煙草の先を触れさせ、ランツベルクが火を移す。ランツベルク部長刑事の貴族らしい端正な横顔には、しかし苛立ちの色が濃かった。
「全てがなかった事に。被害者が浮浪者だから? 人の命に上下はない筈なのに」
 アルの耳に男の言葉が蘇った。

――正義は、国によって時代によって変わる。そんなあやふやな物を振り翳して、君は一体何をしようというんだ。

 人を殺せば殺人罪、自明の理だと思っていた。だが、それは自分が今生きている時代にだけ限られた、あやふやな物に過ぎない。
 人が人を罰する事を、冤罪を畏怖し、この国で死刑が廃止されて十一年。死刑が廃止された事により犯罪は増加した。それは世にも残酷な現実。
 だが、それでも自分は。
 肩に落ちる白い物に気付いて顔を上げる。初雪だった。
「私はいつの日かヤードを変えてみせる。いやたとえ私が志半ばで倒れたとしても、ブラックロックがそこに辿り着いてくれるだろう」
「私は思っています。貴方とブラックロック主任警部はやがてヤードを変えるだろうと。貴方方お二人が同時代に揃ったのはまさにヤードの奇跡です」
「ありがとう」
 顔を上げたその時、視線の隅にある物を見つけ、アルは言葉を失った。
 タワーブリッジの跳ね橋が上がっていた。
「珍しいですね。私も見るのは初めてですよ」
「……部長刑事、少しだけ向こうを向いていてくれないか」





 アルは声を押し殺して泣いた。

――見せてやりたかった。

 子供のようだったあの男に。










 ……テムズの河畔に千の雪が降る。










 一年の後、アルの元に一枚の絵葉書が届いた。
 差出人は空欄、送り主は不明、だがアルはそれに篭められたメッセージを正しく理解した。
 レマンの湖に浮かぶシヨン城。
 それはバイロンの気まぐれの一言が二つの怪物をこの世に送り出した、伝説の地。
 アルはその絵葉書をデスクに飾った。

 彼は使ったのだろうか、『虫』を。
 それとも拒んだまま、最期のメッセージとしてこれを残したのか。

 それを目にするたび、アルは自問する。

 What's the justice? 
 (正義とは何だろう)

 アルはまだその答えを見つけていない。

 見つけた時にまた会えるだろうか。
 言ってくれるだろうか、まるで昨日の続きのように。





――やあ、警部。






つづく
Novel